第12話 届いた手紙と決別の宣言
淡い朝日が石造りの修道院の壁を照らすころ、わたしは外庭の掃き掃除をしていた。いつもなら、誰とも言葉を交わさずに淡々と作業を済ませるのだが、その朝は小走りで近づいてくる若い修道女の姿が目に入る。彼女はわたしを見つけると少し緊張した面持ちで近づき、息を整えながら声をかけてきた。
「ここに……あなた宛ての手紙が届いています」
差し出された封筒を見た瞬間、胸がぎゅっと縮むような感覚に襲われる。ひと目で分かった。その封筒には、わたしが何年も見慣れていた家紋が押されている。公爵家やわたし自身の紋章ではない。――かつて、わたしに婚約者として寄り添ってくれていた、あの人の家の紋だ。長らく目にすることのなかった懐かしさが、突然わたしの心を乱しにかかる。
「……ありがとうございます」
わたしはかろうじて礼を述べるものの、呼吸がうまくできなくなる。修道女が「どうかなさいました?」と訝しむ視線を向けてきたが、わたしは首を振って何事もないふうを装い、封筒を握りしめた。そのまま黙って作業を続けることなど到底無理だった。わたしは手にした箒をそっと壁際に立てかけると、「少し休息をいただきたいのですが……」と頼み、修道女の許可を得て作業場を離れた。
まだシスターたちは各々の朝の勤めに追われていて、人のいない回廊はひんやりと静まり返っている。そこで足を止めたわたしは、封筒の表面をさするように見つめながら深呼吸をした。こんなに震えている自分が信じられない。これまで、あの人のことを忘れようと必死になりながらも、実際には心の奥底で彼を思い続けてきたという証拠なのだろう。破滅の直前まで追い詰めた相手に、いまさらどんな形で接すればいいのか――考えるだけで息苦しくなる。
いったん部屋に戻ろうかとも思ったが、足が重くて動けない。結局わたしは回廊の隅にある小さな窓際に腰を下ろし、その手紙を開けることにした。息を詰めて封を切り、折り畳まれた便箋をそっと広げる。そこには丁寧な筆跡が並んでいて、一文字一文字を追うたびに胸が軋むような痛みが走った。
「君を救えなかったことを、心から申し訳なく思います」
最初に綴られていたのは、そんな言葉だった。目を疑う。――救えなかった? あれほどわたしが彼と周囲を踏みつけ、すべてを壊したのに、それでも彼は自分の非を認めているかのような表現で始めていたのだ。わたしは唇を噛みながら、次の文へ視線を進める。
「きっと君は、今も苦しみを抱えたまま、遠い場所で暮らしていることだろう。わたしも、あの夜会以来、君の姿を見ていない。――あのときは言葉も見つからず、ただ結論を突きつけるしかできなかったけれど、本当はもっと早く気づくべきだった。君が何を求め、なぜあんな手段に走ってしまったのか、その背景を察してやれなかったのはわたしの甘さです」
あの夜、わたしの策略がすべて露見し、婚約を解消されることになった場面が頭をよぎる。彼は怒りと失望をにじませながらも、結局わたしに対して大声を上げることはせず、静かに「もう無理だ」と告げて去っていった。あのとき、わたしの存在など完全に断ち切ったと思っていたのに、この手紙からは彼の後悔にも似た思いが伝わってくる。
「わたしはあのとき、君を責めるしか術を知らなかった。でも、本当は自分が君を見失っていたのだと、あとになって痛感しました。君があの日々にどれほど孤独を抱えていたのか、なぜ助けを乞えなかったのか――おそらく君はわたしの優しさを期待しながら、その一方で見捨てられることを恐れていたのでしょう。結果として、君を追い詰めることになってしまったのは、わたしの未熟だったのかもしれない」
文面は静かな告白ともいえる。わたしはその一文一文を追うだけで、体が震え出す。まさか、ここに来て「わたしのせいだったかもしれない」と言われるなど、想像したこともなかった。わたしの愚かさ以外に原因などあり得ないと思っていたし、実際そうだと今でも思っている。けれど、彼の視点からすれば、あのときのわたしをどうにか救いたかった気持ちがあったということだろうか。
わたしは乱れ始めた呼吸を整えようと試みるが、文字を追う指先が震えて止まらない。文面はさらに続いている。
「けれど、今さら何を言おうと、君が失ってしまったものは戻らない。わたしが君を責め、婚約を解消した事実も覆せない。君をそんな道へ走らせてしまったのはわたしの責任でもあり、君自身の選択だったという厳然たる事実がある。だから、これで最後にしよう。あのとき終わらせるしかなかった関係を、今度こそ本当に終わらせたい。そうしなければ、君もわたしも、いつまでも互いを呪縛し続ける気がする」
わたしは思わず目を閉じる。「これで最後にしよう」――それは、彼がわたしに別れを告げる決定的な文言だ。とはいえ、もうすでにわたしは婚約を解消されている。法的にも社会的にも、わたしたちの関係はとっくに終わっているはずなのに、それでもこうしてわざわざ手紙を寄こすのは、何かしらお互いに未練があったからなのだろう。彼もまた、自分の中にくすぶる思いを精算したくて、手紙を書いたのかもしれない。そんなことを考えると、切なさとわずかな安堵が同時に胸を突き上げてくる。
「君と過ごした幼い日の記憶は、わたしにとっても大切な宝物です。だから、君を救えなかった後悔も、きっと一生背負うでしょう。でも、わたしは新しい人生を歩み始めたい。君にも、ここで人生を終わらせてほしくないのです。赦されないかもしれないけれど、願わくは君が穏やかに日々を過ごせますように」
わたしは読み進めるうちに、だんだん涙がこぼれてくるのを止められなくなる。彼もあの雨の日の記憶を宝物だと言ってくれている。わたしの幼い執着の原点になったあの日々を、彼もまったく無意味だとは思っていなかった。わたしが自分ひとりで作り上げた愛情だと思いこんでいた時間に、彼なりの大切な瞬間があったのだ。それを知っただけでも、心のどこかが救われる気がする。
だが、それでも手紙の結末ははっきりしていた。もう二度と、わたしたちはやり直せない。彼はわたしを許す気も、やり直す気もない。ただ、自分を縛ってきた後悔から解放されるために、この手紙を送ってきたのだ。わたしのほうも、きっと同じなのだろう。ここで彼の言葉にすがりつくことはできないし、するべきではない。そもそもわたしには、そんな資格などないのだから。
「……終わり、なのね」
声が震え、便箋を握る手の力が抜けていく。いつか妄執のように望んでいた「彼との未来」は、とうに打ち砕かれたけれど、ほんのどこかで「いつかまた顔を合わせれば、何か変わるかもしれない」という期待を抱いていた。そんな淡い希望が、手紙の一言一言によって粉々にされていく。しかし、不思議なことに、頭の中を支配するのはすさまじい悲しみだけではなく、かすかな安堵が混ざり合った感情だった。これでもう、わたしは彼に執着して苦しまなくてもいい――どこかでそんなふうに思えるのだ。
泣きながらも、喉の奥で小さな笑いが混ざる。わたしは自分の手で、あの人を取り返しのつかないところまで追い詰めておきながら、今さら救われたような気になっている。この身勝手さはどうしたことだろう。けれど、彼が最後にかけてくれた「君も穏やかに日々を過ごせますように」という言葉は、過去のわたしが切望していた愛情のように感じられて、どうしようもなく胸に染みる。
「わたし……あなたをどこまでも巻き込んでいたのね……」
涙が頬を伝って滴り落ち、手紙の文字をわずかに滲ませる。あわててハンカチを探して拭いながらも、止めどなく込み上げる涙は止まらない。わたしの愚かな行為が、どれほど彼を苦しめたかを思うと、今さら謝っても足りるはずがない。それでも、彼は「君を救えなかった」と書いてくれた。そんな懐の深さに、どんな言葉で報いることができるだろう。
そして、文面の最後には「これ以上、君を思い煩うことはわたしにはできない」というきっぱりとした別れの言葉が綴られていた。そこには、もう二度と振り返らないという強い意志を感じる。わたしが壊した関係を、彼は最終的に断ち切り、前を向いて歩き出そうとしているのだ。それが、わたしのささくれだった心にとどめを刺すようでありながら、同時に自分もまた進まなければという決意を生み出すきっかけになっていた。
「ありがとう……さようなら」
便箋を両手でそっと包み込みながら、わたしは誰にも聞こえないようにそう呟いた。もしこれがあの人との最後のやりとりなら、わたしはもう二度と過去に縋るわけにはいかない。これまで、修道院での労働をこなしながらも、どうしてもあの人への執着の欠片を心の奥で捨てきれずにいた自分がいる。だが、それを続けていては、自分が何のためにここにいるのかすら見失ってしまう。
「もう、わたしはあなたを想い続けることをやめる。――それが、せめてもの償い……」
涙を拭い、ゆっくりと立ち上がる。封筒と便箋を手に握ったまま、わたしはしばし回廊の柱にもたれかかって空を見やる。修道院の中庭にはいつもと変わらぬ静寂が広がっていて、遠くから風に乗ってシスターたちの祈りの声が聞こえてくる。あの世界とは違う、地味で素朴なこの景色が、わたしの新たな日常になるのだ。そこへ、わずかに入り込む温かな光が、かすかな救いを感じさせる。
わたしは決意する。もう彼に救いを求めることはしないし、再び自分の過ちを正当化しようとも思わない。ただ、この修道院で生きていく。それが、わたしにとっての罰であり、同時に最後に残された道なのだ。彼の手紙はその道を後押ししてくれたと言ってもいい――ずっと抱きしめてきた幼いころからの理想や執着を、ここで手放すために。
「いつか、本当にわたしが自分を赦せる日が来るかはわからないけれど……」
そう呟きながら、手紙を折り畳み、そっと胸元へしまう。捨て去ることはできないが、いつまでも見返していては前へ進めない。きっと、どこかで折り合いをつけながら、この修道院で自分の存在を認めていくしかないのだ。わたしは震える呼吸を整え、小さく頷いてみせる。――これで区切りをつけよう。愛した人への執着を手放して、今はただ生き延びる。
気づくと、回廊の先からは子どもたちが笑い声を上げながら駆けてくる姿が見えた。無邪気な笑顔は、わたしの罪も背景も何ひとつ知らない。それでも、彼らのそばで何か役に立てることがあるのなら、わたしはこの場所で小さく働く意味があるのかもしれない。たとえそれがとてもささやかであっても、かつての自分では想像もしなかった小さな一歩なのだ。
「もう、戻れない。けれど、それでも進むしかないのね……」
手紙を受け取ってから、わたしの中で一つの時代が静かに終わった気がする。戻らない過去と、届かなかった愛。わたしが壊してしまった未来への道を、今さら繕うことはできない。けれど、彼の一言があったからこそ、わたしは修道院でこの先を生き続ける決意を固めることができる。失ったものはあまりにも大きいが、せめてこの場所で穏やかな日々を積み重ねることが、わたしの唯一の救いになるのだろう。わたしは涙を拭ったまま、回廊を歩き出す。心の中にある重い鎖が、ほんのわずかだけ軋む音を立てながら外れかけているのを感じていた。




