しそわかめ・シンドローム
もう冷蔵庫にしそわかめはなかった。
いつもならきみが買ってきてくれているはずのしそわかめはもうそこにはなかった。
いつものように朝食のしそわかめを食べようと冷蔵庫を開けるとその事実に気が付く。
ぼくは毎朝決まってきみの買ってきてくれるしそわかめを食べていた。
だから朝食にはしそわかめを振りかけた白米を食べないと何となく調子が出ないのだ。
13 日前に突然君はぼくの前から姿を消した。それがあまりにも突然のことだったので、初めぼくはきみが旅行にでも行ったんじゃないかと思った。でもあらゆる手段を使っても連絡がつかなかったので、すぐにこれが旅行なんて穏やかなものではないのだろうと分かった。
きみの荷物はまだいくらか残っていた。というよりはほとんど残っていた。使用済みの歯ブラシとか、きみがよく使っていたシャンプーとかそういうどうでもいいものばかりだ。きみと一緒に消えたものはきみの財布とそれを入れる鞄、そして数着の衣服くらいだった。
きみの消失の原因が旅行ではないと分かってもぼくは特に何もしなかった。きみに連絡はつかなかったし、きみが一体どこにいるかなんてぼくには皆目見当もつかなかったのだ。 もしかするときみはそのうちまた何の前触れもなく戻ってくるんじゃないかと心の奥底で思っていたということもぼくの行動を鈍らせた。しかしきみが戻ってくることはなかった。 明日できみがいなくなってちょうど二週間が経つ。
ぼくらは付き合い始めてもう三年目だった。多少意見が食い違うことはあったが、基本的にはお互いを尊重しあっていたし、ぼくらはそれなりにうまくやっていた方だと思う。記念日は一度だって忘れたことはなかったし、忙しいときもこまめに連絡しあった。何よりぼくらはお互いをちゃんと理解しているはずだった。でもそんな取ってつけたような言い訳は今となっては何の意味も成さなかった。結果的にきみはぼくの元を去ることになってしまったのだから。
きみがどこであのしそわかめを買っていたのかなんて分からなかったから、とりあえずぼくは近所のスーパーに買いに行くことにした。まだ午前10時過ぎだったのであまり客は多くなかった。ぼくはその疎らな人波を通り抜けて買い物カゴを取り、しそわかめが並んでいるであろう惣菜コーナーを探した。無事に惣菜コーナーは見つかり、そこで見覚えのあるパッケージを探す。透明な袋の中央に紫色の字で「しそわかめ」と書かれたシンプルなパッケージだ。だが今度はいくら探してもそう簡単にそれは見つからなかった。それどころかしそわかめ自体が見つからなかった。ぼくはそのうち諦めて店員へ訊いた。
「しそ・・・わかめですか、えーと・・・少しだけお待ちいただけますか」
そう言って店員は小走りで奥へ行ってしまった。もしかするとここにはしそわかめは置いていないのかもしれない。しばらくするとその店員はまた小走りでこちらへやって来て、 案の定こう言った。
「すみません、ここにはしそわかめは置いていないらしくて。しそとわかめそれぞれ単品でならお売りしているのですが」
正直、しそわかめなんてどこにでも売っているものだと思っていた。どうやらぼくはきみのこともきみの大好きなしそわかめのことについてもこれっぽっちも知らなかったらしい。きみが今どこにいて、何を考えて消えたのか全く予想がつかない時点でぼくはきみのことを何も理解できていなかったのだ。ぼくがきみについて唯一正確に理解していたことといえば、きみはしそわかめが大好きだったということくらいだろう。今考えてみると本当にそれくらいしか思い当らなかった。
「わたしね、子供のころ一週間ずっとしそわかめだけを食べて暮らしたことがあるの」
きみは少し不思議な子だった。
「全くのしそわかめだけを?」
そうよ、ときみは笑う。
「自分がどれだけしそわかめが好きなのかを試してみたかったの。いや、というよりは、何というか、その、自分の中に棲みついているはずの魔物のようなものを外へ引きずり出してみたかったのよ。その魔物はね、有り余るほどのしそわかめに反応してやってくるの。そしてわたしのしそわかめへの好意を飲み込んでまた塒へ帰っていくの。だからわたしはその魔物をうまくおびき出して殺してしまおうと思うんだけれどね、ええと、よくわからないよね」
「いや、何となくわかる気がする。それで、その魔物には出会えたの?」とぼくは尋ねる。
「いいえ、その魔物はなかなかしぶとくて、たった一週間くらいじゃ全然姿を見せなかったの。わたしとしてはその魔物を一か月でも一年でも待っていたかったんだけれど、お母さんが許してくれなくて。結局わたしはしそわかめには飽きなかったし、魔物の姿を見ることもなかったわけ」
そのときのきみの微笑む顔が目に浮かんだ。もしかするときみの中の魔物がきみをぼくから連れ去ってしまったのかもしれないな、と思った。
午後になってもぼくはまだしそわかめを探して街を彷徨っていた。何軒かスーパーを巡ったが、いつもきみが買ってきてくれるあのしそわかめは一向に見つかる気配はなかった。 もちろん適当なしそわかめなら見つかった。でも買いはしなかった。もし妥協してそれを買ってしまったら、もう本当にきみが戻って来なくなるかもしれないという気がして怖かったのだ。
そうやってしそわかめを探しているうちに、ぼくはきみという存在の喪失を現実の痛みとして感じ始めていた。しそわかめがまだ冷蔵庫にあったときは、これはひょっとしたら何かの間違いなのではないか、もしかするときみは突然戻ってくるんじゃないか、という根拠のない希望を少なからず持っていた。でもしそわかめがなくなってしまった今、ぼくときみを繋いでいたものが何もなくなってしまった気がした。電話番号やメールアドレスとかそういう実質的な繋がりとは全く異なった質の、しかしとても大切なきみとの繋がりが消えてしまった気がした。ぼくは広大な砂漠の真ん中に叩き落された旅人のような状況に置かれていた。きみを見つけるあては本当に何一つなかった。
結局どこへ行ってもあのしそわかめは見つからないまま夜になった。きみを見つけるあてもちっとも見つからなかった。あまりにもそれらが見つからなかったので、ぼくとそれらは全く異なった別の世界に隔絶されているようにすら感じた。ついには、きみもあのしそわかめも本当は存在などしていなかったのではないかという仮説にまで行きついたりした。 ぼくの思考回路はそれほどまでに憔悴してしまっていた。
ぼんやりとした意識の中で、ぼくはあるひどい雨降りの夜のことを思い出していた。その夜は本当にひどい雨降りで、雨音で雷の音が掻き消えて不気味に閃光だけがぼくときみのいる部屋を途切れ途切れに映し出していた。
「一人の人間が他のもう一人の人間を生涯愛し続けることなんてきっと不可能なことなのよ」きみは突然言った。それと同時に閃光がぼくらの部屋を映し出した。その鮮明な映像はそのあと再び訪れた暗闇によって、ぼくの瞼の裏側にしっかりと張り付いた。
「どんなに好きな人でもずっと一緒に過ごし続ければいつか飽きがくるのよ、きっと」
「どうしたのさ、急にそんなこと言って」ぼくは言った。ひどい雨音に声が消えてしまわないようにぼくらはぴったりとくっついて囁きあっていた。
「ねえ、わたしの言っていることは間違っているかしら」きみはまるでぼくを試すかのように言った。きみの問いかけはねっとりとぼくを監視するような質感を持っていた。あたかもぼくがその問いの答えを誤ることを待ち受けるかのように。
「たぶん間違ってはいないと思うよ。世の中の夫婦はたいていそうだと思う。ずっと一緒に暮らしていれば相手の嫌な部分だって見えてくるし、飽きだってくるだろうしさ。でも、それでも大抵の人たちは何だかんだでうまくやってる。それに本当に愛している人なら少しくらい・・・」
「そういう話をしているんじゃないのよね。わたしは」きみはぼくの話を強く遮って言った。きみはあまり人の話を遮ってまで自分の話をするような人ではなかったから、ぼくは少し驚いた。
「違うの。そういう世間一般の話をしているんじゃなくてね、・・・ええと、むしろわたしみたいな少数派に当てはまるような類の話なのよ、これは」
「よくわからないな」ぼくがそう言うと、きみは黙りこくってしまった。
部屋は真っ暗だったのできみがどんな表情をしているのか分からなかった。ただぼくらを押し付けてくるような圧力を持った雨音だけが聞こえていた。その雨音のせいでぼくらはまたぎゅうっと近くに寄ることになった。しばらくすると、きみはまたゆっくりとぼくの耳元で囁いた。今にも壊れてしまいそうな小さな声で。
「わたしの言っているのはね、その人間の本質に飽きてしまうんじゃないかってことなの。 その人間の良いところとか悪いところとかそういうものに関係なく。わかるかな。それでね、 相手の良いところが強ければ強いほどその傾向が強くなるの。その相手を好きであればそうであるほど、その人の本質に飽きてしまったときの喪失感が取り返しのつかないくらい強いものになってしまうのよ」きみは本当に悲しそうな声で囁いた。
「きみにはそういう経験があるの?」ぼくの心拍数は少しだけ上がっていた。
「・・・まだないわ。だからこそ余計に怖いの。その喪失感がどれほどまでに強いのか分からないから。ねえ、いつかした魔物の話、覚えてる?」きみはぼくの手を握った。
「覚えてるよ」ぼくもきみの手を握り返した。
「わたしの中にはやっぱり魔物が棲みついているのだと思う。それだけはわかるの。でもその魔物がどれほどの力を蓄えているのかまだわからないの。そしていつかそれはわたしの前に姿を現すのよ。何の前触れもなく。そしてわたしの中の大切なものをたくさん飲み込んで奪っていくの。その魔物が子供のころよりもずっとずっと強くなっているのが確かに分かるの。子供のころにはありったけの餌をまいても現れなかったのに。今ではもう自分から出てこようとするのよ。そしてそれはわたしにはどうにもできないことなのよ」
再び閃光が部屋を照らした。そのとききみはもうすでに泣いていた。激しい雨音にかき消されながらもきみの泣き声はぼくの耳へ届いた。ぼくはきみが泣き止むまでの数時間、黙ってきみに寄り添い続けていた。
それはひどい雨降りときみのひどく泣きじゃくる夜のことだった。
最終的にぼくはあのしそわかめを見つけることができないまま帰宅した。極度の疲労感と言葉にできない喪失感に押しつぶされるようにしてぼくはソファに臥した。そしてもうそこにはない冷蔵庫の中のしそわかめのことについて考えをめぐらせてみた。今考えてみればどうしてきみはそんなにたくさんのしそわかめ(ほとんど二週間分のしそわかめだ)を置いていったのだろうか。もう大体は分かっていた。答えらしきものはすでに出ていた。
ぼくはきみの中に棲みついていた魔物のことについて考える。きっときみはその魔物に出会ってしまったのだろうと思った。あるとききみは些細なきっかけのようなものからその魔物を閉じ込めておく扉を開けてしまったのだ。多分それは本当に些細なものだったのだと思う。しかしそれは本当に些細で同時に致命的なものだったのだ。
ぼくは額に手を当てた。そしてその些細で致命的なきっかけのようなものを微かな記憶の中で探していた。ところが思い当るようなものは全くといっていいほどなかった。そうか。 きみの言った通り、その魔物は何の前触れもなく現れてきみの中の大切なものを飲み込んでいったのかもしれない。
朝から何も食べていなかったせいで頭がくらくらした。とりあえず即席のカップ麺をお湯を沸かして作って食べた。でもそのカップ麺の味はひどく機械的で価値のないものに感じられた。
ああ、しそわかめが食べたい。
反射的にそう思う自分がそこに存在した。ぼくはすでにしそわかめに侵食されていたのだ。ぼくもきみのようにしそわかめに侵され、そしていつかそれによってぼくの中に棲みつく魔物を呼び起こすことになるのだろうか。また誰かを愛したときに、魔物がその誰かを致命的に傷つけることになるのだろうか。
ぼくは目をつむった。魔物のことはわからない。これから先のこともわからない。わからないことについて考えるのはもうやめよう。そしてあるはずのない明日の朝食のしそわかめのことを考えた。ぼくは静かに眠りについた。