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被害者さんが、落ちてくれない。   作者: 羽野ゆず
第2章 銭湯の地縛霊が、成仏してくれない
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6 “明るく優しい”未来【解決編】

 親父さんの瞳に驚きの色が走った――ように見えたのは気のせいだろうか。なおも黙ったままの相手へ、遊は口早に説明する。


「この前、過去の話をしてくれたよね。親父さんの師匠がアヤメ湯(ここ)で絵を描いている途中、梯子から落ちたって」

『……そうだ』

「けど、梯子を(、、、)押さえて(、、、、)いたのは(、、、、)あなた(、、、)じゃない(、、、、)。でしょ?」


 意地悪く語尾を上げると、親父さんは怒ったようにそっぽを向いてしまった。

 なぜそう思う? 不満げな形相が告げている。


「なぜかっていうと――あなたが梯子を押さえていたとしたら、見ることが(、、、、、)できないはず(、、、、、、)の光景を(、、、、)見ている(、、、、)から(、、)

『見ることが、できない光景……?』


 サンダルを脱いだ遊は、浴槽の縁をたどって、白いタイル壁と間近で対面した。何度も塗り直されたのであろう、歴史の厚みに触れる。


「絵師は壁と向き合っていた。そして、梯子を押さえていた人物は師匠の真下にいたはず」

『当たり前だろう』

「だよね――なのに、親父さんはこう言ったんだよ。『師匠の前髪から汗が落ちるのが見えた』って」

『…………』

「後ろ髪やサイドの髪ならまだしも、真下で梯子を押さえていた親父さんが、壁と向き合う師匠の前髪(、、)が見えたはずがない」


 呆然としている親父さんを置き去りにして、遊は先へ進む。


「逆に、見えたとしたらどこだろう? 真正面は壁。背後からは見えない。残るは、()だ。親父さんは真横から師匠を見上げていたんじゃない? 

 僕はますますわからなくなった。梯子を押さえていたのが弟子としたら、親父さんは何者なのか。師匠に対して深い責任を感じているのはなぜか」


 梯子に触れてさえいないなら、事故に関わりがないのでは?

 親父さんは頭に乗せたタオルを取る。禿頭とばかり思い込んでいたが、タオルの下に申し訳程度の毛髪が残っていた。

 古びた扉が開くように、厚めの唇がゆっくりと開いた。


『俺は絵師になりたかった。だが、弟子にさえなり損ねた、半端者のカメラマンだ。印刷会社勤めで、新聞や広報誌に載せる写真を撮ってた。ここの常連客だった俺は師匠のファンで、あの日は趣味を兼ねて取材に来ていたんだ。製作中の手元を撮ろうと思ってな』

「手元……だから真横に」

『ああ。だが、あんな事故が起っちまって……結局、弟子が仕上げた完成品だけ撮影して引き上げたよ』

「どうして、自分のことを弟子だと?」


 カメラマンではなく弟子と偽り、遊に話したのか。

 穏やかに喋っていた親父さんが激変したのは、そのときだった。

 

『そうだったら、どんだけマシだったか……! 師匠が引退した理由はケガなんかじゃない。俺たちのせいなんだ』


 地縛霊は筋肉質な肩を震わせる。

 ――俺たち(、、)? ケガがきっかけで、元のように書けなくなったから引退したのではなかったのか。


『銭湯の客たちは皆、師匠の絵が好きだった。愛していたといっても良いだろう。師匠が汗水垂らして必死に書き上げた芸術品を鑑賞して悦に()っていた。当たり前の権利みたいな顔をしてな』


 皮肉っぽく上がっていた口端が落ちて、顔全体がくしゃりと歪む。


『それが……師匠がケガから復帰した途端にだよ。「腕が落ちたな」とか「才能が枯れちまったんじゃねえか」とか。いっぱしの評論家気取りで、掌を返して(けな)し出した。今まで一言の賛辞も感謝も直接送らなかったくせに……! あんときの客たち今思い出しても虫唾(むしず)が走る。いや、俺も同類だ。奴らに適当な相づちを打って、師匠をおとしめた』


 口調は激しさを増していく。零れだした独白は止まらない。


『良くできているのが当然で、少しでも質が落ちたと感じれば、大声で喚きたてる。師匠は、そんな観衆たちに絶望したんだ。俺たちの身勝手さが、才能ある職人を殺した。引退を止めなかったのか、って? 絶望して辞めた人間を地獄に戻そうとするなんて、無意味で残酷な行為でしかなかろう』

「…………」

『俺に残ったのは、遅すぎる後悔だけだった。

 身勝手な野次を飛ばす奴らを黙らせて、師匠に賛辞を伝えていれば。俺がもっと動いていれば、絵師は引退せずに済んだのかもしれない。絵を描き続けてくれていたのかもしれない……師匠が引退したのはケガのせい――そう思い込めたらどんなに楽だったか!』


 高い天井から水滴が落ちてきた。滴は親父さんをすり抜け、湯に波紋を広げる。


『だんだんと記憶が蘇ってきた……。師匠の引退を知らされた日、ぼおっと街を歩いていたら大型車に撥ねられたんだ。で、気づいたらここに――。

 これは罰だ。何も描かれていない壁をただ眺めるだけ……何もしなかった俺への罰』


 遊は所在なげに立ち尽くす。

 大抵の人間なら、「残念」で済ませてしまう出来事かもしれない。しかし、後悔の念を抱いたまま亡くなった繊細な男は、銭湯の地縛霊になり、無念の年輪を重ね続けてきた。あなたの責任じゃない、なんて安易なセリフは慰めにもならない。


『なんだか、急にのぼせてきたな』


 ふっとシニカルな笑みを浮かべ、親父さんは首の後ろに手をやる。


『湯に浸かりながら、退屈しのぎに、客たちの話を小耳に入れていたよ。薄いカメラで浴場を撮っていたヤツもいた。スマホだっけ? 俺が生きていた頃は電話があんなに薄っぺらくなるなんて思いもしなかった。ネットやらSNSやら。すげえ時代になったなぁ』


 擦りガラスから射す日差しに目を細める。


『もし師匠が今の時代に活躍していたら、皆、賛辞を伝えられていたのかな。もっと気軽に簡単に。「あなたの絵は素晴らしい』ってよ。今だったら師匠もきっと――』

「そんなことないです」


 眩しそうな表情で語っていた親父さんは、ぽかりと口を開け、遊を見た。


「たしかに僕らの取り巻く環境は進化しました。顔を合わせたことがない相手とネットで通じたり、世界中の人とリアルタイムで会話ができるようになった。けれど――]


 何を言おうとしてるんだ。やめろ。

 理性が必死に歯止めをかけるが、止まらない。


「どんなに豊かで便利なツールを手に入れても、人自体は進化していません。

 誰かを讃えたり励ますために行動をするのは少数で、他の大多数はちょっとでも気に入らなければ醜く喚き立てる。親父さんが生きていた頃と全く変わっていない。たったの一ミリも成長していません」


 現代(みらい)に理想を抱き、留まり続けている地縛霊に、なんて残酷な事実を伝えているのだろう。わかっていながら、止まらなかった。

 尊敬するクリエイターのシェンが、不特定多数の心無い声のせいで引退したことは無関係ではない。

 知らず知らずのうちに、遊は両拳をかたく握っていた。汗がこめかみを伝う。おそるおそる顔を上げると、親父さんは天井を仰いでいた。


『なんだぁ……そうかよ』


 悲しみと安堵が入り混じったような溜息が吐き出された。 


『本当にのぼせてきたな』


 親父さんの周りの湯気が密度を増して、もくもくと天井へ昇っていく。

 一度の(まばた)きの後、地縛霊は消えていた。


「親父さん……ごめん」


 最後に彼が遺した感情は絶望か――それとも、安心だったのか。

 親父さんがいなくなった男湯は、急に広くなったように感じた。

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