1 出遭う
金城麗楽が初めて“被害者さん”と出遭ったのは、忘れもしない、この日だった。地元警察署の刑事として初動捜査に駆けつけた事件現場である。
「ウララちゃん。ウララちゃんよ」
白髪混じりの男に手招きされる。
このベテラン刑事は『ら行』の発音が若干あやしく、『うらら』が『うりゃりゃ』に聞こえなくもないのだが、名前を気に入られているようで、どこでもかまわず連呼される。
「あなた、殺しのご遺体を見るのは初めてだね。せっかくだから、お顔を拝ませてもらいなさい」
「は、はい!」
麗楽はひとつ息を吸って吐く。ついで、手のひらに『人』と書こうとして止めた。緊張すればするほどベタな行動をとりがちなのは自覚している。
死体を目にするのは初めてではない。
交番勤務のとき、人身事故の現場で肉片や入歯を回収したこともある。が、刑事課に配属されて半年足らずで、殺人事件の被害者を肉眼で見るのは初めてだった。
ええい。現場の雰囲気に気圧されていたって仕方がない。
覚悟を決めた麗楽は、一瞬だけ目を瞑り、大きく見ひらいた。
浴槽のふちに後頭部を乗せて、初老の男がひとり死んでいた。
豪奢な浴槽は木素材――たぶん檜だろう――で、大人の男が三人同時に入れそうな大きさがある。死体の傷口から流れ出た血液で、浴槽にたっぷり注がれた湯は朱に染まっていた。死体は水の浮力でゆらゆらと揺れている。
「いいかいウララちゃん。被害者の無念の顔を目に焼きつけて、絶対犯人を挙げてやる、と心に誓うんだ」
生涯現場主義を明言するやり手捜査員、被疑者を取り調べで落とす名人――“落としのシゲ”と呼ばれる繁村繁が熱っぽい眼で語った。
被害者は不動産関係会社の社長。生前はさぞ精力的に働いていたであろうことが、精悍な顔つきや俊敏そうな体つきから察せられた。邸宅も申し分ない豪華さで、現在、麗楽と繁村が立っている洗面所兼脱衣所も、大容量の収納棚に冷蔵庫やベンチまで備わっており、ちょっとした温泉施設のようだった。とても個人のものとは思えない。
無念の表情……。
開け放たれた浴室への引きから、麗楽は改めて観察する。
力なく開いた目と口元。ひょっとしたら、自身が死んだことさえ分かっていないのではないか。無念というより、驚きや不可解さの色が勝っている形相だった。
殺人という名の最悪の暴力。法を破った人間は裁かれなければならない。麗楽のなかで、生来持ち育んできた正義感がふつふつと滾ってくる。
「誓いました」
「うん」繁村は角ばった顎を引いて、「最近の捜査じゃ、生前のホトケさんを写真でしか確認できないことも多いからな。ご遺体との対面が捜査員のエネルギーになるってのに」
主人が自宅の風呂場で死んでいる。刃物で切り付けられているようだ――。
通報の内容が内容なだけに、最寄り交番の警察官とほぼ同時に地元警察署の刑事課も臨場した。他の捜査員らは、署や道警本部からの報告要請に追われている。
辺りには既に非常線が張られ、第一発見者を含む家人は待機させてある。まもなく本部の刑事や検視官らが乗り込んできて、ここは戦場のようになるのだろう。
「なあウララちゃん。ありゃなんだと思う?」
身を乗り出した繁村が、眼鏡の奥の小さな目を凝らしてる。
麗楽もつられて同じ動きをする。無数に切りつけられた裸の上半身は、まるで得体の知れない獣の狂暴な爪に蹂躙されたかのよう。傷の合間に、何やらまだらな模様があった。びっしりと、わき腹にまで続いている。
「入れ墨、ですかね」
「タトゥーってやつか。粋なことを」
繁村のほうが麗楽より若者っぽい言い方をした。
本物の入れ墨だろうか。簡単に貼り剥がしできるシールタイプのタトゥーもあるし、ただの落書きかもしれない。家人に確認してみようか。
踵を返そうとした麗楽は、足を止めた。視界の端に奇妙な人影が映ったからだ。
「えっ、誰?」
浴室で、被害者の頭側にガウン姿の男が佇んでいる。
あんな捜査員、見たことがない。一足早く臨場していた本部の検視官か? 急な出動だったとはいえ、あの服装はいかがなものか。お金持ちが風呂上がりに羽織るようなガウンって。足元は裸足で、シューズカバーさえしていない。
うっすら髭の生えた顎を摩りながら、なにやら物憂げそうに死体を見下し、しきりに首をひねっている。
これ、やばい人なんじゃないの? 観察すればするほどに、麗楽の困惑は極まった。
「シゲさん、あのかた。見慣れない人ですけど、ご存知ですか」
「は? だれだって?」
「ご遺体の側に男性がいるじゃないですか」
眼鏡を取り、レンズの曇りをハンカチでふき取った繁村が、怪訝そうに返す。
「誰もいないぞ」
「いやいや、ガウン姿の男の人ですよ。ちょうどシゲさんと同年代くらいの。あ! 今しゃがんだ。ていうかこの会話聞こえますよ」
繁村は思いきり顔をしかめた後、にやあと意地悪そうにほくそ笑んだ。ウララちゃん、と意味ありげに呼びかけておき、
「もしかすると、仏さんが見えてるのか」
「ホトケさん?」
「被害者さんだよ。地縛霊になって俺たちの働きを監視しているのかもしれない。早く犯人見つけろよ、ってプレッシャーをかけるために」
「やめてくださいよ。ご遺体の前で幽霊だなんて。不謹慎な」
「何を言う。必ず犯人見つけます、って胸を張っとけよ」
「だから幽霊なんて――」
途端、ぞおっとするような冷たい悪寒が麗楽の背筋を走った。
件の男がゆっくりとした物腰で立ち上がり、伏せていた顔を上げる。一連の動きはスローモーションのようだった。麗楽は金縛りにあったように体がぴくりとも動かない。
そして、ソレと、目が合った。