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破滅を選んだ令嬢は、遠い修道院で罪を赦されぬまま祈り続ける  作者: ぱる子


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第10話 修道院へ――失意の旅路

 朝の光が微かに差し込みはじめたころ、わたしは狭い馬車の中で目を覚ました。というより、実際にはほとんど眠ってはいなかった。頭の奥にわだかまる鈍痛を抱えたまま、わたしは膝の上で手を組んだままの姿勢で夜をやり過ごしていたのだ。周囲には誰の気配もなく、聞こえるのは車輪が軋む低い音と、時折そっと嘆息をもらす御者の声だけ。重苦しい空気を引きずるようにして、この馬車はゆっくりと揺れ動いていた。


 失意の底に沈んだわたしを、ここまで運んでいるのは修道院へ向かう手配馬車だ。いくばくかの荷物と、最低限の身のまわり品。それだけを詰め込んで、公爵家の門を出て以来、わたしはほとんど言葉を発していない。父と母がわたしを修道院に放り込むことを決めたのは、夜会での醜態をさらした翌日のことだった。「これ以上、公爵家の名誉を損なうわけにはいかない」と、わたしに弁明の機会すら与えずに追放する。事実上、それがわたしに残された唯一の選択肢だった。


「……もう戻れないのね」


 心の中で繰り返してみるものの、その実感はあまりにも曖昧だ。かつて住み慣れた豪奢な屋敷、見慣れた使用人たちの顔。そして何より、愛する人の姿をどこかでちらりと感じるような、あの華やかな空気――二度とあの世界へ足を踏み入れることはできないのだとわかっていても、まだ身体の奥に染みついた感覚が離れてくれない。わたしは何度か瞬きを繰り返して、馬車の小さな窓から外の景色を見やった。


 窓の外には、荒れ果てた灰色の道が延々と続いている。木々はまばらで、土地も痩せているのだろう。風が吹くたび、舞い散る細かな砂埃が視界を霞ませる。こんな風景を目にするのは初めてだった。王都の華やかな街並みや、公爵家の手入れされた庭園しか知らないわたしにとって、ここはまるで異世界のようだ。人影はまばらで、ときおり腰に籠を下げた行商人や、田舎風の衣服をまとった農夫が通りかかるだけ。彼らはわたしの乗る馬車を興味深そうに見つめていくが、その眼差しはどこか冷めている。


 わたしは、できるだけ彼らと目を合わせないように視線を下げる。引き裂かれたように傷ついた心を隠す手段など知らないから、もし相手が同情や好奇の混じった顔を見せてきたら、それだけで崩れ落ちてしまいそうだった。だから馬車の硬い座席に体を預け、ただじっとしている。時折、揺れのせいで頭が窓枠に当たり、鈍い痛みが走るが、わたしは声もあげない。むしろその痛みすら、自分がまだ呼吸をしている証拠のように思えて、どこか安堵さえ覚える。


「……わたしは、何をしてしまったんだろう」


 小さくつぶやく声は、馬車の轍音にかき消されて、自分の耳にすらはっきりとは届かない。幼いころから抱き続けた執着と、愛に飢えたがゆえの行動。その結果、婚約者の心を踏みにじり、公爵家の威厳も泥まみれにしてしまった。わたしの過ちが重なり、すべてが露見した瞬間のことを思い出すと、胸が苦しくなる。結局、あの雨の日に出会った優しい人を裏切り、そして大切なものを片端から壊してしまったのだ。


 それでも、あのときのわたしは「こうするしかない」と思い詰めていた。彼を奪われるくらいならどんな罪だって背負いたい――その狂おしいまでの思いが、わたしを突き動かしていたのだ。でも今となっては、何もかも手遅れ。ここにあるのは、後悔だけ。どこへもぶつけようのない後悔が、わたしの体の中心に重く沈殿して、途方もない孤独の影を落としている。


 馬車ががたつきの激しい小道へ差しかかると、車体が大きく揺れ、わたしの背中が座席から浮いた。ガタンという衝撃に合わせて、わたしは咄嗟に荷物を掴む。ほんのわずかな衣服と、本や筆記道具だけが詰められているそれは、今やわたしの唯一の持ち物だった。公爵家を出る際に、母がわざわざ選んでくれたものではない。使用人が慌てて形だけまとめてくれた荷造りだ。まるで「修道院に行くならこれで十分」と言わんばかりに最低限の品しか入っていない。その冷たさを思い出すたび、わたしはこころが凍えるようだった。


 道はさらに険しくなり、午前中のうちに修道院へ着けるはずが、午後までずれこむことになったらしい。御者が何度か「道が悪いもんでねえ」と愚痴る声を耳にするが、わたしはそれに応えることもできない。やがて大きな木が群生する森の入り口を抜けるころ、休憩のために馬車が停車した。御者はわたしに「降りるかい」と声をかけてくるが、わたしは首を横に振る。外に出て冷たい空気を吸い込めば、少しは頭がすっきりするかもしれないと思いつつも、人目に触れるのが怖かった。


「……少しだけ、降ります」


 それでも、あまりにも馬車内が蒸し暑く感じられ、わたしは意を決して外に出ることにした。森の入口には小川が流れていて、水音がかすかに耳に心地いい。草の匂いと土の湿り気が鼻をくすぐる。王都の整然とした造園や、花々の香りとはまるで違う、自然の荒々しさと清涼感が混ざり合った空気だった。わたしは思わず大きく息を吸うが、そのすぐ後に胸がきゅうっと締め付けられるような感情が押し寄せた。あの日、庭園で感じた雨の匂いと重なったのかもしれない。心にちらりと蘇るのは、彼がわたしに投げかけてくれた「大丈夫?」という言葉。しかし今、その問いかけはどこにも存在しない。むしろ、誰からの優しさも期待できないまま、わたしはここにいる。


 小川のほとりでは、野良着の少年が水汲みをしていた。その子は、わたしの姿に気づくと、警戒するでもなく軽く会釈をしてくる。わたしは何も言えずに、かすかに頭を下げて返礼のつもりを示す。すると、少年は汲み上げた水を桶に注ぐ音を止めて、しばらくこちらを見ていたが、やがて桶を抱えて去っていった。わたしはその小さな背中に視線を留めたまま、心の奥がひどく軋むのを感じる。あの子がわたしを恐れずに接してきたのは、わたしが公爵家の娘だからではない。きっと、見知らぬ旅人として当たり前に挨拶しただけなのだ。そんなささやかなやり取りさえ、今のわたしには馴染みのない優しさに感じられてしまう。


「……こんな辺境に来なければ、わからなかったのかもしれない」


 華やかな世界の外には、こうした平凡で素朴なやり取りが確かに存在していた。昔のわたしは、そんな暮らしを知る必要などないと思っていた。けれど、いまはそれさえ尊いものに思えるほど、心が荒んでしまっている。わたしはもう一度深呼吸し、馬車の前へ戻った。人のいない景色に抱かれながら、わたしは再び硬い座席に腰を下ろす。御者が合図もなく出発すると、馬車は大きく揺れ、道の先へ進み始めた。


 その後、何度か小さな集落や閑散とした村を通り過ぎた。子どもたちが元気に走り回る村もあれば、病気らしき容貌の老人が門口でうずくまっている村もある。わたしは窓越しにそんな光景を見やりながら、胸の奥に奇妙な痛みを覚えた。もし、自分が生まれた家がこういう小さな村だったなら、あの豪華絢爛な社交界とも無縁で、彼とも出会わなかったのだろうか。そう考えると、身勝手な推測ながら少しだけ楽になれる気がした。もしも、わたしがあの雨の日の優しさを知らなければ、こんな破滅に至ることはなかったのかもしれない。


「でも、それでも……彼に出会わなかったら、きっとわたしは何も得られなかった」


 わたしはそっと瞳を閉じ、過去を振り返る。確かに破滅してしまった今となっては、あの優しさが何をもたらしたのか定かではない。けれど、わずかな間でも、わたしは公爵家の娘として誇りを持ち、幼いころからの夢を抱き続けることができた。彼と並び、いつか幸せな未来を掴むのだと信じ込めた日々は、たとえ偽りであっても、わたしの支えになっていた。それもまた事実なのだ。


 日差しが傾き始めたころ、馬車は大きな丘を越え、ようやく修道院のある地域へ差しかかった。遠方に見える石造りの建物は、周囲を高い塀で囲まれ、静寂を湛えている。門の上には十字架のような彫刻があり、辺りには生活感がほとんど感じられない。ただ、修道院を中心にわずかな農地と家畜用の小屋があるらしく、修道士らしき姿がちらほらと動くのが見えた。華やかな都から隔絶された地――ここが、わたしがこれから暮らす場所なのだろう。


 やがて、馬車は修道院の頑丈な門の前に止まる。御者がドアを開ける合図を送り、わたしはぎこちなく外へ降り立つ。目の前の門は重苦しく、まるでわたしの過去を完全に閉ざすための象徴のように見えた。しばらくすると、中から一人の尼僧らしき女性が現れ、わたしを一瞥する。年の頃は三十代くらいだろうか。穏やかな顔立ちだが、その表情にはどこか厳粛さが漂っている。彼女はわたしの手元の荷物を見やり、静かに会釈をしてから門を開けた。


「これより先は、世俗の名声や欲を捨て、祈りと勤勉の生活に身を置く場所です」


 乾いた声でそう告げられたとき、わたしの中にある名誉や欲、執着という言葉がひどく重くのしかかってきた。まるで、この場で捨てねばならないものをそのまま指摘されているようで、無言で頷くしかなかった。修道院の敷地に足を踏み入れると、薄暗い石畳の道が建物へと続いている。周囲は高い木々に囲まれ、時折冷たい風が吹き抜ける。さっきまでの荒涼とした大地よりは多少整えられているが、それでも王都の庭園とは比べものにならない静謐さだ。


 案内に従って中庭を通り抜けると、大きな扉の前に出る。灰色の壁と、宗教的な意匠が施された古びた扉。その先は礼拝堂らしく、重厚な雰囲気が漂っている。中からは、かすかに祈りの声らしきものが聞こえてきた。わたしは足を止め、一度深く息を飲む。ここが、わたしの新しい暮らしの始まり――どこにも帰る場所のないわたしが、これから生きながらえるための“終着点”でもある。


「名前を、うかがっても?」


 先ほどの尼僧が、控えめな口調で尋ねてくる。わたしは一瞬迷った。自分は公爵家の名を持つ娘だったけれど、それはすでに断ち切られた存在。けれど、嘘をつくわけにもいかない。しかたなく名乗ると、彼女は「そうですか」と頷き、扉を開けてわたしを中へ通した。


 礼拝堂の中は薄暗く、窓のステンドグラスから射し込む光だけがかろうじて彩りを与えている。静まり返った空気が神聖な気配を漂わせ、外の世界とは切り離された時間を感じさせた。わたしはその場に立ち尽くして、どうにも体が動かない。ここで何をすればいいのか、どう暮らしていけばいいのか――頭では何も浮かばない。


 すると、奥の祭壇付近に佇んでいたもう一人の修道女が、ゆっくりとわたしのほうを振り返った。白いヴェールの下に隠れた面差しはよく見えないが、彼女はわたしに向けて静かに会釈し、丸腰の両手を前で組んだ。その姿には、少しの傲慢さや下心もなく、ただ礼儀正しい挨拶の形だけがそこにあった。わたしは再び頭を下げ、やがてそっと顔を上げる。豪奢なドレスに身を包んでいた頃のわたしとは、今やまったく無縁の世界。胸にかすかな痛みを抱えながら、わたしは震える唇を引き結んだ。


 尼僧たちはわたしを礼拝堂から続く回廊へ案内し、部屋の一角を見せてくれた。そこは石造りの簡素な空間で、木製の寝台と小さな机、ろうそく立てがあるだけだった。公爵家の宮廷調度どころか、装飾らしい装飾も皆無に等しい。でも、今のわたしに贅沢を語る資格などない。むしろ、こんなにも質素な場所に受け入れてもらえただけでありがたいと思うべきなのだろう。わたしは小さく礼を言い、荷物を机のわきに置いた。


「しばらくは、ここで暮らすのですね……」


 誰にともなく呟いてみても、返事をする人はいなかった。扉が閉まり、足音が遠ざかると、部屋にはわたし一人だけが残る。壁のひんやりとした感触と、空気に漂うわずかなろうそくの匂いが、今のわたしの境遇を物語っていた。もう、誰も優しい声をかけてくれることはない。わたしの醜い過ちも、失ったものの大きさも、ここでは関係がない。そう思えば、これが救いなのか罰なのかもわからない。ただ、静けさだけがすべてを覆い尽くしている。


「……もう、終わったのだわ」


 呟きながら、わたしは涙をこぼすこともできなかった。ここが、わたしにとっての終着点であり、同時にこれから始まる未知の世界かもしれない。華やかな貴族社会を捨て去り、悪あがきの末にたどり着いたのは、堅牢な修道院の門の中。わたしは自らの行いがもたらした結果をかみしめながら、祈りという生活に身を置くのだろう。それが、どれほど長く、あるいは短い日々になるのかはわからない。誰からも見放され、失意のまま辿り着いたこの場所で、わたしは何を得るのか。その答えは、まだ闇の中に隠れている。


 わたしは細く閉じた瞼の裏に、今なお焦がれ続けた面影を思い浮かべた。彼が最後に見せた、あの悲しい顔。手を伸ばしても二度と届かない温もり。喪失感が胸を締め付けると同時に、どこか微かな安堵のようなものもある。もう争わなくてもいい、誰にも嫉妬しなくてもいいのだと――そんな思いが、ひどく空虚な形でわたしを支配する。疲弊しきった身体を、わたしは硬い寝台に横たえた。石の壁にもたれ、知らない天井を見つめながら、ひたひたと襲ってくる眠気に身を任せる。遠くから聞こえてくる祈りの声は、まるでこの世界の静寂を証明するかのように淡々と続いていた。もう誰も振り返ってはくれない――そんな絶望を抱えながら、わたしは一人、深い闇の中へ沈んでいく。

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