10 刺青キリキリ【解決編3】
タトゥーが判別不可能にまで切り刻まれていた理由。
「ちょっと待った!」
弟のペースに呑まれてばかりいられない。麗楽がストップをかけると、出ばなをくじかれた遊は不満そうに、
「なんですか。お姉サマ」
「心して聞きなさい。先に議論しておくべきことがある。
“犯人は迷路を解けたのか否か?”――さらに言うなら、浮き上がる数字とアルファベットの意味を理解できたのかどうか」
迷路をクリアして、数字とアルファベットの羅列に気づいたとしても、だ。それが株取引サイトのパスワードとわかる人物はごく限定されるのではないか。
「私は、タトゥーを切り刻んだ犯人は、解答にたどり着いたと思う。
だって、数字とアルファベットの重要性に気づいてないと、死体損壊なんてしないでしょう。解答がわからないのに、『宝のありか』を示す手がかりをわざわざ消したりしない」
「良い観点! でも、そうとは限らない」
遊は漆黒の夜空を眺めている。
「犯人は包丁を取りに行くため、いったん現場を離れているんだろ?
そのとき一緒に、カメラかスマホを携えてきたのかもしれない。タトゥーを四方向から撮影して、判別不可能な状態にすれば、持ち帰った後、犯人だけが迷路を解く機会を得られるよ」
「うっ……そうね」
写真に収めるという手段もあったか。単純ゆえに盲点だった。
「僕としては、鷹宮さんが何故こんなものを彫ったのか疑問だけどね」
『魅入られてしまったんだよ』
呪文を唱えるような、おぼろげな口調で鷹宮氏が語り出した。
『きっかけは、現地で出会った日本人だった。
彼は顔から足まで隙間なく全身にタトゥーを入れていた。初対面では正直奇妙な印象しかなかったが、不思議なものでね……毎日のように会っているうち、私は、彼のタトゥーの精密な図柄と色彩に魅入られていった。
気づいたときには誘われるまま、彼行きつけのショップに足を運んでいたよ。
何を彫るのか決めていない私に、彫り師は言った。迷っているならそのまま迷路がいいだろう、と。だが同時に、重要な秘密を入れるよう勧めてきた。いっそう魔力がこもるからって。海外とはいえ、彼らに私のあからさまな秘密は打ち明ける気にはならなかった。そこで思い浮かんだのが、株取引サイトのパスワードだった……』
「ふぅん」
苦しそうに告白した鷹宮に、遊は感心したような相づちを打つ。
「タトゥーは古代エジプトの儀式でも用いられていて、化身することによる呪術的な意味もあったらしいですよ。魔の力に魅入られたのかもしれませんね」
弟が雑学を披露する一方、麗楽は懐疑的だった。
魔力に魅入られるだなんて、そんなことが現実にあるものか。が、はたと思い当たる。
殺人事件の被害者幽霊と相対している、まさに現状こそ、普通ではないことに。
この期に及んで麗楽は全身をぶるっと震わせた。――遊は? と見ると、瓶に残った少量のガラナを飲み干している。眠気のせいか、今夜の彼は積極的にカフェイン摂取している。あくびをかみ殺している弟を一瞥し、少しだけ脱力した。
「よし、本題に戻ろう!」
「タイム」
二度目の『待った』をかけられた遊は心底うんざりした顔をした。
「またですかお姉サマ。次からタイム1回につき1万円取るよ」
「ふざけんな。――タトゥーを切り刻んだ理由って、決まっているんじゃない? あんた言ってたじゃない、“宝を独り占めしたいから”って」
知り得た秘密を自分だけのものにしたから――これを前提に推理を進めていたはずだが。
「忘れて。ノーカウントで」
あっさり撤回される。眉根を寄せた麗楽をけん制するよう、遊は手のひらを振って、
「もちろん、いい加減な理由ではないよ。タトゥーが“迷路”とわかったからだ。
犯人の立場になって考えてみなよ。いくら秘密を独り占めしたいからって、誰を警戒して迷路を切り刻んだりする必要があったろう?」
「え……」
まったく予想外の問題提起だった。
誰を――? 犯人以外の容疑者の誰か、ではないの? 遊は姉の思考を読んだようなタイミングで続ける。
「たとえば、犯人が去った後、偶然誰かが死体を発見したとする。とはいえ、タトゥー迷路はぱっと見で解けるほど単純なものじゃないし、仮に解けたとしても麗楽が指摘したとおり、数字とパスワードの意味に気づくとも限らない。
というか、タトゥーを他のゲストの目に触れさせたくないなら、すぐ発見されない場所に死体を隠しておけばいいんだ。脱衣所の収納棚の中とか、脱衣所や浴室に鍵をかけておくとかしてね」
「じゃあ、どうして切り刻むなんて残虐なこと……」
「うん。そこまでしたからには相応の理由があったと考えざるをえない。
そもそも、あれは誰に向けての“メッセージ”だったのか。僕は根本的なところを勘違いしていた」
遊は鉛筆を振って、自分の額にコツンと当てた。
「犯人以外のゲストじゃなければ、誰だろう? 死体の状況をよく観察し、調査を進めるのは誰か」
「……ちょっと待って」
三度目の『待った』はさすがに受け付けられなかった。
「警察だよ。
タトゥーを切り刻んだのは、警察へのメッセージ。当然、強い怨恨だなんて思って欲しかったわけじゃないよ。
犯人は未来を予測し、賭けに出た。
タトゥーに気づいた警察は何が彫られていたのかを捜査し、いずれ解答にたどり着く。日本の警察は優秀だからね。そして、切り刻まれていたのが株取引サイトのパスワードと判明したとき、彼らはどんな人物を容疑者とみなすか?」
優秀という言葉が、今は皮肉にしか聞こえなかった。麗楽は苦虫をかみつぶしたような表情になる。
「鷹宮豪が株取引サイトを利用していたことを知る人物」
自身の推理が、よりによって、こんなかたちでリピートされるなんて。
タトゥーを切り刻んだ輩は、鷹宮が株取引サイト利用者と知っている――そんな人物を犯人に仕立てようとした?
私の思考は犯人によって仕組まれた罠だったの……?
少なからぬダメージを受けた麗楽を、遊はさらに困惑の渦に引きずり込む。
「ところが、この推理は大いなる矛盾を含んでいる。わかる? わかりますか?」
姉と鷹宮に両方訊ねるが、答えが返ってこないのに盛大な溜息をもらした。
「残念! ちょっと考えてみればわかるでしょ。
犯人自体が迷路の真意を理解していないと、この罠を張れないんだよ」
「頭が……こんがらかってきた」
セミロングの髪をせわしく撫でて、麗楽はひとつ深呼吸した。
落ち着いて整理してみよう。うん。
迷路の真意――浮かび上がる数字とアルファベットが株取引サイトのパスワードとわかった人物が、同じくピンとくるであろう人物を嵌めようとした?
たしかに変だ。下手すると、自分にも疑いがかかってしまうのに。とすると、犯人の狙いはいったい……?
考えがまとまらないうちに、「鷹宮社長」と遊は被害者に呼びかけた。口調まで改まっている。
「あなたが株取引サイトの利用者と知っていたのは誰ですか?」
はたから見てもわかるほどに、幽霊は憔悴していた。
かつての黙秘を貫こうとした堅牢さは消え、そこにいるのは、還暦間近のひとりの男性だった。すべての鎧を剥がされてしまったかのように、鷹宮豪は深くうなだれている。
『折笠さんはPCをロクに弄ったこともない機械音痴だ……剛力君も違う。株をやっていることは話したかもしれないが、社長室のPCにアクセスする術がない』
「剛力さんは他の観点からも除外できるよ。マッチョな彼なら浴槽まで引きずらなくても、死体クルクルできそうだしね」
遊が得意げに加えた。麗楽としては、死体クルクル説はいまだにどうかと思っているが。
4-2=2である。単純な計算。残っているのは――
『寛か大谷さんだろう。彼らには株取引サイトの件は伝えてあるし、私が個人で管理していたPCにアクセスする機会もある』
会社の専務と秘書――か。麗楽は静かに立ち上がる。
「お姉ちゃん、どこへ?」
「鷹宮さんが利用している株取引サイトの動向を確認する」
とりあえずシゲさんに相談してみよう。
被害者の幽霊と話したことはぼかして。上手くできるか不安だけれど、容疑者がここまで絞られたのに動かずにはいられない。
「待って。鷹宮さんが、まだ何かを告白したいみたいだ。最後まで聞いてあげよう」
腕をがっしり掴まれ、断固とした態度で止められた。
やきもきしながら座り直した麗楽は固唾をのむ。
鷹宮が激変していた。全体的に赤みを帯びて、両眼は剣呑な光を帯びている。恐怖が蘇った。もしや、ついに“悪霊化”してしまうんじゃ……
『違う……違うんだ』
漏れ出た呻きは、ひどく反響した。麗楽のこめかみに鋭い痛みが走る。
『話があると告げられた。寛と結婚したい……と。青天の霹靂だった。私は……好きだったんだ……彼女が』
いっそう苦しげに言葉が重ねられる。
彼女?
『妻を亡くしてから私を支えてくれた彼女を……愛していた。柄にもなく、本気だった。だから、ついかっとなってしまい……寛と結婚するなら、奴に財産は譲らないなどと……私と結婚してくれるならすべてをゆずってもいいと愚かなことを。
私があんなものを彫らなければ、ふたりは罪を犯さず済んだ……許してくれ』
狂おしいほどの懺悔だった。想いが強いほどに反響が大きくなっていく。
まともに聴いていられないほどの耳鳴りに襲われ、身体を縮こまらせている麗楽の横で、遊が言った。
「大丈夫ですよ」
死者への弔いが感じられる、柔らかな声音。
「あなたが殺されたのは、あなたがタトゥーを彫ったせいなんかじゃない」
刹那、耳鳴りが消えた。
毒気を抜かれたような顔貌になった幽霊は、少しだけ、本当に少しだけ、微笑したように見えた。
そうして、勢い良く吹かれたロウソクの炎みたいに揺らめき、消えてしまったのである。跡形もなく。
「いなくなっちゃったね……成仏できるといいけど」
残されたのは、琉球畳敷きの殺風景なリビングと、双子の姉弟だけだった。
放心したように座り込んでいた麗楽は、固い表情のまま呟く。
「大谷三葉に任意同行を要請する」
新米刑事の彼女にはやるべきことがある。
ふらふらと立ち上がった彼女の腕は再び強く掴まれ、引き留められた。
「麗楽。君は間違っている」
今話は少し複雑だったかもしれません。
違和感を持った方、たぶん正解です!次回、真相編です。