【短編小説】薬の副作用
寝つきの悪さに男は悩んでいた。それは最近になって突然始まった。
目を閉じて眠りにつこうとすると、心の中で小さな不安が顔を出すのだ。それは主に翌日の仕事のことだった。会議でうまく発言できるだろうか。会議といえば、別の資料の期限も迫っていたな。資料といえば、今日提出した資料の誤字を確認するのを忘れた。明日課長に叱られるかもしれない。男の真面目な性格も原因のひとつだった。まるで水が地面を這うようにそれはどんどんと広がっていき、気づけば頭から足の先まで不安でいっぱいになり眠れなくなるのだ。
といっても、男の場合は全く眠れないというわけではなかった。そうこう考えているうちに耐えられなくなった瞼は重くなり、深夜4時ごろ、なんとか夢の中へと入っていく。なので男は特段気にかけることなく、この数ヶ月、症状が和らぐのを気長に待っていた。
しかし、どれだけ待っても症状が改善されることはなかった。毎日の浅い眠りは男の不安になる症状に拍車をかけた。時々ぐっすりと眠れた日には、目覚めれば快調どころか1日中体に鉛をぶら下げているようだった。
流石にどうにかしたいと考えた男は、精神科医のもとを訪ねた。
『あなたの症状は、不安症ですね。こういった病気はお付き合いしていくもので、簡単に治すことはできません。今日は3種類のお薬を出しておきます』
診断を終えると医者は薬の説明を始めた。
『まずひとつめ、これは睡眠薬です。強い薬ですのでぐっすり眠れることでしょう。しかし副作用があります。ひどい悪夢をみるのです。そこでふたつめ、これは悪夢をみないようにする薬です。しかしこれにも副作用があります。目覚めた瞬間から眠る時まで不安な気持ちに襲われるのです。そこでみっつめ、これは不安を取り除く薬です。飲めばすぐに気持ちが軽くなるでしょう。しかしこの薬の副作用は寝つきが悪くなることです。まぁこのように、強い薬と副作用はいつも隣同士の友人のようなものですので、用法をしっかりと守ってくださいね』
男は薬袋を受け取ると怪訝そうに顔を歪めた。どのようにして飲むべきなのか、すぐに理解が追いつかなかったからだ。
『難しいことはないですよ。ひとつめとふたつめの薬を眠る前に飲んで、みっつめの薬を目覚めてからすぐに飲んでください。朝でしたら副作用で寝つきが悪くなろうと問題はないでしょう』
男は早速その晩に、睡眠薬と悪夢を止める薬を飲んでベッドに入った。薬の効果はてきめんだった。横になり布団をかけた途端、温泉に浸かるようなちょうどいい温度に体中が包まれた。それからは、数字を数えることもなく自然と眠りにつくことができた。翌朝の目覚めも申し分ないものである。ところが、男がご機嫌に歯磨きをしていると、突然頭の中が嫌な予感でいっぱいになった。歯磨きをやめて今すぐにでも今日のタスクを確認しないと、居ても立っても居られない。
そこで男は、みっつめの薬を飲んでいないことに気づき、すぐに不安を止める薬を飲んだ。
数分後には見事に不安は止まり、快適に仕事に取り組めた。問題が起きたのは、その夜のことである。薬の副作用が強く、いつまで経っても眠れないのだ。ひとつめの睡眠薬を飲んでも副作用にはかなわなかった。男はその日、これまでと同様に深夜4時に眠りについた。
次の日から、男は不安を止める薬を飲むのをやめた。しかしそうすると、前日よく眠れはするものの、朝起きてからの気分はひどいものだった。その次の日から、悪夢を止める薬を飲むのをやめた。そうするとすぐに眠れはするものの、夜中に冷や汗とともに何度も飛び起きた。一度そうなると深い眠りに戻ることは難しかった。
悩んだ挙句、男は薬を飲むのをやめて、今まで通りの深夜4時に眠る生活へと戻ることにした。そんな時であった。男のもとにいっぽんの電話がかかってきた。
『久しぶりだな。元気にしてるか』
「あぁ元気さ。と言いたいところだが、この頃寝つきが悪くてな。忙しくもないのに睡眠時間3時間の生活を送っているよ」
『お!本当か。心配してやりたいところだが、そんなお前にいい話がある』
電話の相手は古い友人だった。彼の勤める会社が人手不足になり、深夜帯に入ってくれないかと相談されたのだ。仕事の内容は男に馴染みのあるものだったため、すぐに快諾した。深夜帯なので給料も申し分なく、断る理由はなかった。
18時まで仕事をすると、男は夕食をとり次の仕事の準備をする。
パソコンの画面を埋め尽くす、アルファベットと数字の暗号を読みながら、その中にある間違いを探す。その仕事ぶりは実に精密で、その上男は真面目で腰の低い性格だったため、すぐに歓迎された。数週間が経った頃には、男のもとに仕事の依頼が殺到するようになった。
ある日の夜のことだった。突然、男の体に変化が現れた。夕食後、とてつもない眠気に襲われたのだ。どうしようもない眠気に男はソファに倒れ込むと、仕事のことも忘れ、そのまま深い眠りについてしまった。
その翌日も、その翌々日も。食後になると耐えられない眠気が男を襲った。
コーヒーを飲んでも、体を動かしてもその眠気が覚めることはなく、男は友人に相談した。
ところが男はすでに作業の根幹となる部分に関わっていたため、突然抜けられるのは困ると言われてしまった。
男は眠らないよう、集中力を高める薬を求めて病院を訪ねた。医者は診断を終えると薬の説明を始めた。
『まずひとつめは、集中力を高める薬です。
強い薬ですのです、飲めばすぐに頭がスッキリとするでしょう。しかしその副作用として、体がポカポカと温かくなります。そこでふたつめ、この副作用に効くのがポカポカを止める薬。この薬にも、寒さに襲われるという副作用があります。まぁ今は夏ですし、それほど問題はないでしょう』
男はその日の夕食後に薬を飲んだ。
体の奥からじんわりとやってくる温もりに、すぐにふたつめの薬を口にふくんだ。
これで安心だとパソコンを開いた男。
しかしその数分後には、吹雪の中に置かれたような寒さに襲われ、それは夏の溶ける暑さを簡単に上回った。
寒さが続くと、まただんだんと眠気がやってきて、男は眠りたくないのに、深い眠りに入ってしまった。