4 懐かしい痛み
翌朝、遊はいつものルーティンをこなしアヤメ湯へ出勤した。いつもと違うといえば、雨のせいでマウンテンバイクを使えなかったことである。
「おはようございまーす」
挨拶しながら暖簾をくぐる。が、何かがおかしい。待ち構えていたようなタイミングで現れる、大東菖蒲が出てこないのだ。
妙だなと思いつつ、待合室を抜けて脱衣所に入ると、壁面棚の隅で白い塊がうごめいていた。
「ひっ!?」
ぎょっとしたが、しゃがんだアヤメの後ろ姿と気づき、遊は胸を撫で下ろした。
そんなところで何をしているんですか、アヤメさん。
声をかけようとした拍子に、
「やめるって、どういうことよ!?」
先手を取られた。
いつもの彼女からは想像できない、厳しい詰問調だった。遊は驚き首をすくめるが、彼女の耳元に当てられたスマホの存在で電話中とわかった。
「……とりあえず考え直してみて」
通話を終えたアヤメはゆっくりと立ち上がり、溜息を吐く。そして、背後に突っ立っている遊に気づくと、「きゃっ」と可愛らしい悲鳴を上げた。
「い、いらっしゃるなら、声をかけてくれたらよかったのに!」
「一応挨拶はしたんですが……すみません」
よほど気まずいのか、「もうっ」と紅い頬を膨らませるアヤメ。
誰と話していたのだろう。大いに気になるが、さすがの遊もそこまで突っ込んだ事情は聞けない。
おや……? アヤメの手に何かが握られている。黄色と黒色が目立つ柔らかそうな素材の……。遊の視線に気づいた彼女は、はっとしたようにハーフパンツのポケットにそれを押し込んだ。場を取り繕うように後れ毛を耳にかける。
「では、今日もよろしくお願いします」
「はい。こちらこそ。――の前に、ちょっと伺っても?」
「何か」
「アヤメさんのお父さんの毛髪はどんな具合でしたか」
「……父の、毛髪具合?」
「大学院の後輩が毛髪の遺伝について研究してまして」もちろんそんな後輩もいなければ、そんな研究も知らない。「サンプルを集めているので、よかったら協力してください。アヤメさんは黒々とした健康そうな御髪をなさってるじゃないですか。お父様はどうだったのかなぁ、と」
禿げてましたか? とストレートに聞けたら楽なのに。
歯がゆく感じながら遊は嘘八百を並べた。アヤメはしばし唖然としていたが、番台から写真立てを持ってきた。
「これが父です」
法被姿で肩を組んだ男性が二人。
アヤメが指した中年男性は、カメラに向かって人の良さそうな笑みを浮かべている。
「ああ……ふっさふさですね」
「はい。鬱陶しいくらい、ふっさふさでした。祖父もそうだったらしいので遺伝かと」
白いものは混じっているものの、豊かな毛髪が生えそろっていた。
これではっきりした。地縛霊の親父さんとは似ても似つかない。親父さん=銭湯経営者であるアヤメの父、という遊の仮説は脆くも崩れ去った。
「あの。昔、銭湯で働いていた方に禿げたオジサンがいませんでしたか」
「さあ……禿げの領域まで達している人はいなかったような」
「じゃあ、ご親戚の方には?」
「叔父は大分薄くなってきましたけど、まだそれほどには。それから、あの……うちの父と母は駆け落ちして結婚したので、叔父以外の親戚をよく知らないんです」
「……そうですか」遊は写真に視線を落とし、「お父さんとアヤメさん。どことなく似ていますね」
「全然似ていないと思いますけど」
アヤメは素っ気なく否定して、
「ただ、頑固な性格が似ているって。叔父に言われたことがあります。では、私は女湯の清掃へ」
「はい! あ、アヤメさん。終わりにお風呂をいただいてもいいですか」
振り返ったアヤメは一瞬きょとんとした後、「ぜひどうぞ」と笑顔でオーケイをくれた。いつもの彼女の笑顔だった。なんとなくほっとしてしまった遊である。
男湯の清掃を終えた後、番台に入浴料金を置き、汗で重くなった服をすべて脱いだ。
「一番風呂、いただきます」
普段は汗だくのまま帰宅するので、湯に浸かるのは初めてだったりする。
洗い場で全身を洗ってから、遊は、大きな浴槽に足を入れた。
「――っ」
つま先から頭の先まで、一気に血が巡っていく快感。
熱めの温度が気持ちいい。湯が肌に染みていく。やはり家庭の風呂とは一味も二味も違う。
「やあ」
隣でくつろぐ地縛霊を見やると、「おぅ」と微かに口元が動いた。
「いい湯だね。親父さんがここに住みつく理由がわかるよ」
目を瞑っている親父さんは満足げだ。そうだろう、とでも言いたげに。
隣の女湯ではアヤメが清掃を続けている。親父さんにならいタオルを頭の上に乗せ、遊は話し出す。
「この前、親父さんが言ったこと。あれ、どういう意味だったの?
図書館にまで行って調べたけど、殺人事件があったような記事は見つからなかった。あったのは、銭湯絵を紹介する記事だけ」
『…………』
親父さんは首を反る角度を大きくして、白いタイル壁を見上げ、
『昔はあったんだよ……ここに羊蹄山の絵が』
遠い昔を懐かしむように目を細めた。
『俺が殺したのは、その絵を描いた絵師さ。俺の師匠だった男だ』
「……師匠?」
『師匠の描いた絵はそりゃあ見事なもんだった。現実の空よりも澄み切った青い空。荘厳な山々』
目の前に実物があるかのように、うっとりとした様子で表現する。
『湯気が昇って羊蹄山にかかると、まるで本物の雲のようでな。自分も絵の中の世界にいるような、広大で不思議な気持ちになったもんさ。銭湯の客は皆、師匠の描いた風景を愛でていたんだ。いつか俺もあんな絵を描いてみたいと憧れたが、とうとう叶わなかった』
「何があったの?」
『ペンキ絵ってのは、長くとも数年に一回のスパンで書き換えが必要になる。
あの日は、アヤメ湯の書き換えだった。道具を運んで、足場を作って。見る見る間に、山と地上の風景が描き上がっていった。一見無秩序な線が、すべて意味を持ち、緻密な仕上がりになっていく。本当に見事なもんだった……』
出合ってから一番饒舌な親父さんだった。圧倒されながらも、一語も聞き逃すまいと遊は神経を集中させる。
『全景を確認した師匠は、山頂の出来がお気に召さなかったらしく、直しに入った。
俺は師匠の真下で梯子を押さえていた。暑い日だった。師匠の前髪の先から汗が滴り落ちたのが見えた。ヘラを寄越すように指示された俺は頭上にいる師匠へ慎重に手渡した――つもりだった。けど、俺の渡し方が下手だったのか、受け取ろうとバランスを崩した師匠は梯子から落ちた。よりにもよって肩から……。腕が上がらなくなった師匠は、しばらく休業せざるを得なかった』
親父さんは沈痛な面持ちで一息ついた。
ぴちょん、と。高い天井から水滴がひとつ湯に落ちる。なかなか続きを話そうとしない親父さんにしびれを切らし、遊は訊ねる。
「師匠のその後は?」
『……ケガは治って復帰したが、元のようには描けなくなった、と引退した。俺のせいだ。俺の責任だ』
「もしかして」親父さんの声はそうでもないのに、遊の声だけ酷く反響する。「師匠が引退したのは自分のせいだと思っている?」
何も描かれていない真っ白な壁を眺めたまま、地縛霊は誰に言うともなく呟く。
『俺のせいで、ひとりの職人が死んだ……俺が殺したんだよ』
*****
帰り道、雨はまだ降り続けていた。
傘を広げた遊は、重い足取りで家路につく。謎は解けたのにスッキリしない気分。
「なんだ……そんなことだったのか」
親父さんが押さえていた梯子から、師匠が落ちた。
結果的に師匠は絵師を引退した。
たしかに――。弟子の親父さんにとっては、ショックな出来事だったろう。しかし両者に因果関係があるかもはっきりしない、まして『殺した』だなんて大げさな比喩を使うほど責任を感じなくても良いだろうに。
ただの事故じゃないか。
死体を壁に埋めた、世間に暴かれていない完全犯罪。突拍子もない空想をして、勝手に興奮していた自分がバカみたいだ。
高台にある金城邸が見えたところで立ち止まった遊は、何となくスマホを起動させた。家に着いてからやればいいだろうと思うが、クセみたいなものである。
メッセージアプリをチェックしてから動画投稿サイトを開く。遊が投稿した動画に、クリエイター仲間から数件のコメントが届いていた。後で返信しよう。トップ画面には、お気に入り登録したチャンネルの新着動画が並んでいる。
「……へ?」
トップに配されたサムネイル画像に目を疑った。
尊敬するファイター・シェンの最新動画。そこには、黒×黄の目立つ縁取り文字で、『動画 やめます』とあった。




