色と殺人
怪人:芸術屋の怪人
マンションの一室で奇怪な死体が発見された。
男の死体は風呂場の手すりに手錠で拘束されていた。逃亡を防止する為だろう。両脚の腱が切られていて、そのままの姿で一日が経過していた。
第一発見者はマンションの管理人の老爺。
男が死んだ日に左隣の部屋の住民の女から臭いについてのクレームが来た。その時は老爺もまだ対応しようとはしなかったが、一日経って右隣の部屋の住民の男からもクレームが来た為に渋々確認に向かった。
インターホンを押しても反応が無く、その上、部屋の鍵も開いていた。疑問に思った老爺は中へと入り、死体を発見した。
初めに念を押しておくのであれば、住民は「クレーム」をつけたのであった。決して「通報」ではない。
そして次に述べておくべきことは、住民が嗅ぎ取ったのは「死臭」ではなく、「シンナー臭」であったこと。
そう、死体はスプレー塗料によってカラフルに彩られていた。青、黄、緑、橙、藍、紫。それこそがこの死体が奇怪たる所以である。
一見、それが何か判断がつかないほどに幾重にも塗り重ねられていた死体。
特に切られていた腱の周囲はまるで、傷口から塗料が溢れているかのように塗り潰されていて、そこには異様な執念さえ感じられた。
まるでキャンバスだった。子どもの塗り絵とはわけが違った。緻密な計算が色を重ねている。悪戯な邪気などない。死体を作品だと言わんばかりに真摯に向き合っている様がありありと伝わってくるようだった。全てが荒れ狂っているようで、その実、理性によって整えられていたのである。
死体慣れしていた筈の刑事は何故かその光景に吐き気を催した。彼らには些か一生懸命過ぎたのだ。
死因は窒息死だった。顔面に塗料を吹きかけられ続けた結果、喉や鼻の穴まで塗料で固められ、やがて凝固し、呼吸を遮ったのだろう。
しかし、窒息の際の苦悶の表情さえ、塗膜は隠蔽した。比喩や陶酔ではなく、この殺人は限りなく美しかったのだ。
灰色の髪の青年、狼男はビルの屋上で手に入れた死体の写真を目にして見惚れていた。
彼はどうしようもなくその死体に惹かれていた。
新しい絵本を与えられた子どものように、狼男はその写真を眺め続ける。この美しさの訳はなんなのだろう。そんな疑問が残るからこそ、その美しさに飽きることがなかった。そのことだけは彼でも理解できた。
青、黄、緑、橙、藍、紫。何度見ても色選びのセンスが素晴らしい。溜息が漏れるようだった。
しかし、狼男はいつまでも死体の写真を眺めているわけにもいかなかった。仕事は既に始まっている。闇夜に紛れて怪人を討つ彼の仕事が。
狼男が件の死体の写真を持っている。そのことが全てを物語っている。
不本意なことではあったが、狼男はこの奇怪な事件を怪人の手によるものだと判断せざるを得なかった。
獣にとって限りなく現実的なものである生物の死体を、あんなにも美してくれる。狼男にとってはこれ以上ないことだったが、しかしそれが同時に怪人であることの裏付けにもなってしまうのだ。
ただの人間にあのようなことはできはしない。人間でなければ怪人の所業である。単純な思考だが、彼はそうやって今まで仕事をしてきた。
故に怪人と人間を間違えて殺害してしまうこともままあった。放火魔や通り魔はしょっちゅう狼男の餌食になる。彼らの論理はしばしば破綻していて、怪人と見まごうことがあるのだ。
しかし、狼男はそのことを改善する気は無かった。破綻した人間は怪人とさして変わらないことを彼は狼男として生きる内に知った。
それでも狼男は職務に忠実で、標的が怪人だと判断したからこそ手にかけている。悪だと感じたからこそ手にかけている。彼の中で理屈の糸が針穴を通った時にだけ、その重い腰を上げるのだ。そこに屁理屈など入る筈も無かった。
それは今回の事件も例外ではなかった。
狼男にとっては殺人事件など本当はどうでも良かった。理不尽でさえなければ、同族の殺し合いは彼の倫理に反していなかったのである。殺し合うのは生物の生理現象だと思っていたのだ。彼が凶暴であるとか、そういうことではない。特に人間はそのことに無自覚なだけである。だからこそ、今回のように殺人事件を大きく取り上げ、恐れるのだ。
寧ろ、こんな素晴らしい芸術家を殺害することこそ彼としては、はばかられるべきことだったのだ。尊きものを守る倫理。決して破綻したものではない。
それでも「犯人は怪人だろう」。「だから手にかける」。その論理の下に狼男は動き出さなければならなかった。
気が乗らず写真に目をやることで何かをしている気分に浸る狼男。仕事をしている振りをするのは楽で気持ちが良かった。
しかし、次第に彼の中で好奇心と疑問が生まれてきた。
どうしてこんなことをしたのだろう。
何故こんなことを思い付いたのだろう。
どんな言い訳をするのだろう。
考え出すと止まらなかった。
ようやく彼は動き出す気になった。生物である為にも、好奇心には抗えないのだ。
「さて、犯人はあの人だろうし。早速会いに行こうかな。殺す前に理由だけは聞いておかないとね。気になって眠れなくなってしまう」
最も速い推理は殆ど感覚で生きている狼男によって、考えさせる間も無く成し遂げられたのだった。無論この事件の犯人は彼の感覚のみによって明らかになる。
「で、ウチに何かご用ですか?」
扉を開けたのは男だった。
「左隣で事件があったでしょ? そのことについてちょっと聞きたくって」
「あ、警察の方?」
「いや? ボク、お巡りさんじゃないんだよね」
「えーっと、じゃあどちら様で?」
「まあ良いじゃないか。警察じゃなくても。隣の事件を調べてるんだから、大差ないだろう?」
男は納得が行かなそうに渋々、狼男を部屋の中に入れた。
客間のように整えられた室内。一人用のソファに座る男と、大きなソファに座る狼男。彼らの間にはローテーブルがあり、その上には湯気を立てた紅茶とクッキーが乗せてあった。家具は全て、割と新しいものだった。
狼男はポーションカップの開け方を知らなかったので、砂糖もミルクも入れずに紅茶を啜った。味は大したものでは無かったが香りが良かった。飾りっ気が鼻につかない程度の香りを狼男は気に入った。
クッキーの方は客人とは思えぬ程に無遠慮に貪った。相手の分を残しておこうという発想は殆ど最後の方で思い付いたので、皿には残り二枚しかクッキーが残っていなかった。
狼男は一息付いた。そこを見計らい、男が切り出した。
「美味しかったですか?」
「美味しいね。どっちも。どうもありがとう」
「いえいえ。で、本題に入りたいなと思っているんですけど」
狼男の無邪気な横柄さにも臆さず、男は話を進めようとする。
「あぁ。うんうん。で、なに?」
「それはこちらの質問というか、貴方が訪ねてきたんじゃないですか」
「そっか」
気の抜けるような会話だった。とても隣の部屋で殺人事件が起こったとは思えないような空気感。
「えっとね。聞きたいことって言うのはね」
「はい」
「隣の事件のことなんだけどね」
「はいはい」
「どうしてあんなことを思い付いたの?」
「…………」
相槌は一瞬止まったが、男は会話を止めようとはしなかった。
「あんなことって、なんのことです?」
「隣の殺しのこと」
「俺が犯人だ、と?」
「え? 違うの?」
会話の噛み合いは甘かった。
「そんな。何を根拠に」
「根拠とか特には無いけどさ。本当はキミの方から話したいんじゃないのかな? 現場の写真を見たけどさ、殺すことには焦ってないのに、別のことで焦っているように見えたんだよ」
「…………」
「ホラ。瞳が輝いた。ボクが訪ねてきた時も同じ目をしてたのを自分で気が付いてないの?」
「…………」
「誰かに言いたくって仕方ないんだよ。あの絵を何の為に描いたのか。塗料で隠蔽しようとしたものが何か。どう? ボクなら聞いてあげられると思うよ」
男は俯いた。男のつむじには葛藤が見えた。それは、この状況を切り抜ける為の浅はかなものでは決して無かった。そこにあるのは、「話してしまいたい」たったそれだけだった。そもそも俯いたのでは無く、込み上げてくるものを堪えようと頭を動かしただけかも知れない。
男はたった数秒間の沈黙が全てを自白しているようなものであることを悟った。悟った彼の顔は真っ直ぐに持ち上がって、その上に笑みを浮かべていた。
それは覚悟だった。
男は紅茶を一口啜ってから話を始める。
「好きだった人がいたんだ。俺にも」
「ふうん」
「その人は、特別温和だったんだ。何事も受容しようとする心で向かい合える。理不尽な罵倒にも理由があるのではないかと悩む。他所の争いを憎んで本気で怒れる。そんな人だった」
「嘘くせ」
狼男は吐き捨てたが、男はそんなことに腹を立てるような心境ではなかった。
「俺にはそう見えてたんだ。好きな人なんて全部よく見えるものだろう?」
「へぇ。ボクには分かんない。それで?」
「彼女は殺されたんだ。ある日突然」
狼男はありがちな話にあくびが出そうだった。
「犯人は隣で死んだ男。俺が殺した男」
狼男は大きなあくびをした。
「通り魔的な犯行だったそうだ。何の恨みもなかったけど、たまたまそばにいた彼女を刺して殺した」
「悲しい話だ。で、罰は受けなかったの?」
「ありがちな奴さ。精神鑑定が云々で無罪なんだと。馬鹿馬鹿しいだろ? 常連だったんだとよ」
「つまんないや。さっさと色の理由を教えてよ」
そこから男の表情が変わった。
「俺はあの男を殺すことを決めた。それでここに住むことにした。やっぱり罪と罰はセットってもんだろ? 俺は色んな殺し方を想像して興奮していた。そんでもってじわじわと殺してやることに決めたんだ。一瞬でやってしまったら駄目だろう? けどな、そこで一つ問題が生じたんだ」
男は唇を思い切り噛んで出血した。垂れている血を指でさらって狼男に大仰に見せる。
「血、だよ。死んだ彼女は血みたいなグロテスクなのが苦手だったんだ。献血や採血はおろか、自分の手首の血管すら見れなかったんだぜ? 随分と気を遣ったもんだ」
狼男は打って変わって男の話に聞き入っていた。好奇心が満たされていくのが分かった。
「でも俺はじわじわ殺すって決めた。じわじわ殺すには脚を切らなきゃならない。拘束しなきゃならない。血が出るんだよ。大量に」
狼男は手鎚を打つ。
「捧げる死体が赤かったら彼女は嫌がるだろう? だから上から色を塗ることにしたんだ。青、黄、緑、橙、藍、紫。虹色には一色足りないだろって。これなら君でも安心して見られるよってね。そうと決まれば後は実行。奴を拘束して顔面にスプレー塗料を吹き続けた。アイツ溺れたんだぜ。地上で。風呂場だったから物珍しさには欠けたけど。ざまぁなかった。穴という穴に塗料が入り込んだ。呼吸をすればシンナーを吸わざるを得なかった。段々と元気を無くしていって、気味が良かった。面白おかしくって夢中になって気が付けば奴は死んでたんだ」
男は興奮していた。
「なるほどね。綺麗な死体にしてあげれば、その人も喜ぶと思ったわけか。それがキミの芸術の熱か。うん。素敵だ。かっこいいよ」
狼男も楽しんでいた。
「俺が自ら通報した理由。お前なら分かってくれるだろ?」
「勿論。そこからキミを割り出したんだもの。死体が腐る前に誰かに見つけて欲しかったんでしょ? 一日経っても誰も見つけてくれそうに無いから、自分でシンナー臭がするなんて言ったんだよね」
「腐ってしまったら死体は否が応でもグロテスクだ。それじゃあ意味がないじゃないか。折角綺麗にできたのに」
男は少なくとも正気ではなかった。ありふれた復讐劇の犯人だった。しかし、それでも彼の中での理屈は間違いなく通っていたのだ。死体を美しくして捧げる。ただそれだけの為に同時に全てを捧げたのだ。
全てを理解した狼男。満たされた好奇心が満腹で幸福だと告げている。彼の心根は殺した訳よりも美しく仕立てた訳を欲していたのだ。
こうして男の信念を受け止めた時、狼男は自らの信念も通さなければならないのだと思った。甘えてはいられない。全てを曝け出した男に、せめて自らも全てを曝け出す必要があると考えたのだ。
そこには芸術家を殺したくないなどという子供染みた倫理観は存在しなかった。
自分の意志は自分を律して自分で通さなければならないのだと。
狼男は小さな沈黙を破って切り出した。
「……ボクはね。キミのことを殺しに来たんだ」
「聞いてくれるって言ったんじゃないか。全部聞き終わってからそうするのかよ。ずるいな」
「聞いた後、何もしないなんて一言も言ってないだろう?」
「まぁ。そりゃそうだ」
男はどこかでこうなることを分かっていたようだった。態度は落ち着き払っていて、そこには曇りは無かった。
「……俺は、なんで殺されなきゃならないのかな」
「怪人だから」
「怪人、か。確かに俺はもうそういう存在なのかもな」
この場合の二人の言う怪人はまるで別物だった。
「ただ最後に反抗させてくれ。正当性がない訳じゃないとは未だ思ってるんだ。俺はどこで化け物に堕ちた?」
「キミはギリギリまで怪人じゃあなかったんだ。寧ろ英雄的だ。だけど、ほんの少しのところで境界線を超えてしまったんだよ」
狼男は男に小さく指を差した。
「キミは自首をしなかった。死体の存在を知らせたければそうすれば良かったのに、逃げてしまったんだ。堂々としていなかった。闇夜に隠れようとした。だから怪人なんだよ」
「手厳しいな」
「じゃア、今度ハボクノ番ダネ」
狼男は姿を変えて男の首筋に噛み付いた。大量の血を噴き出しながら、男は倒れた。
「オ仕事、オシまい」
血がソファやカーペットに飛び散ったのを見て狼男は足を止めた。
「じゃあないかな。まだ」
マンションの一室で奇怪な死体が発見された。死体や家具に飛び散った血液はスプレー塗料によってカラフルに彩られていた。
青、黄、緑、橙、藍、紫。虹色には一色足りない。
死体が見つかった時、マンションに漂っていたのはシンナー臭だけだった。




