12 落ちた【真相編2】&エピローグ
タトゥーを切り刻んだのは、折笠文香が迷路を解くために使ったペンの痕跡を消すため――。
“鷹宮豪を殺した犯人を庇うため”という動機は一致していたものの、遊の推理は外れていたわけだ。麗楽は、安心したようながっかりしたような、複雑な気分である。
さらに予想外なことに、寛も折笠文香も、浮き上がっていたはずの数字とアルファベットについては一切触れなかった。気づいていたのか、いなかったのか――?
この時点で捜査本部はタトゥーの図案を特定できていなかったため、幽霊の証言で知った麗楽が追及するのもおかしな話で。口を挟みたくなるのを耐えるしかなかった。こうなってしまえば、昨夜繰り広げられた推理合戦は机上の空論に等しい。
父親を想い人によって殺された男は、くたびれた声のまま付け加える。
「脱衣所に落ちていた灰皿は、血と指紋をタオルで拭って洗面台に置いておきました。……元は飾り棚にあった? 言われてみればそうだったかもしれないけど、特にそれがどうなることでもないと思ったので」
灰皿の位置によって、『脱衣所にひとりでいた』と嘘を吐いた鷹宮豪が遊に追い詰められたことを、息子の彼は知る由もない。
折笠文香がなぜ父を殺したのか。寛は動機を知らされていなかったという。その理由を家政婦に尋ねると、
「だって、坊っちゃんに伝えることでもないし。わかってくれるかしら? なんとなくね、あたしだけの秘密にしたかったの。今こうして刑事さんにバラしちゃったけどね……。
誰かが死体を発見するまで待ったほうが良い、と坊ちゃんには勧められました。でも、あの無残な姿のまま放っておくなんて旦那様が可哀想でしょ。だから、あたしが自分で通報しました」
相変わらず夢の中を彷徨っているような有り様だが、嘘は吐いていないようだ。
この被疑者は自分で落ちてくれる、と見て取った繁村は、折笠文香に自由に喋らせている。
「容態を気にしていた伯母が施設に入ると連絡があったので、心おきなく自首させてもらうことにしました。寛さんはどうなるかしら……? あたしほどの罪にはならないでしょ?」
その質問には答えず、繁村は違うことを話題にした。
「しかし、あなた。どうして社長を殺した後に迷路なんて解いたの? 社長は『宝のありかを示している』なんて言っていたらしいけど」
折笠文香は、丁寧に紅が塗られた唇を結んだまま微笑している。ここにきて黙秘か。
静かになった取調室で、「よろしいですか」と麗楽は遠慮げに発言した。
「『ありか』と聞けば、普通、人は場所を思い浮かべます。
折笠さんは家政婦として、あれだけの豪邸をひとりで管理していました。もしも邸宅のどこかに『宝』があるとしたら、ご自分なら探し出せるとお考えになったのではないですか?」
尋ねられた折笠文香は、丸く黒目がちな瞳をぱちくりさせた。
「いいえ。違います」
麗楽の以降の記憶は曖昧である。
思い出そうとしても、迷路の中にいるような漠然とした不安に駆られる。被疑者の語った理由が、あまりにも単純で、恐ろしいものだったからだ。
「あたしが迷路を解いたのは、解きたかったから。ただそれだけ」
両手を組んだ上に顎をのせている折笠文香は、美術館で芸術品でも鑑賞しているような目つきである。
「そこに山があるから、と言ったのは有名な登山家でしたっけ? あたしも同じで特に理由はないの。もともと曼荼羅とか緻密な文様が好きなんです。宇宙を漂っているような、不思議な気持ちになれるでしょ。だから――ああ!」
感極まったように全身をぶるっと震わせて、
「刑事さんたちにも見せてあげたかったわ! 旦那様の肉体に描かれた迷路に、“ハロン”グリーンで終着へと導いた美しい線を――!!」
彼女もまた、魅入られた――。
脳内で勝手に浮かびあがった文言に、麗楽は全身の肌が粟立つのを感じた。
鷹宮豪にタトゥーを施したベトナムの彫り師は、いまだに見つかっていない。
***
資産家殺人事件の世間の関心が薄れ、麗楽の仕事もひと段落したある非番の日。
彼女は、豪奢な邸宅が並ぶ“ロイヤルストリート”とよばれる一角を訪れていた。
「昼は馬車馬みたいに働いて、夜帰って寝るだけの場所なのに。無駄に金をかけているよね」
隣で無駄口をたたくのは双子の弟、金城遊。セレブな住人に聞こえたら、顰蹙を買うだけじゃ済まない。ひと睨みすると、「うちも他人の家のことは言えないけどさ」とこぼした。
たどりついた一番条件の良い区画にある豪邸。高くそびえたコンクリートの外壁には『売家』の看板がかかっていた。
チャイムを押すと、「どうぞ」と鈴の鳴るような声が返ってくる。広々とした庭園を通り過ぎ、格子細工が見事なエントランスに立つと、中から扉が開いた。
「お待ちしておりました、金城様。中へどうぞ」
エキゾチックな顔立ちの八頭身美女、大谷三葉である。
導かれるまま家屋に足を踏み入れると、書斎らしき部屋に通された。生前は鷹宮豪がここで仕事をしていたのであろう、マホガニー材の立派な机にデスクトップPCが置かれている。
応接セットに向かい合わせで座ると、遊は持参していた書類ケースから封筒を取り出した。
「あらためまして、父の代理で参りました専務の金城遊です。鷹宮ホームズ様の事業を引き継ぐにあたって、うちが提案するプランの一式です。ご覧ください」
「ありがとうございます。弊社の余力のあるうち、金城コーポレーション様にお任せできたら私共も安心です」
社長と専務を一度に失った鷹宮ホームズは、一代で築いた親族経営だったことが災いし、有力な後継者がいなかった。結局、秘書の大谷三葉が指揮をとり、地元で絶対的に幅をきかせている金城コーポレーションへ事業継承する運びとなった。
ふだんは清掃のアルバイトや動画制作をしながら気楽に暮らしている遊だが、ごくたまに会社の専務として働くこともある。引き続き幽霊には遭遇しているようで、最近は『浴場清掃で通っている銭湯の地縛霊が成仏してくれない』とぼやいていた。麗楽は、鷹宮の件以来、幽霊の類には遭っていない。
「あの、大変でしたよね」
何度もかけられているであろう労いの弁に、大谷三葉は長いまつ毛を伏せ「ええ」と軽く顎を引いた。
遊に同行したかたちの麗楽だが、社員としてでも警察官としてでもない、とあらかじめ伝え許可をもらっていた。
なぜ彼女に会いにきたのか。麗楽自身もよくわからない。ただ、刑事してではなく、彼女に聞いてみたいことがひとつあった。
「大谷さん。社長が亡くなられてから……その、見たりしませんか」
「はい?」
「社長の幽霊とか」
なに言ってんだよ、と遊に肘で小突かれた。めずらしく非番の日に行動を共にした姉の言動に仰天している。大谷三葉は瞳を何度か瞬かせたが、
「いいえ。私、霊感とか一切ないので」
あっけらかんと答えた。でも、と瞼を伏せる。
「今の判断が正しい、って。社長がどこかで見守ってくれていたら……とは願っています」
「そうですか」
「ただ少し気になることが」
秘書は頬に手をやって、
「パーソナルトレーナーの剛力さんがベトナムに旅立ったんです。社長が訪れたタトゥーショップに興味があるって」
麗楽と遊は思わず顔を見合わせた。剛力まで……。
双子の視線が自分に集まっていることに気づいた彼女は、恥じるように頬を赤らめた。
「おかしなことを知らせて申し訳ありませんでした。あ、お茶も出さずに失礼しました。それとも、先に家の中をご覧になりますか」
長い脚で書斎の扉に駆け寄る。
今日は遊の希望で、売家になる旧鷹宮邸の内見も兼ねていた。鷹宮の親戚が遠方に住んでいるため、秘書の大谷が代理人として手続きを行っている。これだけの大邸宅な上、殺人事件が起こったいわくつきの場所なので、売り手がつくには時間がかかるかもしれない。
「大谷さん」
めずらしくスーツを着込んでいる遊は、毛足の長い絨毯に目を落としたまま呼びかけた。
「鷹宮社長のタトゥー、何が彫られていたか。あなたはご存知なかったんですよね」
「……はい。私は何も聞かされておりませんでした」
急に何を?
麗楽は背中を冷たい何かが這っているような嫌な予感がした。遊も同じらしく、居心地が悪そうに何度も腰を浮かしている。
「つかぬことを伺いますが――鷹宮社長が利用していた株取引サイトのパスワードを、あなたは知っていましたか?」
脈絡のない質問を重ねられた大谷三葉は、戸惑ったように首をかしげた。答えあぐねているようすだったが、やがて真っ直ぐに遊を見すえ、小さく頷く。
「はい。パスワードなら存じておりました」
「ですよね……って、知っていたんですか!?」
すっとんきょうな声を上げる麗楽の前で、秘書は仕事机の天板の裏を探って、
「正確にはどこに在るか、を知っていました。
鷹宮社長は、こうして机の裏に暗証番号のメモを貼っておく癖がありましたから。会社の仕事机にも同じように……おそらく重役は全員知っていたのではないかと。セキュリティ上良くないとは思っていましたが、個人で管理されているサイトのパスワードだったので、口出しするのもどうかと思い」
「マジで!? 全然秘密じゃないじゃん!!」
こら、と麗楽が止めるのも聞かず、遊はずかずかと歩み寄り、天板の裏を探ってメモがあるのを確認した。そして、高らかに笑い出す。
「やっぱり、あなたのせいじゃないよ! 鷹宮さん」
その呼びかけに呼応したかのように――。
どこからか一陣の風が吹き、数字とアルファベットの羅列が描かれたメモは天板から剥がれ、はらりと踊るように空を舞い、音も立てずに地へ落ちた。
(『被害者さんが、落ちてくれない。』…end.)
ここまでお読みいただきありがとうございました!
第二章のテーマは「日常の謎」で『銭湯の地縛霊が、成仏してくれない』を連載予定です。