ぼくのなかの、ちいさなかみさま。
自分の心の中には、小さな神様が宿っている。
そんなことを妄想し始めたのは、いつからだったか。
昨日からだったかもしれない。あるいは、十年前だったかもしれない。
「かみさまなんて、いない! 大嫌いだ!」
そう幼心に想っていた。そうだ。『神様』なんてものはきっと存在しない。
存在するとすれば、
それは、自分の理想で。想像でしか、なくて。
母親は、そんな僕を悲痛な表情で見ていた。いつも。
僕は反抗心から、母親を遠ざけた。
ありったけのお小遣いを集めて、母親の元から逃げようと必死で走った。
僕の行ける場所なんて高が知れている。それでも、逃げた。
できるだけ、遠くへ。
うそつき。
うそつき。
うそつき。
かみさまなんて、いない!
地面に、倒れ込んだ。そして、僕は眠った。深く深く眠った。
あるいは、そのとき。
僕の心の中に、小さな神様が宿ったのだ。
大人になった僕は、すっかりそのことを忘れていた。
やっと独り立ちして、小さな会社に入って働いていた。
僕には友達も沢山居たし、恋人も居た。
だから、人生に対して不自由は感じなかったし、昔のことも忘れていた。
ふ、と。
崖から大きな石が転がり落ちたんだ。
僕は、石だった。転落していた。
毎晩のように、そんな夢にうなされていた。
汗だくで飛び起きる僕を見て、恋人は言った。
「病院で、診てもらったほうがいいわ」
僕にとって、恋人の言うことは絶対だった。
恋人に従って、とある病院で診てもらった。
先生は、言った。
「眠りが浅いのかもしれませんね。眠剤を出しておきましょう」
僕は促されるままに薬を受け取った。
何だか、その薬は毒薬のようにも見えたが、希望なんだと信じた。
そして、一晩を薬を飲んで過ごした。
もう、夢にうなされることはなく、僕は朝までグッスリ眠ることができた。
恋人は笑って、僕にキスをした。
「これで、大丈夫ね。あなたを取り戻せる」
頷いて、僕も笑った。
その翌日も、夢を見ることはなかった。
しばらくして、仕事の都合で恋人と離れて暮らすことになった。
急なことだったから、恋人は当然のように怒った。
けど、僕は辛抱強く説得して、恋人は納得してくれた。
それでも、いざ離れるという時は顔を覆い隠して泣いていた。
僕は告げた。
「さようなら」
「……」
恋人は、最後に何かを言いたそうに口を動かしていたが、結局何も言わなかった。
時間通りにホームへ到着した電車に乗り込んで、僕はそこを後にした。
ふ、と。
誰かが崖から飛び降りたんだ。
僕は、その後姿を見ていた。ぼーっと、見ていた。
飛び起きた僕は、荒い息を落ち着かせ、汗を拭って時計を確認した。
午前4時。
会社に行くまでにまだ時間はある。
僕は迷わずに薬をもう一粒飲んで、眠りに就いた。
そんな日々が、永遠のように続きそうな気がして、僕は不安になった。
そして、僕はまた病院へ向った。
先生は、言った。
「薬が弱いのかもしれませんね。もう少し強い薬を出しておきましょう」
最初の希望は否定された。そんな気分だった。
それでも、僕は出された薬の希望に縋った。
一晩眠ると、最初みたいにグッスリ眠れた。
僕はホッとして、その薬をまた飲み続けた。
ある日、恋人から電話が来た。
眠れているか心配していると言っていた。
僕は正直に最近のことを話して、もう大丈夫だよ、と言った。
恋人は、電話口で泣いているようだった。
「どうしても、あなたに逢いたいの」
「何かあったの?」
「ううん……何もないけど、ただ、あなたの顔を見たいの。
……安心したいのよ」
「どうしても?」
「ええ、どうしても」
僕は、戸惑った。今は、出来れば仕事に専念したいのだ。
しかし、一人で取り残された彼女も寂しいのだろう。
「じゃあ、あと半月待ってくれないか」
「半月?」
「君と離れてからちょうど一ヶ月経つから」
「でも……」
「これから、月に一回会うようにしよう。
そうしたら、君も寂しくないだろう?」
「……そうね」
そうして、僕は半月後にまた恋人の元へ戻ることにした。
僕を待っていたのは、仕事を辞めて自分の夢を追いかける為に通信制の高校に通い始めた彼女の姿だった。
心なしか、少しやつれていて、しかしその容姿はますます端麗になっていた。
「待っていたわ」
彼女は微笑んで、僕の手を取った。
僕も手を握り返して、微笑んだ。
「ただいま」
「おかえりなさい」
そして、キスをした。
何の飾り気もない、平凡なワンルームで僕達は一時抱き合った。
しばらくすると、彼女は啜り泣きをしだして、僕の顔を見上げた。
目は充血していて、可哀想に思えた。
「ねぇ、最近は眠れている?」
「え?」
「どうしても、心配なのよ」
「最近は……そうだね、薬のお陰か眠れているよ。けれど」
「けれど?」
僕は、息を吸い込んだ。
「また、夢を見始めたんだ。まだ、悪夢とは言えない、普通の夢」
「そう……」
夢を見ることなんて、普通のことだって僕は分かっている。
分かっているつもりでも、僕にとって「夢」とは「悪魔」のようなものだった。
彼女は、目を閉じて、まるでお祈りをするかのように両手を胸の前で合わせた。
「私、毎日祈っているのよ。貴方が、ちゃんと眠れるようにって」
そうして、また微笑んだ。
「貴方の為に、クリスチャンの学校にも通い始めたの。だから、絶対大丈夫。
神様はどんな祈りでも聞いて下さるわ。例え、恨み辛みの願いだって」
「クリスチャン……? 君は、夢を叶えるって言ってなかった?」
「ええ。叶えるのよ。……その、夢はね」
一瞬間を置いて、彼女は僕の目を穴が開きそうなほどに見つめてこう言った。
「貴方と共に、永遠に生きるってことよ」
僕は、眩暈がしそうになって彼女から身を離した。
「どうしたの?」
「いや……僕は、君がてっきりちゃんとした夢を追いかけているのかとばっかり思っていたから」
「これも、ちゃんとした夢よ。貴方だって、そうでしょう?」
眩暈がする。吐き気もしてきそうだ。
ここで、何故か昨夜見た夢を思い出した。
とある遊園地で、彼女とサバイバルゲームをして遊ぶ夢。
夢で見た彼女は、今よりもっと健康的で、元気で明るく感じた。
だが、今の彼女は、何処か病んでしまっているように思ってしまった。
しかも、「かみさま」と来たもんだ。
頭を抱えて、僕は思わず笑っていた。僕も病んでいるのだ。
「僕は、君が好きだった。今も好きさ。君は綺麗だ。どんな女の子より。
けれど、僕は好きじゃないんだ。その単語が。「神様」っていう単語がさ」
「それは、どうして? 神様は慈悲深いお方よ。どんな罪でも、悔い改めれば許して下さる。
そう、学んだばっかりよ」
「だから、そういうのが」
うんざりだった。神様。その存在からは遠ざかっていた筈なのに。
こんなに近くにまだ在ったなんて。
「キライなんだよ」
僕は、逃げ出した。
あの頃と同じように。彼女の表情を見た。悲痛な表情をしていた。
なんで信じないの? と、僕の方を哀れむように。
それが、堪らなく嫌だった。
母親と同じじゃないか。
狂ったように走り、気付けば陽が傾きかけていた。
そうして、僕はある所で立ち止まった。
教会の、鐘が鳴る学校。
シスターとでも言おうか。そんな姿をした女生徒達が次々と挨拶を交わして帰っていく。
僕は離れたい意思とは反対に、足が校舎の方へ向いていた。
ここで、ちゃんとお別れしよう。
「かみさま」とやらと。
そう決意して、夕焼け色に染まる十字架を僕は睨み付けた。
鐘の音は鳴り続けている。
色んな女生徒に僕の姿は映っていただろう。
が、ここは教会とも併設されている為、一般人もよく来ることがあるらしい。
僕の他にも、この時間から校舎に入る人が幾人か見えた。
その人達はまるで、何かに取り憑かれているかのようにふらふらと教会へ向っていた。
僕も同じだった。ふらふらと、誘われるように教会へ向った。
鐘の音は鳴り止まない。
ちょうど、夕刻だからだろうか。
「かみさまは、あいにみちているのよ」
「おかあさんも、あなたのことをあいしているわ」
「でもね、よくきいて。あなたもおかあさんも、いちばんあいさなければいけないのは」
「それはね」
ふ、と意識が途切れたかのように感じた。
僕は、いつの間にか教会の扉を開いて、中まで入っていた。
無意識だったのかもしれない。道順をよく覚えていない。
鐘の音も鳴り止んでいた。
そこには、数人お祈りを捧げている人がいた。
眼前には、大きな聖母マリアの肖像画が飾られていた。
赤と黄で彩られたステンドグラスからは、橙色の陽光が降り注いでいる。
その光が、肖像画に当てられ、一層神秘的に見えた。
僕は、熱中症にでもなった気分になった。
身体が異常に火照り、頭はくらくらした。
吐き気もしている。
この情景を、僕の身体は“素敵なモノ”と感じていたが、僕の脳内では“忌まわしいモノ”と認識されていた。
訳が分からなくなって、僕は思わずそこにしゃがみ込んだ。
その姿はまるで、お祈りを捧げているかのような姿だったと思う。
気付け薬が欲しい。と僕は本能的に思った。
今のままだと、この雰囲気に飲まれてしまい、お別れなんて到底できそうになかった。
いつも常用している安定剤を、僕は一気に喉に流し込んだ。
身体と心が、分離していく。身体は雰囲気に飲み込まれている。が、心は薬のお陰で僕のままでいられる。
僕は震えを抑えて、立ち上がった。
そして、お祈りを捧げている人がそうしているように、両手を胸の前で合わせる。
これで最後だ。さようならだ。そう思って。
聖母マリアの肖像画を、十字架を睨んだように睨み付け、目を閉じた。
僕の現実での意識はここで霞むことになる。
「キミの、名前は、なあに?」
誰かが誰何している。
僕は朧げに答えた。
「ユウヤ」
「ユウヤくんっていうんだね。はじめまして。……じゃないけれど」
その声は、幼い男の子の声をしていた。
何故だか、胸の辺りが酷く痛む。
僕は自分の胸を触ろうとして、気付いた。
姿が、ない。自分の姿が見えない。
「あぁ、ごめんね。ユウヤくん。ここでの実体化はできなかったんだ。
ここではキミの精霊……守護霊みたいなもんさ、ソイツを通して会話させてもらっているんだ。ボクも同じようなものだよ」
意味が分からない。
「ところで、キミは何でそんなに恨んでいるの?」
待ったもかけずに、「精霊」とやらは核心をついてきた。
「何のことですか」
「ごめんね。キミの心を読んでしまったよ。キミは、異常に嫌っている。
“かみさま”のことをね」
はい、嫌っていますよ、と言いたかった。が、僕は言葉を発さなかった。
「“かみさま”の、何が嫌いなのかな? それとも、“かみさま”を畏れる人々が嫌いなのかな?」
声は次々と僕に言葉を投げかける。
僕はただ、受身のままだった。
「前者だったら、ボクには何も言えないね。それは、人によって好き嫌いあるからね。
けれど、後者だったら……“かみさま”自身に罪はないと思わないかい?」
何も言えなかった。
図星と言えば図星だし、外れていると言えば外れている。
僕は、姿の見えない「精霊」を虚勢を張って睨み付けた。しかし、僕自身も「精霊」と化しているので、その視線は届かなかった。
「ボクは、ユウヤくんとずっと話してみたかったんだよ。それは、どうしてか分かる? もう、覚えてない?」
「何の……ことですか」
僕はやっと口にした。
でも、頭の何処かで、あの日のことだと分かっていた。
あの、逃げた日のこと。
僕の心に、小さな神様が宿った日のこと。
「キミは忘れようとしているね。順風満帆な人生を歩んで、何不自由なく生きてきたキミは。ボクは覚えているよ。キミのこと。キミが、あの日、祈ってくれたこと。ボクを拾ってくれたこと」
僕は、何も言えない。
「キミは、ユウヤくんは、あの日以来“かみさま”には祈らなくなったね。逃げ出したユウヤくんは、もう誰にも頼らなくなった訳だ」
「精霊」は、息を吸うように間を開けた。
「でも、今、キミは恋人に依存している」
「そんなこと、ない」
それだけは、否定した。
僕は、彼女が好きだ。今も好きだ。
だけど、依存したことは唯の一度もない……はずだ。
「その証拠に、夢を見ただろう?
最初は取るに足らない、普通の夢。けれど、その内、眠りもうまく取れない程の悪夢に変わった。それはね、彼女がユウヤくんをコントロールしていたからだ」
「精霊」は、意味の分からない事を朗々と僕に告げる。
「彼女はね、キミの母親の知り合いだ。母親に頼まれて、キミに近付いたんだよ。これを聞いても、まだ彼女のことが好きかい?」
「意味が……分からないよ。君は何なんだ。急にそんな事を僕に言ってきて、どうしたいんだ。僕を、どうしたいんだ」
「ボクは、ユウヤくんを助けたいんだよ。何せボクはユウヤくんの小さな“かみさま”だからね」
「助けてくれるのだったら……」
そこまで言いかけて、僕は言葉を止めた。
思い出した。僕は、“かみさま”とお別れする為にあそこに居た筈だった。
だったら、僕の言うべき言葉は一つ。
「僕は、君とお別れしたい。もう、小さな神様はいらないんだ。彼女が母親の知り合いだとしても、僕は彼女が好きだ。それは変わらない。“かみさま”とは、お別れする」
「それは、同時に彼女とお別れすることにもなるけど、いいのかい?」
「それでも、いい。僕は一人でもやっていけるつもりだ」
僕は淡々と答えた。
実際、彼女が居なくなっても、小さな“かみさま”が居なくなっても、生きていける強さがあると慢心していた。
「分かったよ」
「精霊」は言った。特に何の感情も感じられなかった。
「じゃあ、これで、お別れだね。ユウヤくん。今日初めて話せて、よかったよ。拾ってくれて、ありがとう。ボクはもうユウヤくんからは離れるよ。ユウヤくんの望む事だからね」
僕は、自分の身体が、段々戻ってくるのを感じていた。
「でも、忘れないで。キミのお母さんも、恋人も」
「精霊」は言葉を続ける。
聞きたくもない言葉を。
「本当に愛しているのは、キミじゃないんだってこと」
目を開けた。
そこは、見慣れたワンルーム。
ベッドの上に、僕は寝ていた。
彼女の、部屋だ。
「目が覚めた?」
彼女の泣き顔が視界に入ってきた。
「貴方、熱中症で倒れていたのよ」
「僕は……教会に居たのか」
「ええ。私の通う学校に居たのよ。何故かしら。胸騒ぎがして、教会に行ってみたのよ。そうしたら、貴方が倒れていて……」
「夢……だったのか……?」
すると、彼女の顔色が変わった。
「何か夢を見たの!?」
「うん。何だかよく分からない夢を見ていたような気がするよ」
「私、ずっとお祈りしていたのよ。貴方が、神様を信じて、幸せになりますように。って」
その時、僕は初めて彼女自身に対して嫌悪感を覚えた。
その言葉を聞いた時、ゾッとしてしまったのだ。
母親もそんな事を言っていた。
「おかあさんが一番愛さなければいけないのは、神様なの。わかってくれる?」
思い出した。
ずっとうろ覚えだったのに。
それが、嫌だったんだ。
彼女は、同じことを言っている。
「精霊」の最後の言葉が頭を過る。
“本当に愛しているのは、キミじゃないんだってこと”
つまりは、そういうことだった。
「もう、やめてくれないか」
「……え?」
「ウンザリだ! その話をしないでくれ!」
僕は、激昂していた。
彼女に対して、初めて。
「……なんでなの」
「ウンザリなんだよ! もう、聞きたくないって言ってるんだ!」
「なんで」
ふと、気付いた。
彼女は目を真っ赤に腫らし、涙をポロポロと流していた。それが尋常じゃない位に泣いていた。
「なんで、わからないのよ! 私は、貴方の為に、祈ってあげてるのに! 幸せを祈って! なのに、なんでわからないのよッ!!」
そして、彼女もまた、初めて僕に向けて感情を暴露させた。
と、叫んだと同時に、脱力したかのように彼女は停止した。
「もういいわ……」
キッチンの方へ向かっていくと、何やら探っている。
僕も思考が停止していた。
だから、止めることもできなかったんだ。
これが、悪夢なら。よかったのかもしれない。
「お別れね」
彼女はそう呟くと、包丁を僕の胸に突き刺した。
意識が遠のく。
彼女は泣きながら、
――笑っていた。
「これで、神様の元に逝けるわ! 永遠に一緒ね、ユウヤ……!」
そうして、僕の中のちいさな“かみさま”は、僕の消滅により消え失せたのだった。