0.5話
少し前の夜のこと。
気が付けば、目線が高かった。
本来の狼の、常に湿った土の匂いがするような高さではない。
狼であった彼にとっては、宙に浮いているくらいの感覚。
それでも自らが宙に浮かんでいないと気が付けたのは、地の触感と、そこから伸びる身体が目線のところまで繋がっているのが感覚として分かった為だった。
目線が高いと感じたのなら、誰もが下を見下ろす。
見下ろすと、そこには薄橙色の身体があった。
そこで彼はようやく自分が人間になってしまったことに気付いた。灰色の髪の。細身な男に。
「なにコレ」
人の言葉が無意識に漏れた。しかし、彼にはそのことに驚く暇が無かった。
「ごめんごめん。ビックリしたかな」
少し気の抜けた女の声。背後からする声。そちらの方に驚いていた。思わず振り返る。
彼は警戒心が強かった。自然の床につく時、枯れ葉の擦れる音や獣の足音にも敏感に反応して目を覚ますほど。
目に見えるもの、耳で聞こえるもの、肌で感じること、全てに神経を尖らせて生きてきた。
そんな彼が後ろを取られながら、そのことに気付かずに自身の変わり果てた身体に注意を向けていたのだ。自尊心がそれなりに傷ついた。
不機嫌そうにする彼に、女は自前の金髪を触りながら続けた。
真摯さの無い謝罪の続き。女が彼を歪な存在に変身させたこと。聞いてもいないことを。つらつらと。延々と。
彼が苛立ちを募らせるさまを見かねて、
「元に戻りたい?」
「…………」
女の言葉に、初めて彼は関心を持つ。
彼の息遣いの変化を女は悟った。意地の悪い微笑みを見せた女は心底楽しそうにその隙を突く。
それでもまだ意地を張る彼に、気取って指を鳴らす女。
パチンと小気味の良い音が夜に響き終わると、彼の身体はメキメキと音を立てて変貌していく。
二足歩行の巨体。灰色の狼男に。
「……ウソォ?」
「アナタに仕事をお願いしたいの。『怪人』を倒して欲しいの。いっぱい倒してくれたら、元に戻してあげる」
彼は、狼男は諦めた。逃げ道がないと悟ったのだ。
「……『怪人』テ何サ?」
「アナタみたいな化け物のこと」
「難シイナ」
「もし難しかったらアナタが『悪いと思ったもの』を退治していって。数打てば当たると思うの」
「ソレデ良イノ?」
「それで良いの。じゃ、よろしくね」
こうして、緩く、浅く。この物語は始まった。




