9 灰皿ドコドコ【解決編2】
幽霊は嘘を吐かない。生きている人間を騙さない。
そんな保証がどこにある――?
今、向かい合っているモノに得体の知れない恐怖心が涌いてきたが、いまさら逃げることはできない。
隣にいる遊がいつもの調子で平然としているから、麗楽は何とか平静を保つことができた。
『私が君たちに何かを隠している……と?』
投げられた台詞は、どこか挑戦的な響きがこもっていた。
遊は返事の代わりにらくがき帳を広げると、素早く器用に図を描いた。
「報道された情報と麗楽の話から察するに、現場の位置関係はこれで合っているかな」
昔から図画工作と美術の成績だけは敵わなかったっけ。
無言のまま顎を引くと、遊は満足げに腕を組んだ。
「麗楽。この脱衣所を使うとしたら、どの場所で着替える?」
「え」なんだその質問は。「どこでもいいじゃん……それが事件に関係あるの?」
「大アリだよ! 刑事たるもの、いかなるときも想像力を働かせないと。そんなんじゃ出世は望めないよ」
大きなお世話だ。
憮然としている姉の前で、「僕だったら」と弟は図の真ん中を指す。
「ベンチの辺りだな。着替えるとき、椅子があると楽だからねぇ」
「あんたはお年寄りか」
「風呂上がりなら、手前の冷蔵庫がある辺りもいいな。牛乳を飲みながら、冷蔵庫の冷気に当たる。最高!」
「冷蔵庫の扉は閉めなよ。ピーピー鳴ってうるさいから」
「鷹宮さんは、服を脱いでいたところを襲われたんだよね?」
急に語調が変わった。「イマジネーションタイム!」と魔法使いの杖のように、遊は鉛筆をひと振りして、
「犯人の行動をなぞってみよう! まず、脱衣所に侵入する。鷹宮さんに気づかれないよう、灰皿を手に取り、背後から忍び寄る。後頭部を灰皿で殴る」
脳天に鉛筆を振り落とされた麗楽はむっとしてそれを払う。にやにやしながら遊は続けた。
「でも、実際にそんなことが可能だろうか?」
麗楽は眉尻を上げる。どういう意味か。
遊は、姉と、だんまりを決め込む鷹宮へ交互に視線を送った後、不敵にほくそ笑んだ。とっておきの隠し玉があるかのように。
「事件後、灰皿は入口付近の洗面台で発見されたんだよね?
最初からそこにあったのなら理解るんだ。侵入して灰皿を手に取り、鷹宮さんに気づかれず背後から襲うことができる。――けれど、実際は違った。灰皿は浴室扉の脇にある棚に飾られていた。
いいかい? 凶器があったのは、いわば、脱衣所の最奥といえる位置だよ。
ベンチに座りながら、もしくは冷蔵庫の前で着替えていようと、誰かがその位置まで侵入したのに気づかないなんて考えられない。
いや、気づく気づかないの問題じゃないか。僕が犯人なら、そんな場所にある凶器はまず選ばない。背後からこっそり襲うなら、絶対にね」
「……っ!?」
唇を噛み、低く唸る麗楽であった。
実は彼女も同じ着目をして、同じ不自然さに気づいていた。が、今の今まで忘れていた上、思わぬタイミングで先を越されたのが悔しかったのだ。
「どうにも辻褄が合わないね。こういうときは前提が間違っていると考えるべきだろう。さあ、Reイマジネーションタイム!」
「Reって何?」
「repeatとrevengeのreだよ。決まってんだろ!」
理不尽に怒られた。さらに仕草で煽られた麗楽は、目をつむって呼吸を整えてから口を開く。
「犯人はこっそり脱衣所に忍び込み、被害者の後頭部を殴った――のではなく、被害者に声をかけてから脱衣所に入った。おそらく会話も交わしたのでしょう。最終的に殺意を抱いた犯人は、浴室に背を向けて着替えている被害者の背後に回り、灰皿を手にすると、相手の隙をついて後頭部を殴った。
鷹宮さん。あなたの証言がどこまで真実か、私たちには確かめようがありません。でも、意識が途絶える前、あなたはひとりじゃなかった。誰かと一緒だったんじゃないですか?」
『なぜそう断言できる?』
沈黙を守っていた社長幽霊は、驚くほど素早く反撃に出た。
『犯人はあらかじめ凶器を持ち出していたかもしれない。その場で手に取ったのではなくてね』
「いいぞ! 咄嗟にしてはナイス反論です社長!! 面白くなってきたぞ」
遊が無駄に煽ってくる。こいつ、どちらの味方なのか。麗楽は必死に冷静を保ちつつ、首を振った。
「あり得ません。あなたが脱衣所に入る直前まで、換気扇メンテナンスのため業者さんが入っていましたから」
『作業に入る前の時間があっただろう。あるいは作業中でも浴室で作業していたら、脱衣所に人が忍び込んでも気づかなかったかもしれない』
「たしかに、業者さんも同様の証言をしていました。作業中は集中しているから誰かが入ってきたとしても気づけた自信はない、と」
『水田所長は職人気質で仕事熱心だからね』社長は微笑んだ。『ならば、彼の隙をついて、灰皿を取りにいくこともできたのでは?』
「いいえ、違います」
自ら取った証言による反撃を、新米刑事は放つ。
「水田所長は覚えていたんです。作業を終えて脱衣所を出る直前、浴室扉脇の飾り棚に灰皿が置いてあったのを。ガラス細工が見事な灰皿、と見惚れていたそうで」
鷹宮はさすがに苦笑した。
『水田所長は職人気質だからね……。おまけに煙草好きだ』
「殺される直前、ひとりじゃなかったことを認めていただけますか?」
大窓の隙間から風が一筋流れ、汗ばんだ首筋を撫でていった。
私、汗をかいていたんだ。
自覚した麗楽は、肩の力を抜く。過度の緊張は本来持っている能力を損なってしまうから。
追い詰められたかたちになった鷹宮社長は、一転して、能面のような表情に戻ってしまった。黙秘のつもりか。
親しい人々を捜査から解放することが、彼の願いではないの……?
幽霊の真意を測りかねていると、「ええい、しゃらくせぇ!」と弟が江戸っ子風に割り込んできた。
「これはもう、犯人が誰かを特定するしかないでしょ!」
「……できるの?」
「できるさ! でなかったら、こんな恥ずかしい推理ショー誰が始めると思う!?」
恥ずかしいと思っていたんだ……。麗楽は別の意味で衝撃を受けた。
だがしかし、どうやって――?
警察も特定できていない犯人を、論理的に明かすことができるのか。おまけに、この場で唯一の強みである被害者さんが、味方かもわからない状況で。
「夜も更けてきたし、そろそろラストバトルといきましょーか。
僕が考えるに、犯人を特定する鍵は『なぜ犯人はタトゥーを切り刻んだか?』――ズバリこれです!」
次回、解決編ラストです。