3 殺人事件ですか?
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動画の編集作業で、つい徹夜してしまった。
大あくびをしながら一階に降りていくと、めずらしく麗楽がいた。キッチンのカウンターで、玄米おにぎりを頬張っている。
「おはよう。今日は仕事お休み?」
「もう昼。遅番」
せっかく話しかけてやったのに、たった二語で返されるとは。
弟に対して大体ぶっきらぼうな姉だが、今日は格段に機嫌が悪い。
「何かあったの? また事件現場で幽霊に遭っちゃったとか」
キッチンで作業している十和子の耳に入らないよう小声で訊くと、麗楽は咀嚼を止めて顔をしかめた。
「……変なこと言わないで。あの件以来、見てない」
あの件、というのは五月に起こった資産家殺人事件のことだろう。
幽霊と口にしたら呪われるとでも思っているのか、極端にそういった類いの話を避けている麗楽であった。
「あんたは? 見てるの?」
恐る恐るといった様子で尋ねてくる。
「まぁ、隔日で会ってるかな」
「隔日って……大丈夫?」
「大丈夫とは?」
「体調とか」
「見てのとおり、元気百倍だよ?」
徹夜明けでクマが目立つ顔では無理があったか。
しかし麗楽は、我関せずといった態度で遊から目をそらし、卵スープを啜る。
「まぁ……あんたが気にしないならいいけど」
「気にしなくはないけどな。――そっちは? 相変わらず忙しいの?」
「駅構内で女性が切りつけられた事件を追ってる」
「ああ、ネットニュースで見たよ。酷い事件だね」
「容疑者の追跡捜査で防犯カメラの映像と睨めっこ。目が死にそう」
目薬のCMみたいに眉間に指を添える女刑事。そんなお疲れな彼女の前にホットコーヒー、遊の前にランチプレートが置かれた。
「なんなのふたりとも、ゾンビみたいな顔して。今度の休日BBQするってパパが張り切ってたからね」
一方的に告げ、十和子は食器洗いに戻った。
BBQか。遊は遠い目をする。昔はよく中庭でBBQやピクニックごっこをして楽しんだものだが、最近はご無沙汰になってしまっている。皆それぞれ忙しいからなぁ………。
目玉焼きの黄身にフォークを入れた遊は、ふと思いつき、口を開く。
「そうだ。お姉ちゃん、頼みがあるんだけど」
「嫌だ」
「過去に起こった事件を調べてもらえないかな」
『ここで、男をひとり殺したんだ』――。
アヤメ湯の地縛霊はそう言ったきり、口をつぐんでしまった。
親父さんの発言が事実だとしたら、アヤメ湯で殺人事件があったことになる。事件なら、刑事である麗楽の領分。ところが頼りの姉は、「はぁ?」と全力でつっぱねる勢いで、
「そんな暇あるわけないでしょ! てか一般人に情報は漏らさないから。ドラマや小説では警察官が一般市民に捜査情報をボロボロ漏らしているけど、現実は違うの」
「資産家殺人事件のときは教えてくれたじゃない」
「あれは不可抗力!」
「仕方がないなぁ」遊はさらに声を低めて、「いくら払えばいい?」
「……だから」
「それとも、マニアックなお宝をご所望か?」
「だからぁ――わかんねぇ奴だな! この底辺ユーチューバーが!」
相変わらず冗談が通じない姉だ。
首を縮めてへらへらしていると、麗楽は諦めたように拳を収め、「新聞記事は?」とアドバイスをくれる。
「大きな事件だったら、新聞に載ってるはずでしょ」
「新聞か! 思い付かなかった。でも、何十年前とかの古い事件なんだよ。たぶん」
「たぶん、って何よ。古新聞なら図書館にあるんじゃない?」
「なるほど。ナイス、ウララちゃん!」
心から称賛したのに、もう付き合いきれない、みたいな表情で麗楽は席を立った。今日もお勤め頑張れよ。
玄米おにぎりを貪り食い早々に昼食を終えると、遊は、さっそく外出の準備をした。完徹もなんのその。思い立ったが吉日だ。
区内にも図書館はあるが、マウンテンバイクを飛ばして、中央図書館に向かうことにした。よほど遠くでなければ、移動手段には自転車を使っている。車の運転も嫌いじゃないが、外界の風や音を間近に感じながら移動する方が好きだ。
山々の背景に大きな入道雲が浮かんでいる。
遊は首筋の汗をぬぐった。肌に張りつく空気の湿った感触といい、夏は着実に近づいてきている。
やがて、屋根のアーチが象徴的なチョコレート色の建造物が見えてきた。
中央図書館。市民の知の拠点。小学生のとき、社会見学で来たっけ。あのときは市電で来たな。建物が近づくにつれ、遊はノスタルジックな気分になる。
駐輪場に自転車を停め、エントランスを抜けると、控えめな冷房が温い風を流していた。長居することを考えると、キンキンに冷えた風よりこちらの方が居心地が良いのかもしれない。案内板によると資料室は二階。
「あのぉ、過去の新聞記事って調べられます?」
カウンターにいる眼鏡の女性に話しかけると、「はい。何についてお調べになりたいですか」と丁寧な言葉遣いで尋ねられた。
「市内の『アヤメ湯』という銭湯について」
「『アヤメ湯』ですね。承知いたしました。どのくらい過去に遡って調べましょう」
「……よくわからないので、アヤメ湯に関する記事をすべてお願いします」
「承知いたしました」
アバウトな要求だったが、係員は笑顔で応じてくれた。
ありがとう。あなたの気持ちの良い対応は忘れません。心のノートに書き留め、利用票を記入しつつ検索結果を待つ。
十分もしないうちに、係員が百科事典のような冊子を抱えて戻ってきた。新聞の縮刷版だろう。
「中央図書館では北海丸新聞を昭和四十二年から所蔵していますが、『アヤメ湯』に関する記事は一件でした」
「中身を見せてもらえますか」
平成元年の地方面の記事だった。
『市内に残る銭湯絵の魅力②』と題され、アヤメ湯の他に近隣の銭湯も紹介されている。②とナンバリングされているのは、シリーズ連載だったからか。銭湯絵の白黒写真が付けられており、『銭湯絵師によって描かれた羊蹄山』と説明が添えてある。
「え……これだけ?」
殺人事件どころか、銭湯絵の紹介?
予想外かつ期待外れな結果に、遊はついこぼしてしまった。
「地域情報新聞も調べましょうか?」
係員が気を利かせて申し出てくれたが、北海丸新聞に掲載されていない殺人事件が、地域新聞に掲載されているとは考えづらい。丁重に申し出を断り、銭湯絵の記事を一応コピーさせてもらった。
帰り道――。遊はペダルを漕ぎながら思考をめぐらせる。
アヤメ湯で殺人事件があったらしき記事は見つからなかった。事前にネットでも調べてみたが、それらしき情報はヒットしなかった。
どういうことだろう?
あの不愛想な親父さんに揶揄われたのか。が、別の可能性も考えられる。
事件が世間に発覚していないとしたら……?
なぜ発覚していないのか。死体がどこかに隠されていて発見されていないから。どこに?
もしかして……。ぞっとするような閃きが、遊の頭をよぎった。
親父さんがいつも眺めているタイル壁――あそこに死体が埋まっているのではないか。誰かに発見されないか気がかりで、自分の死後も見張っているとしたら。
「いやいやいや」
そこで遊は思いとどまる。
壁に死体を埋めるだなんて、ホラー小説じゃあるまいし。親父さんはアヤメ湯に通い詰めていた、いわゆる常連客らしい。ただの客が銭湯の壁を好きにできるわけないじゃないか。
「……や、ちょっと待て」
銭湯に通い詰めるのが、客とは限らない。経営側の人間だってそうだ。現に遊も、隔日でアヤメ湯に通い詰めているではないか。
親父さんは経営側の人間だった――?




