第1話 雨の日の邂逅
初夏の風がまだ穏やかだった昼下がり、わたしは庭園の奥にある小さな温室のそばでひとり座り込んでいた。公爵家の娘として相応しい立ち居振る舞いをと、幼いころから言い聞かされてはきたものの、わたしは同年代の子どもたちとうまく会話ができなかった。それどころか、人形遊びやお茶会を開こうと誘ってくれる使用人の子どもたちさえ、わたしのことを少し怖がっているようだった。だからこうして、人目の少ない場所で静かに時間をつぶすことが多かったのである。
この日の空は、朝から雲が厚く垂れ込めていた。じめじめとした空気が頬にまとわりつき、どこか落ち着かない気配を感じさせる。それでも、わたしは庭を散策するのが好きだった。家の中にいれば、両親はわたしに「公爵令嬢たるもの、立ち居振る舞いは優雅でなければならない」と説教をし、家庭教師は「勉学を怠るな」と厳しい口調で注意する。使用人たちは一応は恭しく接してくれるが、その視線にはどこか怯えた色が混ざっていると感じることもあった。だからこそ、誰の目も気にしなくていい庭園は、わたしにとってほんの少しだけ心が休まる場所だった。
温室のガラス越しに見える白い花を眺めていると、ポツリポツリと冷たいものが肩を打つ。降り出したのは細かな雨粒で、当初は音も立てずにわたしの髪とドレスの裾をわずかに濡らすだけだった。しかし、空が一瞬暗くなったかと思うと、ふいに大粒の雨へと変わっていく。まるで誰かが上空で桶をひっくり返したかのような激しさだ。わたしは慌てて立ち上がったが、室内へ戻るには庭を横切らなければならない。いまさら走って戻っても服はびしょびしょになってしまうだろうし、咎められる姿を想像すると、気が重かった。
それでもここで立ちすくんでいては、いずれ体が冷え切ってしまう。そう判断して、一気に駆け出そうとした瞬間、強く降り始めた雨脚に足を取られたのか、わたしはうまくバランスを保てずに転んでしまった。膝を地面についたとき、どろりとした泥水がドレスに染み込み、わたしは思わず苦い顔をする。
「あ……」
情けない声が口をついて出たものの、あたりには誰の姿も見えない。みっともない姿を誰かに見られるのは嫌だと思う反面、このままでは危ないとも思う。雨の冷たさがどんどん体の芯に入り込み、少しずつ頭がぼんやりしてきた。
このままではいけない。何とか立ち上がらなければ。そう思って腕をつこうとしたとき、不意に小さな影がわたしの前に差し出された。反射的に視線を上げると、そこには同年代くらいの男の子が立っている。その手には彼の上着らしきものが握られていた。
「大丈夫……?」
少年の声は、雨音にかき消されそうなくらい小さかった。それでも、わたしがぼう然としていると、彼はわたしに上着をかけるよう促してくる。目の前の少年は、わたしと同じくまだ子どものあどけなさが残る顔立ちだが、まなざしにはどこか真剣な色がうかがえた。
「急に雨が降ってきたから……少しでも体を拭いたほうがいいよ」
わたしは思わず、その場で言葉を失った。助けられたことに驚きもあったが、そもそも同年代の子と話をすること自体が少なかったのだ。しかも、わたしのような公爵家の娘に対して、まったく物怖じしない態度をとる子など、これまで見たことがない。どう応えればいいのか分からず、しばらく動けずにいると、少年はわたしを気遣うように目を細めた。
「立てる? 手を貸すよ」
その言葉に、わたしはようやくゆっくりと頷き、泥まみれになった膝を何とか起こそうとする。少年が差し出す手は、小さいながらもしっかりとした温かさがあった。わたしはおそるおそるその手を取ると、彼は力いっぱい引っ張ってくれた。結果、わたしはまた少し滑りかけたが、何とか態勢を立て直すことができた。
「ありがとう……」
本当に弱々しい声しか出せなかった。ドレスの裾や袖は雨で重くなり、少し寒気さえ覚える。少年も雨に打たれているはずだが、そんな素振りを感じさせないように背筋を伸ばしていた。その上着を借りていては、彼が濡れてしまうと思って遠慮したのだが、彼はわたしの意見を聞かずに、そのまま自分の上着を被せてくれた。
「そんなに遠慮しなくていいよ。ここから建物に戻るまで少しあるから、体を冷やしたら大変だし……」
少年の言葉は、ぎこちないながらも優しさがにじんでいた。さっきまで庭園でたったひとりだった孤独感が、ほんの少しだけ和らぐのを感じる。わたしは改めてその少年の姿を見つめ、何を言えばいいのか分からないまま、ただ小さく礼を言った。
「あなたは……この屋敷の……?」
「ううん。今日は父様が公爵様とお話しするっていうから、ついてきただけなんだ。少し外に出てみたら、急に雨が降ってきて」
少年はそう言うと、どこか気まずそうに目をそらした。それはきっと、わたしを助けるのを躊躇していたわけではなく、他人に優しくできるような立場ではないと考えたのかもしれない。公爵家は大きく、来客も多い。ここにいる少年がどのような家の子かはわたしには分からなかったが、少なくとも、まったくの他人ではなさそうだ。
わたしはそんなことを考えながら、歩きにくい足取りで屋敷の方へと向かい始めた。少年も黙ってついてきてくれる。雨粒が勢いよく地面をたたく音が、わたしの耳に重苦しく響き渡る。その音に包まれながら、わたしは先ほど感じた恐怖や寒さより、少年の手の温もりが大きく残っていることに気づいていた。
「……名前は?」
わたしは半歩ほど後ろを歩いていた少年を振り返り、そう尋ねた。すると彼は少し戸惑いながらも、自分の名前を名乗った。まだ幼いながらもしっかりとした響きをもつその名は、貴族の家系を思わせるが、公爵家ほどの格式ではないかもしれない。けれど、そのことにわたしは不満を覚えるどころか、妙な安心感を抱いた。むしろ彼の控えめな口調や優しさに、どこか惹かれるものがあったのだ。
「そう……いい名前。わたしは……」
自分の名前を伝えるとき、わたしは少しだけ胸を張った。周囲から恐れられがちな公爵家の名ではあるが、それを少年がどう思うかという不安がふと頭をかすめる。それでも彼は、特別気負うこともなく頷いてくれた。
「きっと、公爵様の娘さんなんだよね。でも、別に気にしなくていいよ。さっきも言ったけど、雨に濡れたままじゃ風邪をひいてしまうかもしれないから、急いだ方がいい」
「……うん」
わたしは彼の言葉に頷き、再び歩みを進める。屋敷の玄関近くまでたどり着くと、そこには驚いた顔をしたメイドたちが立っていて、わたしの姿を確認するなり慌てて駆け寄ってきた。その目にはわたしが汚れていることへの戸惑いと、少年の存在への疑問がありありと映っていた。
「お嬢様、どうなさったのですか……! 雨でこんなに……」
一人がわたしに駆け寄り、もう一人は少年を見て戸惑っている。わたしは答えようとしたが、どうにも気まずくなって、なんと説明すればいいか迷ってしまう。すると、少年のほうが先に口を開いた。
「ごめんなさい。外で転んでしまったみたいで……僕がもう少し早く気づけていたら……」
その言葉を聞いたメイドたちは、少年に対して「申し訳ありませんでした」と頭を下げ、すぐにわたしを館の中へ連れて行こうとする。泥だらけになったドレスを見て、彼女たちはわたしを咎めるよりも先に、服を着替えさせようと気遣ってくれた。いつもなら「なんてお行儀の悪い娘だろう」と蔑まれそうな場面なのに、このときばかりは助けられたのだと思う。
それでも、わたしの頭は先ほどの少年の優しさでいっぱいだった。彼の表情、声の調子、差し伸べられた手の温かさ――それらが、わたしの胸を不思議な感覚で満たしていた。まるで、これまで一度も味わったことのない糖蜜のような甘さに、心が満たされる感覚。孤独だったわたしの内側に、小さな灯火がともったようだった。
「……あの子、どこに行ったの?」
服を替えるために部屋まで連れてこられたわたしは、メイドにそう問いかけた。しかし、メイドは首をかしげるばかりで、すでに少年の姿は見えなくなっていたという。どうやら使用人の手を借りずに、そのまま帰ってしまったらしい。わたしはその報告を聞いて少なからず落胆したが、それ以上に「ちゃんとお礼を言いたかった」という気持ちが強くなっていた。もし次に会うことがあれば、そのときこそはきちんと伝えなければと、子ども心に強く思った。
それからしばらくして、わたしが清潔な服に着替え、髪を乾かしてもらったころには雨足も徐々に弱まっていた。わたしは窓から外を覗き込み、すっかり濡れた庭を見つめる。いつもなら嫌だと思うはずの雨が、このときばかりは奇妙な懐かしさすら感じさせた。あの少年が差し出してくれた手のぬくもりが、まだ体のどこかに残っているような気がしたからだ。
「また、会えるのかな……」
ぽつりと小さくつぶやいた言葉が、静まり返った部屋の中に溶けていく。答えは誰からも返ってこない。けれど、わたしはその“未知”を前に、不安よりも期待を抱いていた。もしかしたら、わたしがいま一番望んでいるのは、彼と再会して「大丈夫?」ともう一度声をかけてもらうことなのかもしれない。
周囲からは常に「公爵家の娘らしく」と恐れられ、わたし自身もそれを当然のように受け入れてきた。けれど、その存在を気にせずにまっすぐ手を差し伸べてくれた少年は、わたしにとって衝撃的な存在だったのだ。彼なら、わたしを叱責するでもなく、怯えるでもなく、ただ当たり前のように手を貸してくれる。そんな夢のような光景を思い浮かべるだけで、冷えた胸が少しだけ温まるのを感じる。
その日の夜、わたしはいつもより早く眠りにつこうとベッドに潜り込んだ。体はきちんと拭かれ、暖かな毛布に包まれているのに、どこか眠りが浅い。気づけば暗い天井を見つめ、今日の出来事を何度も反芻していた。もしあの少年が再び屋敷にやって来たとして、わたしはどんな顔をすればいいのだろう。何を話せばいいのだろう。そんなことを考えていると、胸がどきどきしてうまく落ち着かない。
「……わたしのこと、どう思っているんだろう」
小さな声でそうつぶやくと、まるで己に聞かせるように、もう一度心の中で問いかける。周囲から“怖い”と敬遠され、友だちもほとんどいないわたしを、彼はどんな風に見ただろう。わたしが泥まみれになったときだって、気味悪がらずに手を貸してくれた。そんな人は、後にも先にも彼だけかもしれない。だから、わたしには彼の存在が強く刻み込まれてしまったのだろう。
やがて、雨音が遠ざかるにつれて、わたしの意識も深い眠りへと誘われていく。瞼を閉じると、今日見た少年の顔が脳裏に浮かび、いつの間にか目が熱くなる。公爵家の娘として振る舞うことばかり覚えてきたわたしが、たった一度のやりとりでこんなに心を揺さぶられるなんて、夢にも思わなかった。けれど、これこそがわたしの“初めての感情”なのだと素直に認めたくなるほど、その思いは強かった。
次に会うときは、もう少し笑顔でいられたらいい。服を汚して叱られることなんて怖くない。彼にさえ会えれば、わたしはきっと大丈夫な気がする。そんな儚い願いを抱えたまま、わたしは眠りに落ちていった。
そして翌朝、わたしが目を覚ましたときには、すでに雨は止み、空は晴れ渡っていた。床に差し込む朝の光を見つめながら、昨日の出来事を確かめるように腕を伸ばしてみる。あの少年の手の温もりは、もうどこにも感じられなかったが、それでも心の奥底に彼の存在が残っていることを、わたしははっきりと理解していた。今までになく、はっきりと。
「きっと、あの人がわたしを受け入れてくれる……」
そんな確信にも似た想いが、まだ幼いわたしの胸に湧き上がってくる。根拠なんてないのに、なぜかそう信じられたのだ。公爵家の娘として生まれ、誰からも怖がられ、厳しく規律を叩き込まれて育ったわたしにとって、初めての“心を気遣ってくれる人”。ただそれだけで、わたしの世界は一変した。
自分の周囲が厳格な規則と体裁でがんじがらめになっていることを、わたしは幼いながらに理解していた。それでも、この胸に灯った小さな光を信じたい。その思いは、まだ小さな芽のように頼りないけれど、誰にも踏みにじられないよう大切に育てたいと願った。わたしの未来を変えてくれるのはきっと、あの少年以外に考えられないとすら思えたのだ。
雨の日のひと時、庭園で交わしたかすかな言葉と、小さな手の温もり。それらがわたしにとって、はじめての優しさであり、かけがえのない出会いだった。これまで感じたことのなかった“愛されている”かもしれないという期待が、わたしの心を満たしていく。まるで誰にも知られたくない宝石のように、その出来事を抱え込んだまま、わたしは再び窓の外を見やる。
「いつか……また会えますように」
たとえ確かな約束がなくとも、そう願わずにはいられない。屋敷の外には、昨日の雨が残した水たまりがいくつもできており、そこに澄みきった青空がゆらゆらと映り込んでいる。それを見つめながら、わたしは知らず知らずのうちに、彼と再会する未来を思い描いていた。きっと、そのときはもう少し大人になって、昨日のように恥ずかしい失敗なんてしない、堂々とした姿を見せたいと願う。そうして、彼の前で胸を張って「ありがとう」と伝えられたら、どんなに素敵だろう。
こうして、わたしの小さな執着の芽生えは、ひそやかに始まったのである。暗い雨空の下で差し伸べられた手。それがわたしにとって、かけがえのない唯一の光になり得ると信じて疑わなかった。まだ幼いわたしには、それがどれほど歪な道へ繋がるかなど知る由もない。ただ、優しくしてくれたあの人だけが、わたしを必要としてくれるはず――そんな儚い幻想に胸をときめかせながら、わたしは幼い日々を過ごしていくことになるのだった。