始まりの音
午後の柔らかな日差しが、部屋の隅に置かれた古いギターカタログを照らしていた。
飯田俊――彼は14歳、中学二年生。夢はエレキギターを手にして、バンドを組むことだった。だが、その夢は遠く、冷たい壁に阻まれていた。
「またギターの話?やめてくれって言ってるでしょ」
母親の声は、怒鳴るわけでもなく、ただ静かに重かった。
「まだ買うとは言ってない。見てるだけだ」
俊はカタログを閉じ、視線を伏せた。
「夢じゃお腹は満たせないのよ。もっと現実を見て」
その言葉は何度も繰り返され、彼の胸を締め付けた。
家でギターを手にすることすら許されない俊は、代わりにネットの世界で自分の居場所を探していた。
スマホの画面にLINEの通知が光る。
【REI】「今夜、みんなでゲームやるけど来る?」
REIは、俊の唯一のリアルな友達とは違う繋がりを持つネット上の仲間だった。ゲームの話から始まった交流は、今や音楽の話題も交わすほど深くなっている。
フォロワー818人の彼は、ゲーム実況もする明るいムードメーカーだ。
俊はすぐに返信を打った。
【TOKI】「もちろん。遅れないようにする」
ゲームが始まるまでの間、二人はさりげない日常の話を交わした。
音楽への興味はまだ小さく、二人とも口にすることをためらっていた。
数週間後、チャットの中で俊がぽつりと漏らした。
【TOKI】「実はギター、やってみたいんだ。でも親に買うことすら許されなくて」
【REI】「そうなんだ……でも、諦めるのはまだ早い。お金をためてみんなで協力しようよ」
そうして二人は、互いの夢を支える秘密の計画を始めた。お小遣いやバイトの合間にポイントを貯め、ギターを買うための資金をコツコツためていく。
ある日、もう一人の仲間が加わった。
【KANURE】――フォロワー456人、物静かで美しいネットネームの持ち主、伊藤州都だった。彼は引きこもりがちだが、芯のあるドラムへの熱意を秘めている。
三人はDiscordで通話し、笑い合い、時に真剣に悩みを打ち明け合った。
春のある日、実際に三人は渋谷の小さなカフェで初めて顔を合わせた。
怜雄は明るく、すぐに場を和ませるムードメーカー。
州都は無口だが、その端正な顔立ちは誰の目にも美しく映った。
三人は自然と会話を交わし、少しずつ互いの本当の姿を知っていく。
「正直、家でも学校でも居場所がないんだ」
州都がぽつりと話した。
「俺もだよ。親はギターどころか、買うことすら認めてくれない」
俊が言葉を重ねる。
「でも、こうして一緒にいられるのが嬉しい」
怜雄が笑顔で言った。
その日、彼らは静かな約束を交わした。
四年後の学園祭で、三人一緒にステージに立つことを。
夢はまだ小さく、まだ始まったばかり。
でも、確かに彼らの心に音の波紋が広がり始めていた。
春の日差しが柔らかく降り注ぐ土曜日の午後、新宿の雑踏を抜け、飯田俊(TOKI)と伊藤州都(KANURE)はビルの一角にあるスイーツパラダイスへ向かっていた。
「スイーツパラダイス、初めて?」
俊がふと尋ねると、州都は少しだけ笑みを浮かべて答えた。
「うん。甘いものは好きだけど、こういう場所はちょっと緊張する」
店内に入ると、色とりどりのケーキやパフェがずらりと並び、二人は慎重に好きなものをお皿に取っていく。
俊は、ふと隣の州都の顔を見た。柔らかな光の中で映えるその美しい顔立ちに、思わず目を奪われてしまった。
「KANUREって、やっぱり…きれいな顔してるな」
小声でつぶやくと、州都がちらりとこちらを見た。
「そうか?」と少し照れたように笑い、少し近づいてきた。
俊の胸がほんの少しだけ早く鼓動した。
「はい、これ、あーんしてみてよ」
俊が手に持っていた苺を差し出すと、州都は目を伏せながらも口を開けた。
「……はは、ちょっと恥ずかしいな」
だが、その瞬間、二人の手がそっと触れ合った。俊は気づいて顔を上げると、州都もこちらを見つめていた。
「手、つないでみるか?」
俊の言葉に、州都は一瞬戸惑ったが、小さく頷く。
ふたりの手が自然に絡み合う。
それはぎこちないけれど、確かな温もりが伝わってきた。
スイーツを楽しんだ後、二人は近くの楽器店へと足を運んだ。
ギターやドラムセットが並ぶショーケースを眺めながら、俊は夢が膨らむのを感じていた。
「いつか、このギターを自由に弾きたい」
「俺は……あのドラムを全力で叩いてみたい」
州都の声は静かだが、その瞳には熱い想いが灯っていた。
「なあ、KANURE」
俊が手を握り直しながら言った。
「いつか、俺たち三人でステージに立とう。絶対に叶えような」
州都はうなずき、そっと頷いた。
夕暮れの新宿の街を、ふたりは手をつないだまま歩きながら、まだ見ぬ未来を夢見ていた。