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破滅を選んだ令嬢は、遠い修道院で罪を赦されぬまま祈り続ける  作者: ぱる子


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第11話 質素な日々と見えない救済

 翌朝、礼拝の鐘がまだ薄暗い修道院の敷地に鳴り渡るころ、わたしは硬い寝台の上で目を覚ました。肌寒い石造りの部屋に照明はなく、小さなろうそくの残り火がかすかに揺れているだけ。小窓の外はまだ夜の名残をとどめていて、完全に明るくなるにはもうしばらくかかりそうだった。それでも、外から聞こえる鐘の音は容赦なく朝の始まりを告げている。


 修道院での一日は、この礼拝の鐘によって始まるらしい。寝台から下り、冷たい床を踏むと身震いしそうになるが、慣れない膝丈の質素な修道服を羽織ると、わたしは部屋を出て回廊へ向かった。まだ眠気が残るまぶたを擦りながら扉を開けると、石畳の廊下にはいくつかの人影が静かに動いている。祈りを捧げるシスターたちや、既に雑務に取りかかっている若い修道女の姿。彼女たちは一瞬わたしに視線を向けるが、特に言葉をかけることもなく、それぞれの作業へ戻っていった。


「……こうして始まるのね」


 胸の中で静かにつぶやく。かつて公爵家で暮らしていたころは、朝といえば使用人が部屋へ入ってきてドレスや朝食の準備をしてくれたものだ。部屋から出れば迎えてくれる者がいて、必要があれば側仕えが手を貸してくれる。けれど、ここでは何もかもが違う。誰もわたしを特別扱いしないし、むしろ多くのシスターがわたしに興味を持たないように接してくる。きっと、世俗の身分や家柄など、ここでは意味を持たないのだろう。


 礼拝堂へ向かうように指示され、わたしも石床を踏んで進む。すでに数人のシスターたちが集まっており、祭壇の前で一斉に祈りを捧げる声が聞こえてくる。彼女たちの姿勢は実に厳かで、その姿を見ているだけで背筋が伸びる思いがした。わたしも見よう見まねで跪いてみるが、真似しているだけで心が落ち着くことはない。むしろ、自分がここにいる場違いさだけを痛感して、居心地の悪い気持ちが増していく。


 短い礼拝のあと、シスターたちは朝食の準備へと向かった。わたしは誰に声をかけられるでもなく、あまりの所在なさに呆然と立ち尽くしていると、一人の老年の修道女が眉根を寄せながら「着いていらっしゃい」と促してきた。やや厳しい目をしているが、その声には不思議と温かみが感じられる。わたしは小さく頷き、彼女の後を追う形で食事の場へ向かった。


 修道院の朝食は、薄いスープと堅いパン、そして少しの野菜が刻まれた副菜だけという質素なものだった。華やかだった社交界の饗宴や公爵家の豊かな食事とはまるで別世界。しかし、シスターたちは皆慣れた様子で手を合わせ、静かに食事を進めている。わたしも席を与えられたので、恐る恐るスプーンを口へ運ぶと、味は淡泊で驚くほど素朴だった。苦いとも思える野菜の味が舌を刺激し、瞬間的に違和感を覚えるものの、体にしみこむような温かさもある。わたしはなかなか手が進まなかったが、何とか飲み下しながらこの場所で生きていくしかないのだと改めて感じさせられた。


 朝食後は決まった日課として、修道院の周囲を掃除したり、畑の手入れを手伝ったりといった雑務が割り当てられる。ここには多くの孤児や身寄りのない子どもも受け入れられているらしく、シスターたちが彼らの面倒を見ながら農作業や家畜の世話をしているらしい。わたしにも、当然のように作業が割り振られた。畑の草むしりや家畜小屋の掃除など、泥や埃にまみれる仕事だ。


「わたしが、こういうことを……」


 最初は戸惑いと苛立ちが入り混じり、胸の中がざわついた。公爵家で育ったわたしにとって、土を触り、汚れた雑巾を握り、腰をかがめて小屋を掃除するなど、まるで想像もつかなかった日々だ。体はあっという間に汚れ、手はひび割れそうになるほど冷たい。腰は痛むし、服の裾や髪は汚れが付着しっぱなし。ときどきキツい獣のにおいが鼻を突き、思わず吐き気をこらえる瞬間さえある。けれど、誰もそんなわたしを気遣うことはない。あの老年の修道女が「そんな顔をしてどうするの」と言いたげな目で見てくるだけだ。


 しかし、何日か繰り返すうちに、わたしはほんの少しだけ落ち着きを取り戻していった。土の感触や、汚れる作業に嫌悪感を覚えなくなったわけではない。それでも、体を動かしていると考え込む時間が減るのだ。たとえ憂鬱な作業でも、黙々と手を動かしている間だけは、失った過去や自分の愚かさを一瞬だけ忘れられるような気がする。皮肉なことだが、そうした労働がわたしをやや強制的に現実へ引き戻しているのかもしれない。


 ある日、羊小屋の掃除をしていると、小さな男の子が興味津々に近寄ってきた。まだ幼いらしく、しゃがみ込むわたしの肩越しにじっと覗き込んでいる。わたしが視線を向けると、彼ははにかむように笑った。


「姉様、ぼく手伝おうか?」


 わたしは思わず息をのんだ。姉様などと呼ばれるなど、生まれて初めてのことだったからだ。公爵家では「お嬢様」と呼ばれ続け、周囲からひそかに畏怖されてきた自分が、見ず知らずの子どもにこんな風に言われるとは思わなかった。思わず「そんなこと、あなたにはできないでしょう」と拒みかけたが、子どもの瞳があまりにも純粋なので、言葉が出ない。結局わたしはぎこちない笑みを浮かべ、「大丈夫……ありがとう」と、小さく首を振るにとどめた。


 すると、その子は「そっか」と頷き、小さな手をわたしのひざの横に添えて、綿ぼこりを掴むのを手伝い始めた。予想外の行動にわたしは驚き、思わず止めようとしたが、子どもはまったく意に介さず、嬉々として畜舎の中を覗き込んでいる。その姿に、わたしの胸がちくりと痛んだ。まるで、大人の事情を何も知らない幼子の無邪気さが、わたしにとっては眩しすぎたのだ。


「あなた、こんなところにいたら、服が汚れてしまうわ」


 わたしが注意すると、その子は「あー、平気だよ。いつも汚れてるもん」と笑う。その言葉に、わたしは強い違和感を覚えた。公爵家で育ったわたしには、“服を汚さないようにする”のが当然の作法だったからだ。でも、この子にとっては汚れなど日常の一部であって、気にするほどのことではないらしい。思わず、「そう……」と小さく返すことしかできなかった。


 やがて作業を終えると、子どもはわたしに向かって「ありがとう」と笑い、ついていた埃を払ってくれる。わたしは当惑しながらも、「いえ……」とだけ答えた。こんな些細なやり取りですら、心がざわつく。優しさに触れることが久しぶりすぎて、感謝の言葉をどう受け止めればいいのかわからないのだ。わたしはまだ、ここでの暮らしに対してすら警戒を解ききれないまま、次の作業へ移った。


 そして、夜になると一日の仕事を終え、再び質素な夕食を取り、短い祈りの後、各自の部屋へ戻ることになる。静まり返った石造りの修道院で、わたしは寝台の上でひそかに一日の出来事を振り返った。子どもやシスターたちの無垢な振る舞いは、どこかわたしの心をかき乱す。彼らはわたしの素性や過去の罪など知らないはずだが、それでも自分には愛される価値などないと思い込んでしまうのだ。わたしはすべてを失ったのだから、彼らのささやかな優しさを受け止める資格などない――そう強く思ってしまう。結果として、彼らがどんなに手を差し伸べようとしても、わたしは思わず身をすくめてしまうのだ。


「……これは、わたしが受けるべき罰。ここで、こうしているのが当然」


 そんな言葉を噛みしめながら、部屋の隅に置いたわずかな荷物を見つめる。公爵家の紋章の刻まれた小さなアクセサリーが、ひとつだけかろうじて紛れ込んでいたが、見るたびに胸が苦しくなる。飾りの大きな宝石はとうに取り外され、ただ金属の土台だけが残っているそれは、輝きや美しさなど失われた今のわたしそのもののようだった。


「公爵家の娘としての誇り、すべて置いてきたのだから……」


 自分でそう決めておきながら、心はまだ拭いきれない未練で揺れている。豊かで華やかな世界で育ち、一度は最高の立場を夢見ていた自分。それが今や、名ばかりの追放者として、聖なる修道院に身を寄せているのだから皮肉な話だ。わたしは罪人としての意識を捨てきれず、なかなか心の平穏が訪れることはない。


 それでも、翌日からまた同じような日々が繰り返されるうちに、わたしは少しずつ作業の流れを覚えていった。朝の礼拝、質素な食事、農地の手入れや家畜の世話。日は暮れ、簡素な夕食と祈り、そして部屋へ戻る。まるで歯車のように同じサイクルが毎日繰り返されるが、その規則正しさがかえってわたしの頭を空っぽにしてくれるときもある。そうした中、ふとした瞬間に見える子どもの笑顔や、作業を手伝ってくれるシスターの気遣いが胸を温かくするのも確かだった。


 しかし、わたしはまだその温かさを素直に受け止められない。夜になるたび、寝台で一人悶々としながら、「こんなわたしが誰かの好意を受け入れていいはずがない」と自己否定の言葉が頭を巡る。むしろ罰として、わたしは一人で傷を抱えて生きていくのが当然なのだ――そう思わなければ、自分がやってきた過ちの重さに対し、申し訳なさで潰れてしまいそうになるからだ。


「わたしが……こんなにも弱いなんて」


 かつては公爵家の娘として、誰よりも強く気高くあるべきと教えられてきたはずなのに、今はまるで脆い人形のように怯えながら日々を送っている。この修道院が差し伸べるかもしれない優しさにさえ、心を閉ざしてしまう自分が情けなかった。


 それでも、日に日に変化がないわけではない。例えば、少し前までは決して触りたくなかった泥や畜舎の汚れも、今では手を伸ばせるようになった。草をむしる感覚や、羊の餌を運ぶ行為の中に、わずかながら実感がある。――こんなわたしでも、体を動かして働けば、誰かの役に立てるかもしれないと。それは考えてみれば、身分に関係なく誰しも持てる小さな自信なのかもしれない。


 だが、それ以上の希望を抱こうとすると、頭に浮かぶのは決まって「わたしにはその資格がない」という呪縛の言葉だ。あの娘を追い詰め、彼の心を傷つけ、公爵家の名誉を汚したわたしが、どうして優しさに救われるなどと考えられようか。胸に深く刻まれた後悔が、その都度わたしを強く打ちのめす。


 こうして、わたしの修道院での日々は質素な食事と厳粛な祈り、泥まみれの労働によって形作られていった。子どもたちやシスターたちの気遣いが時折わたしの孤独を和らげそうになるが、そのたびにわたしは身を引き、無理に笑みを作ろうとさえしない。なぜなら、わたしこそが他人の笑顔を壊してきた張本人だと、心が繰り返し警告してくるから。温もりを受け入れるより先に、自分が背負う罰に縛られてしまう。


「きっと、このままなら……誰も傷つけることはない」


 そんな安易な思いが、わたしを修道院の落ち着きへと逃避させているのかもしれない。ここでは身分も評価もない。ただ黙々と働き、祈りを捧げるだけの日々。わたしがもはや社交界や愛する人のそばに戻れないことを実感しながらも、その喪失を痛感するたび、どこかで安堵しているのだろう。そう、もう余計な争いや恨みなど生まれようがない。この閉ざされた空間こそ、わたしに与えられた最大の罰であり、同時にささやかな救済なのかもしれない。


 そう納得しかけながらも、胸の底にくすぶる後悔と罪悪感は、いまだ消え去る気配がない。夜の帳が降りる頃、キャンドルの灯火で薄暗い回廊を通って自室へ戻りながら、わたしはしばしば小さく息をつく。先ほど子どもたちが「おやすみなさい」と笑顔で声をかけてくれたのに、わたしはろくに返事すらできなかった。ほんの一言でも笑って返せれば、彼らは喜んでくれたかもしれない。でも、それは偽りの笑顔になってしまう。まるで自分が救われようとしているみたいで、そんな演技などできるはずがない。


「わたしは、ここで朽ち果てる。それがきっと、当然の結末」


 そう自分に言い聞かせながら、わたしは部屋の扉を閉じる。石壁に囲まれた狭い空間が、最近はどこか心地よくも感じる矛盾がある。何もなく、誰も訪れない。わたしはほんのわずかのろうそくの明かりを頼りに、薄暗い中で自分の手を見つめた。かつては美しく保たれていた指先は、今では薄汚れや小さな傷が絶えない。それは、わたしの誇りも同時に剥ぎ取られていく過程のように思えた。


 その剥き出しになった醜い心をどうするか。それすらわからぬまま、修道院での質素な日々は続いていく。いまだにわたしは、そこで差し伸べられようとしている優しさをまっすぐ見つめることができない。誰かの温情を受け取る資格などない、と頑なに思い込んでいる。にもかかわらず、子どもやシスターが忘れた頃にわたしへかけてくれる声は、知らず知らずのうちに心の一部を温めようとしているのだ。わたしは自分の目を閉じ、そのぬくもりを拒むことでしか、過去の罪と向き合うすべを知らなかった。だからこそ、しばらくはこの苦い日々を甘受するほかないのだと、改めて自分へ言い聞かせるのだった。

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