愚者の奢り
会長は激怒した。
必ず、かの邪智暴虐のチョメスケを除かなければならぬと決意した。
会長には政治しかわからぬ。会長は、生徒会の会長である。
賤吏に甘んずるを潔しとせず、政務や煩雑な事務作業に勤しんで暮して来た。
けれども状態変化同好会のエチエチな報告書に対しては、人一倍に敏感であった。
きょう午下会長は生徒会執務室を出発し、階段を越え渡り廊下越え、二十分の一里はなれた状態変化同好会の活動部屋にやって来る。
「先日は報告書の検閲に気を取られて失敗してしまいましたが、今日こそは、ミッチーさんをあの淪落甚しき同好会から救い出してみせますわ! そのためには、ミッチーさんが実際にあの報告書に載せられていたような畸形妖艶なる姿に化身している現場を押さえなければなりませんわね!」
またしてもの乱心に、副会長は嘆く。
「申し上げます。申し上げます。会長がまた勝手に執務室を飛び出していってしまわれました!
自らの胸のうちの巨大感情の得体がわからず、ただ衝動の赴くままに駆け出してしまったわけですな。もう、勘弁してくださいよ!」
◆
チョメスケはいつもの空き教室の前に着いた。
前回の反省を活かして、ミッチーからは『先回りしてロールプレイの準備をしています』と事前に告知をされていた。内容はチョメスケが入ってくるまで内緒らしい。
扉をコンコンとノックして、既に中にいるであろうミッチーに到着を知らせた。
すると中からゴソゴソと物音が聞こえてくる。まだ準備が済んでいないようだ。
部屋の前でチョメスケが待機していると、手持ち無沙汰で待たせたままなのも悪いと思ったのか、部屋の中からミッチーの歌声が聞こえてくるのだった。
「チャンチャカチャンチャン♪ チャチャンチャチャンチャン♪
チャンチャカチャンチャン♪ チャチャンチャチャンチャン♪」
某白塗り着物姿のお笑い芸人を彷彿させる裏声と節回しである。
「レモネードかと思って飲んでみたら〜♪ グレネードでした〜♪ チクショーーー!!!」
「おっ、梶井基次郎かな?」
チョメスケは変にくすぐったい気持がした。一瞬、何食わぬ顔をして家に帰ろうかと思いかけたがやめる。
室内がシンと静まり返る。ミッチーの準備が完了したようである。
扉を抜けると、そこは状態変化同好会の活動部屋であった。
部屋のド真ん中には、人ひとりくらい丸ごと覆い隠せそうな巨大な立方体の箱が鎮座している。
その箱の表面はミッチーがいつも制服のブラウスの上から羽織っているカーディガンと全く同じ若葉色の布生地で全面が覆われていて、チョメスケの方へ向いた正面、その真ん中より少し上のところには、ミッチー自身の顔から型取りして作られたライフマスク──顔面の白い石膏像が生えている。
すなわち、この若葉色の巨大な箱は、ミッチーの身体が箱化させられた姿を表している。
「うにゃあ……ふにゃぁ……」
よく見るとその若葉色の箱はカタカタ……コトコト……と音を立てて小刻みに震えていて、その内部からは蕩けたようなミッチーの吐息が漏れ聞こえてくる。かすかだが、他にチョメスケしかいない部屋の中では十分に聞こえよがしな声だった。
箱化だけではなく、中にもう一つ何か仕掛けがあるらしい。箱化した身体の外郭の中で、さらなる変化が進んでいるところを表現しているようだ。
その聞き慣れた声音の主に、チョメスケは問うた。
「その声は、我が同志、ミッチーではないか?」
問いかけに、若葉色の箱はカタコトと震えるのをやめ、ややあって、鈴が鳴ったような可愛らしい声が、上下真っ二つにパカっと開いていく箱の隙間から答えた。
「いかにも……私は状態変化同好会のミッチーである……♡」
ミッチーは、両腕で若葉色の箱の上半分を垂直に持ち上げて、ボディラインのありありと浮かぶ若葉色の衣装に身を包んだその姿を現した。日曜の夕方に放送される某国民的アニメのオープニングで踊っている飼い猫みたく、その細い腰をクネクネとくねらせている。
その姿は、ロールプレイングゲームの世界観に登場するような宝箱に擬態して人間を待ち構えるモンスター──ミミックへと変貌している、という。
「私、トラップボックスに捕らえられて、封印された箱の中でドロドロに融けて、ミミックの内臓にされちゃったのぉ……♡」
外観を貝類に喩えると、若葉色の布地で覆われた箱が二枚貝の殻を、その中のミッチーが貝の軟体部分を、それぞれ表している感じだ。
箱の上半分を持ち上げているミッチー自身が着ている衣装のベースは、箱自体と同じ若葉色のレオタードと、その下の脚を包む鮮やかな紅寄りの紫色のタイツである。
トップス部分は、首を半分ほど包むハイネックと、腕は手首までをぴっちりと覆う長袖、下は鼠蹊部のラインが分かるほど際どく切れたハイレグタイプだ。
その若葉色一色のレオタードの上からミミックをモチーフにした装飾が施されている。
胸部には、彼女の胸のふくよかな膨らみ、その半球状の二つの丸みに合わせて真っ白い生地があてられて、白い二つの乳袋とでも言うべき形状をなしている。そしてその二つの膨らみの中央、先端部分には縫いぐるみなどに使われるようなコロコロと黒目が転がるドールアイのパーツが縫い付けられている。これらが、白目がギョロリと見開かれたミミックの両眼を表していた。
驚くほど細い腰回りにチョコンと浮かんだ可愛らしいオヘソを通過して視線を下に向けると、そのハイレグに切られた生地の境から紫色のタイツに包まれた彼女のほっそりとした長い両脚が箱の下半分の底面まで伸びているわけだが、そのハイレグのVラインの脚刳りの前面をグルリと縁取って、洋服に付いているフリルみたく、白いフェルトの布生地でできた白い牙の装飾がずらりと並んでいる。
その鼠蹊部に生えているものと同じ白い牙は、箱の上下真っ二つの割れ目にも、その断面の直線に沿ってびっしりと列をなして生えている。
また、彼女のレオタードのVラインをグルリ縁取った牙のすぐ下、恥丘あたりからミミックの幅広で大きな舌……それを表す紅寄りな紫色の肉厚な布生地の前掛けが脛ぐらいの高さまでだらりと垂れ下がっている。
ミッチーがその紫色の両脚をワキワキと蠢かせるたびに、前掛けの舌がダランダランと揺れて、獲物を誘惑するミミックの有り様を表していた。
再び上に視線を戻すと、若葉色の長袖でぴっちりと覆われた彼女の細い両腕は箱の上半分を貝柱みたく持ち上げて支えるのに一生懸命で、腋がチョメスケの方に向かってあらわになっている。
ミッチー自身の顔周りはメイクなどもせず、ミディアムショートの艶やかな黒髪もあどけない顔立ちもそのままになっているのが、すっかり人外じみた全身の中にポツンと残された人間の姿の面影みたいで、却ってコケティッシュに感じられる。その代わり、両眼にはカラコンを入れているようで、爛々とした若葉色の瞳を覗かせているその表情はモンスターとしての衝動に支配され、ほとんどうっとりとしているようである。
「今の私は、ミミックの本能に抗えなくなってるのぉ……♡
こうなったら、チョメスケ君も箱の中に捕食して、私の仲間にしてやるぅ……♡」
チョメスケを誘惑するかのように、腰をくねらせ紫色の舌をユラユラと揺らしている。
その姿があまりに可愛らしく、チョメスケはほとんど見惚れていた、のだったが……。
彼の背後、部屋の外の廊下の方からパタパタパタ……と忙しない足音が聞こえてきた。
ゲッ、あの足音は……!? その響きには聞き覚えがあった。
チョメスケの背筋を悪寒が走る。
「ヤバい……。ごめん、ミッチー。この中に隠れるよ!」
「えっ?! ちょ、ちょっと……」
挑発的な態度から一転、ミッチーの顔には困惑の色が浮かぶ。
やがて廊下の足音が止んで、この部屋の扉がガラガラガラッ!と大きな音を立てて開かれる。
◆
「たのもうっ! ……あれっ、誰もいらっしゃいませんわね?」
部屋の扉から入ってきたのは会長だった。
今日も今日とて、この同好会に何やら駈込み訴えをしに来た様子である。
しかし、その目当てである同好会メンバー、チョメスケやミッチーの姿は見えない。
部屋の真ん中に一つ、どでかい若葉色の奇っ怪な見た目の箱が置いてあるだけである。
「おかしいですわね……連中は今日もここで活動があると聞いておりましたが……」
キョロキョロと教室を見渡しても、人の気配は感じられない。
✳︎
チョメスケが隠れ込んだ箱の中は、色々な匂いでムワッと蒸せ返るようだった。
依然ミッチーは箱の上半分を両腕で動かないように支えているため、バンザイした状態の彼女の腋がチョメスケのすぐ目の前にある。改めて近くで見ると、若葉色のレオタードの袖にぴっちり包まれた彼女の腕は驚くほど細い。
そして、ミッチー自身から発せられるデオドラント製品だかシャンプーだかの甘い匂い、衣装を着込んで箱の中に閉じこもっていたことによる汗の湿り気、布地特有のほんのり古びたような埃っぽさ、どの素材に使ったものやら微かにナフタリンのツンと鼻をつくような臭い。
それらがない混ぜになり、二人分の体温でもってちょっとずつ沸き立っているかのようだった。
まさか本当にチョメスケが箱の中に入ってくることになると思っていなかったようで、二人を収めた箱が閉じた時、ミッチーは声は出さずともドギマギしている様子を隠せないでいた。
今、チョメスケとミッチーは箱の中で、互いに向き合った形で息を潜めている。
空気穴として開けられた上蓋のいくつかの隙間から、ほんの僅かに外の光が入り込んでくるため、内部は完全に真っ暗闇というわけではない。
二人はそこまで背丈が違わない。チョメスケのすぐ目の前には、あまり動きが取れないために俯いたまま、彼と視線を合わせずにキョトキョトと目を泳がせているミッチーの表情がある。
申し訳ないとは思いつつも、彼としてはとにかく会長をやり過ごすのが先決である……。
この箱はあくまで一人用を想定しているため、二人で入るとどうも窮屈だ。
向かい合うように隠れたせいで、ミミックのギョロッとした二つの大きな目が……その柔らかさが密着しているチョメスケにも伝わってきてしまう。時折ミッチーが落ち着かずに身を捩ると、そのたびにズリズリとナメクジみたいに柔らかいものが這っていくような感触がある。
その上、身長は近くてもミッチーの方がスタイルが良い分、チョメスケよりも腰の位置がやや高い。
彼女が身じろぎするたびに、股のところから生えているミミックの舌が擦れる。生物的な舌の造形を意識して味蕾のザラザラ感も再現しているようで、舌がチョメスケの下腹を撫でていく。
ちょ、ちょっと動くの我慢してほしい……!
外からは会長が自分たちを探すゴソゴソとした物音が聞こえるのだが、幸いこの狭い箱の中に二人とも隠れているとは思っていないようだ。思考の死角に気づかず「おかしいわね……」と不思議がっている。
少しずつミッチーの方も今のこの状況が掴めてきたようで、表情が落ち着いてくる。
むしろ、二人して狭いところに隠れているというシチュエーションに、だんだんテンションが上がってきたみたいだった。ボソッと、チョメスケの耳元に悪戯っぽく囁きかけてくる。
「わぁ……チョメスケ君、とうとう私の、た……体内に、入ってきちゃったね?
このまま、消化して取り込んで……私の身体の養分にしちゃおっかな……?」
しかし、まだのっぴきならない状況だと理解しているチョメスケは突き放す。
「ごめん、ミッチー、ちょっと静かにしてて……静かにせぬと、これだぞよ?」
「あ、はい……すみません……静かにしてまーす……」
チョメスケにきっぱりと命令されることは珍しく、はしゃぎかけていたミッチーは途端にしおらしくなる。伏せがちの目がパチパチと瞬きする。
………………………………。
箱の中でただただ沈黙を守っているうち、二人はだんだん自分たちが本当に《物》みたいになっているような気がしてくるのだった。
SF作品のように、カプセルの中でコールドスリープをしているみたいに。
こうしてぴったり密着し合って動かないでいると、肢体そのものの感覚が希薄になり、肉体そのものの《物》性が強調されていくように思う。
普段、自ら意識を持って動き回っている肉体はきっと、こういう《物》感とは程遠い。
思うに、人間の肉体というのは、意識と《物》、それぞれの完全状態の間を常にゆっくりと推移しているのだな。
今、時間が止まったように身動きができなくなり、意識が希薄になっていっている肉体、命令を受けてぴたりと静寂した彼女の身体、それと密着している僕の肢体。この瞬間、これらは意識を離れ、《物》へと近づいていっている。この二個の人体を包んでいる箱や、彼女を包んでいる布切れなどと同様の、堅く安定した《物》になってしまったかのようだった。
……そんな考えに思い至って、チョメスケはなんだか身震いしそうになった。
会長に見つかったら今度は何をされるか分からないという極限状態の中で、そんな思索に頭が勝手に引き寄せられるというのは、なんだかおかしなものだった。
しかし、そんな緊張感もまもなく解けようとしていた。
会長が二人を見つけ出す前に、副会長がこの部屋に会長を連れ戻しにやってきたからだ。
「……あーもう! 会長! この間も言ったじゃないですか!
この同好会は申請も報告もちゃんとしてくれてますし、客観的には何も問題はないんですって! お願いですから、監査権限を私物化しないでください! ほら、これ以上ご迷惑をおかけする前に帰りますよ!」
「う、うぐっ、副会長離しなさい!? 問題が発生してからでは遅いのよ! 事件は生徒会室じゃなくて、現場で起きてるんですわ!
手遅れになってからでは遅いのよ! ミッチーさんのトランプ兵姿がドスケベすぎてこの学校の風紀を崩壊させかねないことを教えてあげなくては……!」
そんな言い争いが聞こえてきて、チョメスケがこっそり空気穴から箱の外を覗くと、副会長の両腕に抱えられた会長が廊下の方へ運ばれていくのが見えた。
本当に手遅れなのはこの学校の生徒会機能かもしれない……。
ふぅ、やっと災厄が過ぎ去ったか。そう安心したチョメスケだったが。
「……帰ったみたいだね。お邪魔してごめんねミッチー、そろそろ出よっか」
「あっ、ちょっと待って……力が入らないかも……」
「……おっと」
一刻も早く密着している身体をミッチーから離さなければとばかり考えていたチョメスケは、さっさと箱の上半分を横にズラし、開いて脱出しようとした。
ところが、ずっとその上半分を支える形で全身に力を入れながら同じ体勢を取り続けていたミッチーはスタミナが尽きてしまったようで、彼に続いて外に出ようとした時、ふっと脱力して倒れ込みそうになる。
先に箱枠を跨いで外に出ていたチョメスケがそれに気づき、咄嗟に、うつ伏せに倒れようとしていたミッチーの身体を正面から庇って抱きとめた、その時だった。
「なんだったんだ今のは……? 生徒会のやつら、この部屋から出てきたように見えたが。会長のやつ、キン肉バスターみたいな抱えられ方してたな……。…………うおっ!? お前ら、またこんなとこで……」
ちょうど会長たちと入れ違いにこの部屋に入ってきた見回りの小林教諭が、半分ずれた箱の中から脱出した二人の姿を見つけて驚き半分、呆れ半分の表情を浮かべている。
ミッチーがチョメスケの股間に顔を深く埋めているところに遭遇してしまったからだ。
実際には、うつ伏せに倒れ込んできたミッチーをチョメスケが受け止めようとしたところ、ミッチーの足元が箱の枠に引っかかった結果着地点が思ったよりズレて、こんな体位になったという過程があるのだが。そんなことを小林教諭は知る由もない。
「や……ヤア、小林先生、いらっしゃい……」
恥骨あたりにしたたかに頭突きをくらう羽目になったチョメスケは、ビリビリとした痛みに悶えつつ、小林教諭へは簡単な挨拶を述べるだけで精一杯だった。
いわんやミッチーはまだ身体にうまく力が入らないようで、彼の股ぐらから顔を起こせぬままビクビクとひくつくことしか出来ずにいる。
なんでよりによってこんな状況のところばかりを目撃されてしまうのか……とチョメは嘆く。
これじゃまるで、僕が僕のファルス《Phallus》をミッチーの口腔に突き立ててるみたいじゃないですか! やだーーー!
とんだファルス《Farce》もあったもんだよ!
小林教諭は半ば達観したような様子で、二人に諭しかける。
「お前らなぁ……。
まぁ、うん。今回は人の目に触れない場所を用意しようとした形跡があるし、その点を精神的向上心として評価させてもらうことにするよ……。
次からは、その中だけで事を済ませられるように頑張ろうな」
話はこれまでとばかりに、小林教諭はすごすごと部屋から出て行こうとする。
痛みによる痺れと、脱力したミッチーの身体が覆いかぶさっているせいで、すぐに小林教諭を呼び止めて状況を説明しようという気力が、チョメにはもはや残されていない。
明日朝早くにでも弁解しに行かなければ……。
あぁ、こうやって誤解は事実へとすり替わっていくものなんだろうな……なんて思うチョメスケだった。
ただでさえトンチンカンにめぐっていく事実を、さらに馬鹿馬鹿しい誤解が上塗りしていくなんて、たまったもんじゃないんだよなぁ。
勢いだけで書きました。