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破滅を選んだ令嬢は、遠い修道院で罪を赦されぬまま祈り続ける  作者: ぱる子


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最終話 遠く澄み渡る空の下で

 朝の光が修道院の壁面を淡く染めながら、鐘の音が静かに敷地内を満たしていく。いつもと同じ穏やかな朝だった。わたしは寝台から起き上がり、簡素な修道服を身にまとい、小さな窓を開ける。薄い霧が晴れていく中庭には、いつもと変わらぬ落ち着きが広がり、どこからか小鳥のさえずりがかすかに聞こえた。まるで、ここに来てからずっと続いている平凡な一日が、また始まろうとしているのだと告げられているようだった。


 部屋を出て回廊へ進むと、挨拶を交わすシスターたちの姿が見える。ここで暮らすようになってどれだけの月日が流れたか、正確には覚えていないが、わたしの中にあった焦燥は少しずつ薄れていた。決してすべてを赦せたわけではない。だけど、足元を見れば小さな花が芽生え、頭上を見上げれば澄んだ空がどこまでも広がっている。それだけで少し呼吸が楽になるのだと、今になってやっと知ったのかもしれない。


 朝食を終え、皆が日々の作業へ散っていく。わたしも畑や家畜小屋へ向かうところだったが、ふと胸のあたりに触れたとき、胸元の封筒の感触に気づいた。かつて婚約者だった人から送られてきた最後の手紙。いつもは厚手の布で覆ったまま滅多に取り出さないのだが、何かに背中を押されるように、この朝だけはもう一度手紙を読みたくなった。


 わたしは回廊から遠ざかり、敷地の端にある小さな礼拝堂の外壁へと足を運ぶ。ここは人通りが少なく、静かな風が吹き抜ける場所。目の前には石畳の小径があり、その先には鬱蒼とした木々が音も立てずに生い茂っている。わずかな朝陽が木立の隙間を抜け、地面に細長い光の帯を落としていた。修道院の鐘の余韻がまだ空気の中で揺れているような感覚を覚えながら、わたしは手紙を胸からそっと取り出す。


 紙はすでに何度か開いたり閉じたりを繰り返していて、端が少し擦り切れている。便箋に刻まれた文字は相変わらず変わらず、そこに記された言葉の一つひとつがわたしの心に訴えてきた。かつて愛した人――いや、今でもわたしがかけがえのない存在だったと思い続けている、あの人の筆跡。その文字を追うたび、胸の奥に切ない温かさと痛みがない交ぜになってこみ上げる。


「君を救えなかったことを、心から申し訳なく思います」


 手紙の最初に記されたそのフレーズに、わたしは今もなぜかほっとする。わたしを傷つけたのではなく、わたしを“救えなかった”と書いてくれた。わたしこそが彼を追い詰めてしまったのに、それでも彼はわたしを理解しようと最後まで努力してくれたのだ――そう思える言葉に、わずかな救いを見いだすのだ。もちろん、もう戻れない道のりだし、罪を犯したわたしがその優しさにしがみつく資格などない。でも、それでも嬉しかった。幼いころ雨の日に転んだわたしを起こしてくれたように、ほんの少しの温もりを今も感じさせてくれるからだ。


「これで最後にしよう」


 読めば読むほど、胸が苦しくなる別れの宣言。それでも、わたしはその一文に対して無理に抗うことはしない。きっと、この手紙を書いたときの彼は、わたしに向けてほんの小さな思いやりを、そして自分自身を前に進めるための決意を同時に刻み込んだのだろう。それを受け取ったわたしは、確かに一度はぼろぼろと泣き崩れた。あのときの涙は悲痛で、もう生きていく力さえ失いそうだった。でも今は、その涙の先にある「微かな幸福」を少しだけ感じられるようになっている。それがわたしの中で最大の変化かもしれない。


「わたしの幼い恋も、わたしの歪んだ執着も、どこかでは紛れもなく“愛”だったのだわ」


 そう、わたしは自分の罪をひとつひとつ思い返しても、あの雨の日の優しさや、かつて彼を愛した気持ちだけは否定できないと知った。どれほど自分を責めても、そのとき抱いた思いは偽りではなかったのだ。届かなかった愛、行き場を失ってしまった結末。しかし、それを完全に裏切りや憎悪で塗りつぶす必要はもうない。わたしはたしかに彼を想い、そして失った。悲しくても、そこに小さな幸せの形が宿っていたことは否定できないのだ。


 便箋を丁寧に畳み、封筒へ戻す。見ると、この日は雲ひとつない青空が広がっていた。木立の隙間から差し込む光が、修道院の石畳を鮮やかに照らしている。大げさなものではなく、ただ「朝だから晴れているだけ」と言われればそれまでかもしれない。それでも、わたしの瞳に映るその空はどこまでも澄み渡り、まるでわたし自身の行く末をほんの少しだけ明るくしてくれているようにも思えた。


 遠くで子どもの声が響く。どうやら雑務を手伝う年長の子が、もう作業を始めているのかもしれない。わたしは苦笑しながら、手紙を胸にしまい込んだ。いつまでもこうして動かずにいては、今日の仕事を終えられない。わたしは大きく息を吸い込むと、軽く背筋を伸ばす。自分の未来が、ここから先どうなるかはわからない。それでも、もう過去にしがみついては泣き崩れるだけの日々ではない。わたしは小さな奉仕を通じて、誰かの役に立つかもしれない。それだけで、薄っすらとした生き甲斐みたいなものを感じられるから不思議だ。


「それでも、あの人を好きでいられたことは……わたしの誇りだったのかもしれない」


 小さくつぶやいた声は、誰の耳にも届かない。わたしは自分の声にさえ戸惑いながら、けれど確かにそう思えたのだ。破滅に至るまでの狂気も、過ちも、すべてを否定しきれない。けれど、その奥底にあった幼いころの純粋な思いだけは、確かにわたしを支えてくれた。もし自分があの人を何も感じずに過ごしていたら、わたしはもっと早く心が壊れていたかもしれない。あの短い優しさと愛が、いまのわたしをこの世界に留めているのだという気さえする。


 高く晴れ渡った青空の下、ゆっくりと頭を上げる。生きていく場所はここ、修道院だ。公爵家の華やかさも、社交界の喧騒も、いまはもう手の届かない遠い世界の出来事。あの娘がどう暮らしているのか、彼がどんな未来を築いているのか、わたしには知る術がない。でも、それでいいのだと悟る。わたしが関わらずとも、彼らはきっと幸せになれるはず。わたしはここで、誰も傷つけない小さな日々を重ねる。それが、わたしが新しく見つけたささやかな救いの形。


 そう考えていると、軽く吹き抜ける風が肌をくすぐり、髪の端をそっと揺らした。まるで誰かがわたしの肩をなで、前へ進めと促しているように思える。大きく息を吐き出しながら、わたしは微かに微笑み、修道院の子どもたちが待っている場所へと歩を進める。かつてわたしが夢見た華やかな未来とは違うけれど、ここでの日々は穏やかで、何者でもないわたしが少しずつ呼吸を取り戻していく過程なのだ。


 かつての手紙を胸元に感じながら、瞳を閉じれば、遠い記憶と幼い日の愛が鮮明に浮かぶ。もう二度と戻らないあの日々が、今のわたしを別の形で支えていると気づく。たとえ愛が届かなかったとしても、わたしはあの人を好きでいられてよかった――悔しくて、悲しくて、痛ましいすべてを抱え込んだ末でも、そう思えることが、きっとわたしに許された小さな幸せなのだろう。


 遠く澄み渡る空を見上げる。手を伸ばしても何も掴めないけれど、そこには限りなく広がる青がある。その青の下で、わたしはこの修道院で生きていく。貴族の地位や富を失っても、守りたかった人を失っても、それでもわたしはわたし自身を捨ててはいない。罪は消えずとも、こうしてわずかに笑える自分を受け入れる。それがきっと、わたしの“これから”なのだ。


 やがて近くの鐘楼から、また小さく鐘が鳴る音がした。朝から昼へ向かう、ささやかな合図。わたしは足もとに咲く小さな花を見つめながら、一歩を踏み出す。光の差す方へ、わたしの新しい日常が広がっている。大きな救済でも逆転劇でもないけれど、それでもこの静かな救いが、わたしにとってはかけがえのない一歩なのだ。いつか完全に自分を赦せる日は来ないかもしれない。それでも、あの日々と彼を愛せたこと、それ自体がわたしの中に優しい種を残している。そう信じられるだけで、もう少し頑張って生きてみようと思う。


 澄み切った空には、雲ひとつない青がどこまでも続いていた。心に宿る苦しみも後悔も、今はこの青を仰ぐことでわずかに溶けていく。だからわたしはもう一度、胸元を軽く押さえ、顔を上げる。泣いていたわけではないのに、頬に何かが落ちているのを感じる。涙かもしれないし、もしかするとわずかな水滴かもしれない。でももう、深くは考えない。わたしは唇をきゅっと結び、小さく息を吸い込んでから、再び歩き出した。


 遠く澄み渡る空の下、わたしは人生を終わらせずに生きていく。失ったものは大きいけれど、その代わり、こうして小さな温もりとともに日々を重ねていけるなら、それはまぎれもなくわたしの救いなのだろう。いつかまた、自分に素直に微笑める日が来るのかもしれない――そんなかすかな予感を抱きながら、わたしは光の中へ溶け込む修道院の回廊を、静かに、けれど確かな足取りで進んでいった。


(完)

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