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わたしはパンダ

作者: 黒月

 月曜日の早朝、動物園の入り口で待っていると、京ちゃんが来ました。


「おはよう」

 と、声をかけてきたので、

「ごきげんよう」

 と、わたしは優雅に答えます。


 京ちゃんは、本名を結城京一といい、わたしの従兄弟にあたります。

 いつもは法事くらいしか会う機会がなくて、こうして二人きりになるのは初めてかもしれません。

 彼は、髪を七三分けにしており、いかにも適当なTシャツ姿でした。やせ形の長身で、素材は悪くないくせに、見るからに女性に縁がなさそうです。


「ごめん、待ったかな。早く来たつもりなんだけど」

「ほんの少し。今日のことは、楽しみにしていました」


 アルバイトをするために、わたしはここに来ています。

 そのくせ、仕事の詳しい内容や条件については、まだ教えてもらっていません。

 電話で聞いたとき、京ちゃんは『現地で説明するから』と怪しげに告げ、不敵に笑っていました。

 見た目はダサいけど悪い人ではないから、警戒はしてません。

 とはいえ、彼の仕事は動物園の飼育員。業界の常識から考えると、あまり儲けがいいとも思えませんけど。


「ふふん。期待していいよ」


 京ちゃんは、不自然なくらい自信満々でした。


 職員用の通用門から、園内へと入ります。

 わたしは昔から生き物が好きで、ここには何度も足を運んでいます。

 正面ゲートの側にカモ舎があって、右手にはアフリカゾウの広場、左手にはフラミンゴの池。丸まって寝ているクジャクの前を横切っていくと、白と黒の大きな建物が見えてきます。


 パンダハウス。


 ここ、私立プリンセス動物園でもっとも人気のある動物といえば、メスのジャイアントパンダ・麗優(れいゆう)に他なりません。

 人は皆、その愛らしい姿を見たとき、苦しい日常や社会の理不尽さを忘れて、ついついにっこりしてしまうものです。

 逆説としては、麗優を見てにこりともしない奴は人じゃない。

 そう断定できるくらい、可愛らしいパンダなのです。


 パンダハウスの前で立ち止まると、京ちゃんが問いかけてきました。


「一応、確認する。恵美ちゃんって、身長何センチ?」

「百四十六。……嫌なことを聞きますね」


 身長が低いのはコンプレックスです。小学生の頃から、背の順で並ぶときはいつも先頭でした。


「ごめん。身長が低くないと、できないことだから」


 京ちゃんはパンダハウスのシャッターを持ち上げると、ガラス製の自動ドアを手で開けました。


「こっち来て」

 とわたしを中に招き入れて、さらに入り口の横にある鉄の扉を開けます。

 この先は職員用の区画で、わたしも入るのは始めてです。剥き出しのコンクリート。質素な事務机。奥に鉄格子があって、藁が高く積み上げられています。

 そして、竹の葉に囲まれて、パンダの麗優が丸くなっていました。


 低い声で、京ちゃんが言います。


「時給の話をしよう。五千円で用意してるけど、不服はないよね?」


 高すぎます。少し考えて、日給の言い間違いだと思いました。つまり、九時から五時まで働いて、途中で一時間の休憩を取るとすれば、時給換算で七百円ちょっと。

 うーん、流石にこれは……。


「安すぎます。最低賃金を割ってるのでは?」

「時給だよ? 開園から閉園まで八時間働いて、四万円」


 わたしは目を見開くと、まじまじと彼を見つめました。

 京ちゃんはいつになく堅い表情です。七三分けがぬるりと光っていて、どことなく威圧的です。

 あれ、こんな人でしたっけ?


「今なら引き返してもいいけど、説明したら引き受けてもらうしかなくなる。恵美ちゃん、本当にやってみる?」


 わたしは唾を飲みました。

 ――いや、相手は京ちゃんです。悪い話じゃないはず。


「やります。説明してください」

「この金額には口止め料も含まれている。これからのことは、絶対に他言無用だよ」


 京ちゃんは鉄格子に設置された扉を開けると、中に入っていきました。

 不思議なことに、扉は閉めません。麗優が檻を出てしまったら、どうするつもりでしょう?

 しかし、麗優は死んでいるかのように、ピクリとも動きません。

 京ちゃんは麗優の正面に立ちました。

 無造作に頭を掴み、ごろりと仰向けにひっくり返します。

 麗優はぐにゃりとした様子で、骨がないようです。

 明らかに不自然です。


 京ちゃんが右手を麗優の喉元にやりました。

 そのまま、腹にそってスライドさせていきます。

「ジィィィ……」と金属のこすれる音。

 京ちゃんは右手を股間まで移動させると、手のひらを腹に突き刺しました。

 麗優のお腹がぱっくりと割れて、中から白い布が露わになります。


 わたしは瞬きすることを忘れて、餌をねだる鯉のように口をパクパクさせました。


「この中に入って、パンダのふりをして欲しいんだ」

 京ちゃんは淡々とした口調で、とんでもないことを言ってます。

「一日中、ごろごろしてるだけでいい。時々、竹の葉を食べたり、タイヤで遊んでくれたら完璧だ」


 わたしは狼狽しながら、檻の方へと詰め寄りました。


「説明してください。麗優は着ぐるみだったということですか?」

「誤解だよ。これは一時的な処置なんだ。

 本物の麗優は病気でね。詳しくは言えないけど、バレたら大問題になりそうだから、しばらく着ぐるみで乗り切ろうとしてるんだよ」


「麗優はどこにいるんですか?」

「今、東京の動物病院で精密検査を受けてる。設備の関係で、ここではできなくて」


 本当でしょうか? 何となく、怪しい気がします。

 とはいえ、真実を知る術はありませんし、バイト代の四万円は正直言って助かります。

 とりあえず、今は目をつむることにしましょう。


 京ちゃんはこちらに戻ってくると、渋い顔で釘を刺しました。


「パンダ的じゃない行動は絶対に駄目だよ。

 例えば、二本足で立ったり、人の言葉に反応したりね。

 もし人間だとばれるような行動を取れば、罰金を払ってもらうから。

 僕はこの部屋にいて、監視カメラで確認してる。頼むから、変なことはしないでくれよ」


 事務机の一番上の引き出しを開けて、書類を取り出します。

「これ、マニュアルね。開園までに精読しておくように」


 開園五分前になりました。

 わたしはリアルすぎるパンダの着ぐるみを着て、屋外のパンダ舎に入ります。

 バックヤードの扉が屋外にある小屋の中へとつながっていて、そこから自由に行き来できる構造になってます。


 小屋の扉を開けると、あたりは綺麗に刈られた芝生でした。

 丸太を並べたステージが中央にあって、とりあえずその上に座ります。

 ステージの右側には孟宗竹が積み上がっていて、左側にはタイヤなどの遊具が置かれています。

 パンダ舎は、東側が壁になっている半円型です。

 壁があるところ以外はぐるりと空堀に囲まれ、さらに柵が張り巡らされています。

 柵の向こう側を確認すると、正面に広場がありました。

 飾り気のない時計が、街灯の間から伸びています。

 そして、柵の左端にはポールが立っていて、そのてっぺんに監視カメラが備え付けられ、こちらに向けられていました。

 マニュアルの内容を頭の中で復唱します。

 監視カメラは一台だけで、その映像は開園時間中ずっと記録されている。

 さらにリアルタイムで事務所のモニターに映ってるそうです。

 客に見られるのも嫌だけど、四六時中カメラに監視されるのも、同じくらい息苦しいものです。


 わたしは気を紛らわすために、孟宗竹を手に取りました。

 着ぐるみの指は一本一本を動かすことはできませんけど、掌底の内側に突起物があり、ここと指で挟み込むようにして物が掴めます。

 野球のグローブみたいです。

 さらに、顎のパーツはわたしの顎に固定されていて、わたしが口を開けると着ぐるみの口も開く構造になっています。

 わたしは着ぐるみの口の中に、竹の葉をねじ込みました。

 下顎とお腹にある袋が繋がっていて、そこに竹の葉を収納していくのです。

 しかし、引っかかって上手くいきません。

 顎を閉じて、細かく引きちぎります。

 しばらくもしゃもしゃやって、一固まりを押し込みます。

 思ったより大変で、情けない気持ちになりました。


 このまま八時間も耐えられるのか、自信がありません。

 着ぐるみの頭部にはマイクとイヤホンが入っていて、事務室の京ちゃんとは通話ができます。


「わたしは何故、こんなことをしてるんでしょう」

『我慢して。午前と午後に二回ずつ、それぞれ二〇分間は、こちらに戻って休憩していいから』

「たったの二〇分ですよ。

 着ぐるみを脱いで、トイレして、また着こんで、ここに戻って来れます?」

『恵美ちゃんならできる。信じてるよ』


 酷いです。もうちょっと優しくしてくれてもいいのに。


『あんまり水を飲み過ぎないことだね』

 と、京ちゃんは言いました。

『どうしようもなければ戻ってきていいけど、麗優はこの動物園の目玉なんだ。

 席を外すのは、お客さんに申し訳ないだろ?』


 偽物のパンダで騙すことの方が、よほどお客様に申し訳ないでしょうに。

 まあ、やると決めたことなので、口には出しませんが。


 ちなみに、着ぐるみの背中には水筒があり、口元にまでチューブが伸びていて、いつでも自由に水を飲むことができます。


『恵美ちゃんって、昔っからパンダ好きだったよね』

「何ですか? 藪から棒に」

『十二歳の誕生日に、パンダのぬいぐるみをプレゼントしたんだよ。覚えてる?』


 もちろん。その子にはレイレイという名前をあたえて、今でも枕元に座ってもらってます。

 ちなみに、レイレイの右にはオカピが、左にはコビトカバがいます。

 机の上には海洋堂のサバンナシリーズが勢揃いしてて、本棚にはガジュマルがヤシガニのフィギュアをつけて花を咲かせています。

 壁には、コウノトリやオオサンショウオ、アマミノクロウサギなど、特別天然記念物のポスターが楽しく並んでいます。


 ――ああ、自分の部屋に戻りたい。


「覚えてますよ。それが、どうかしました?」

『いや。恵美ちゃんにとって、このバイトは天職じゃないかと思って』

「パンダって可愛いですよね。

 大好きです。

 けど、パンダになりたいと思ったことは、一度だってありません」

『そっか。……まあ、頑張って』


 残念そうな口調で、投げやりな言葉。

 わたしは眉をひそめると、ごろりと寝転がりました。

 着ぐるみの顎を動かして、むしゃむしゃと竹の葉を腹袋に押し込みます。


 しばらくすると、ちらほらと客が入り始めました。

 カップルがわたしの前で立ち止まり、スマホのカメラを向けてきます。

 その後ろで、若いサラリーマンが電話で話していました。


「はい。すみません部長、渋滞に巻き込まれてしまいまして」


 動物園で時間を潰すとは、気合いの入ったサボりっぷりですね。


「そんなこと言わないでくださいよ。僕だって、必死にやってるんですから。

 分かってます、すべての案件が大至急ですよね。

 時間ですか? 今から戻って、提出は多分、三時頃でしょうか。

 二時までに? そんな無茶な!」


 大声でやりとりしてから、忌々しげに携帯を閉じます。

 そして天を仰ぐと

「うああ、戻りたくねぇ」とぼやきました。

 だらりと柵にもたれかかって、こちらに視線を投げかけてきます。


「お前はいいよな、何もしなくても人気者で。

 シロクマもヒグマも閑古鳥なのに、毛の色で差別してんじゃねぇよ」


 ひとしきり毒づいてから、サラリーマンは暗い顔をして去っていきました。

 ――頑張って、とわたしは心の中で応援します。


 しばらくごろごろしていたら、京ちゃんの声が聞こえました。


『恵美ちゃん、お昼休憩、入ってもいいよ』


 おや、もうそんな時間ですか。

 広場の時計を確認すると、いつの間にやら十二時半。

 わたしはあくびをかみ殺しつつ、よたよた小屋の中へと入ります。


 事務所では、京ちゃんが涼しい顔でモニターを見つめていました。

 着ぐるみを脱ぐのは、一人でもできそうです。

 右腕を抜いて、お腹のチャックを中から開けると、新鮮な空気が流れ込んできて、ひんやり爽快になりました。

 頭をすっぽりと抜いて、左腕も脱いで、上半身だけTシャツ姿になります。


 いつの間にか京ちゃんが、こちらをじっと観察していました。


「器用なもんだね。着るのも、一人でできそう?」

「簡単ですよ。ウサギの交尾くらい、素早くやってみせます」

「恵美ちゃん、彼氏いないでしょ」


 図星です。ムッとなって、京ちゃんを睨みつけます。

 わたしには彼氏がいません。さらに言うなら友達も少ない。


 京ちゃんは目を逸らしました。


「そういえば、午後からチンパンジーの健康診断に立ち会わなきゃいけなくてね。

 しばらく席を外すけど、大丈夫だよね?」

「お好きなように」

「変なことしちゃ駄目だよ。後で監視カメラを確認するから、誤魔化すことはできないよ」


 しつこい。そんなにわたしが信用できないのでしょうか。


 休憩時間は二〇分しかありません。

 お腹の袋から竹の葉を取り出し、背中の水筒に水を補充すると、再び着ぐるみを着込みます。

 扉を開けて事務所を出て、パンダのケージに戻っていきます。


 再び、芝生の上でごろごろし続けて、一時を過ぎたあたりからしんどくなってきました。

 着ぐるみはしっかりした作りで、それだけに中が蒸し蒸しするのです。

 わたしはストローを吸って水分補給すると、京ちゃんにクレームを入れました。


「ねえ。暑いんですけど、何とかなりません?」


 返事がありません。チンパンジーの健康診断に行ってしまったのでしょうか。


 ふいに、柵の方から、ガチャンと激しい物音がします。


「あ、あんた……今、何て言った!?」


 男の声。どうしたのでしょう。

 わたしはよっこらしょと身を起こして、声がした方を確認します。


 身長差のある二人の老人が、顔を赤くしてにらみ合っていました。

 小柄な男が、小馬鹿にするような様子で吐き捨てます。


「僕は客観的な、パンダの美醜の話をしとるんです。

 美しさの条件とは、毛並の白黒がはっきりしていること。

 ところがここの麗優ときたら、後ろ足に近づくにつれ黒い部分が茶色がかってくる。

 はっきり言って、器量が悪い、美しくないのです」


 大柄な男の顔が、みるみるうちにハシビロウコウのように恐くなっていきます。

 噛みつくように怒鳴りました。


「この野郎、麗優を馬鹿にすんな!」


 小柄な男に詰め寄り、おもむろに長い腕を伸ばします。

 小柄な男が突き飛ばされて、よろめき、監視カメラが設置されたポールにぶつかりました。

 ポールは老朽化していたのか、あっさり倒れます。


 監視カメラが石畳に落ちていきます。

 ガラスの割れる音が響いて、わたしはぎょっとなると、マイクに語りかけました。


「ちょっと京ちゃん。お客様が喧嘩を始めているんですけど」


 返事はありません。

 二人の老人は取っ組み合いを始めています。

 どうしたらいいか分からなくて、わたしはオロオロとしました。


「そこ、何やってるんですか!?」


 横合いから鋭い声が聞こえてきました。

 左手から若い警備員が現れると、二人の老人に駆け寄っていきます。

 老人達がつかみ合いをやめて距離を置きました。

 警備員は、よく通る声で問いかけます。


「いったい、何があったんです?」


 老人達は何やらごにょごにょ答えたみたいですが、声が小さくてよく聞こえません。


「事務所まで来てください。詳しい話はそこでお願いします」


 二人の老人は互いに顔を見合わせると、しょんぼり肩を落としました。

 母牛から引き離されて売られていく仔牛のように、警備員に連れられていきます。


 彼らがいなくなると、あたりはシンとなりました。


 まばらな客。折れたポール。壊れた監視カメラ。


「ねえ、京ちゃん?」


 呼びかけてみても、やはり返答はありません。

 そういえば、監視カメラは一つしかなかったはずです。

 今はそれが壊れていて、つまり、わたしが何をしたところで、映像には残らない。

 今、わたしは自由になっているのです。


 すうっと胸が軽くなる気がしました。

 ごろりと寝転がって、瞳を閉じます。

 相変わらず、着ぐるみの中は蒸し暑いけど、不思議なことに、耐えられないほどでもないと思えてきました。


 おや、新しい客が来たようです。

 右側から還暦くらいのおばちゃん達の集団が、左側からは幼稚園児が三人走ってきます。

 園児がおばちゃん達を押しのけて、最前列に陣取りました。


 少し遅れて、さらに多くの園児を引き連れて先生が訪れました。

 先行していた三人の園児を軽く叱りつつ、おばちゃん達に頭を下げます。

 一方で、おばちゃん達はご機嫌なようです。


「大変ですねぇ。そこのボク、あんまり先生を困らしちゃ駄目よ」

「はぁい、ごめんなさい」


 一番やんちゃそうな少年がきちんと頭を下げるのを見て、わたしはくすりとしました。

 園児達は大騒ぎで、どうにも微笑ましくなって、頬が緩んでしまいます。

 おやおや、正面にいる髪の長い女の子が、こちらに向かって必死に手を振ってますよ。

 わたしも思わず、手を振り返しました。すると――


「キァァァァァァ、バイバイシタァァァァァッッ!」


 女の子が引っこ抜かれたマンドラゴラみたいに奇声をあげました。

 まずいと思って口元に手をやると、その様子もおかしかったらしく、園児達が一斉に飛び跳ねて喜びます。

 大人達は口に手を当てて驚いています。

 やらかした。

 たぶん、これは、かなり、まずい。


 わたしは客に背を向けると、そばに落ちている孟宗竹を手繰り寄せました。

 園児達の歓声が背中に突き刺さっています。

 聞こえない、聞こえない。

 瞳を閉じて、何度も自分に言い聞かせます。

 ――パンダ、わたしはパンダ。


 パンダ。パンダ。パンダパンダパンダ。

 考えているうちにパンダという単語がゲシュタルト崩壊を起こし始めました。

 どうしようイミガワカラナイ……ここはひとつ、パンダとはどういう存在なのか、というあたりから、じっくり考えてみることにしましょう。


 ジャイアントパンダ。

 思えば不思議な動物です。

 奇妙な模様をしてる上に、熊なのに笹が主食なのです。


 奇妙な白黒模様の理由には、大きく分けて四つの説があるといいます。

 目立つ模様でまわりに警告をしている、すなわち警戒色という説と、逆に冬は雪原に溶け込むため保護色になるという説。異性に発見してもらうためという説に、体温調節のためだという説。

 でも、警戒色とも保護色とも取れるって矛盾してますし、視覚が弱くて嗅覚が発達してる動物なので、目でメスを探しているのかも怪しい。

 体温調節というのなら、この蒸し暑さを何とかしてください。

 考えれば考えるほど謎が深まるばかりです。


 うーん……新説、思いつきました。

 身を守るために、別の生物に擬態していたのでは?

 もしこの説が正しいのなら、大昔、パンダにそっくりな外見の、凄まじく凶暴な動物が存在していたことになります。そしてパンダには天敵がいた。

 擬態元の猛獣は危険極まりなく、パンダの天敵すら逃げ出すような存在だったということです。

 今では、擬態元も天敵も両方絶滅してしまって、パンダしか残ってない。

 これなら、つじつまが合いそうです。


 なんだかワクワクしてきました。

 わたしの意識が肉体から離れて、高く高く舞い上がり、宇宙にまで飛び出します。

 大爆発。視界が白くなってから、キュルキュルと時間が回り始めました。

 帯電した溶岩の塊へと隕石が降り注ぎ、青と白のまだら模様をした惑星が誕生します。


 たぽん……たぽん……と、優しい波音が聞こえてきました。ゆっくりと目を開けると、原始の海が広がっています。

 水平線まで一面、真っ平らで、何もありません。

 下を向くと、気味悪いくらい透明な水の中に、アメーバがたゆたっています。

 アメーバが分裂して、色がつき、多細胞生物になっていきました。

 徐々に形をもつようになり、虫のような生物がぽつぽつと現れると、みるみるうちに種が大量発生して、その一種であるナメクジウオが魚になっていきます。ザワザワと植物が陸上に進出して、昆虫が空を飛び始め、魚が陸に上がり、単弓類が地上を闊歩、破局噴火が起こって生物のほとんどが死滅すると、すぐに回復して今度は恐竜の時代が訪れ、パンゲア大陸は分裂、隕石が落下してまた大量絶滅。そして生き残ったネズミっぽいのが進化し、パンダの祖先になっていき、大陸がさらに移動して今の五大陸を形成しつつ、パンダの祖先はかろうじて南米大陸とユーラシア大陸で生き残のびて、南米でメガネグマになり、そして、パンダは……パンダは……!


『お~い、恵美ちゃん。返事してよ!』


 京ちゃんの声が聞こえて、わたしは我に返りました。

 いつの間にか、だらだらと油汗が流れています。

 心臓がバクバク鳴り続けて、収まりそうにありません。

 いや、そんなこと、どうでもいい。


「ああ、何てこと!?」

『どうしたの?』

「わたし、パンダの真理に到達してしまいました!」

『そりゃすごい。でも残念だけど、閉園の時間が過ぎてるんだ』


 わたしは身を起こしました。

 広場の時計を確認すると、午後六時十五分。いつの間にこんな時間になったのでしょう。

 わたしは急いで四つん這いになると、のそのそと小屋の中へ入って奥にある扉を開けました。


 事務所には、京ちゃんの他に二人の老人がいました。

 檻の向こうの事務机の横に、椅子がずらりと並んでいて、三人がそこに座っています。

 京ちゃん、背の高い老人、低い老人。

 老人達の顔には見覚えがあります。

 昼過ぎ、パンダの美醜のことで喧嘩をしていた人達です。


 わたしは着ぐるみのチャックを開けて、素早く脱ぎました。

 着ぐるみを檻の中に残して、恐る恐る三人の前へ歩いて行きます。


 京ちゃんが心配そうに背の低い老人を見つめていました。

 背の低い老人は渋い顔で考え込んでいます。

 背の高い老人は、機嫌良さそうにニコニコしていました。

 わたしが近づくと、立ち上がって右手を差し出してきます。


「勝本恵美さんですね。お疲れ様、そして初めまして。

 わしがここの園長です」


 握手を交わすと、園長さんは背の低い老人を紹介してくれました。


「そして、彼はプロパンダの王秀英(おうしゅうえい)先生」


 プロパンダ――これほどインチキ臭い単語は、他に聞いたことがありません。

 わたしは眉をひそめました。


「どういう意味ですか?」


 園長さんが答えようとしたら、京ちゃんが立ち上がりました。


「ごめん、恵美ちゃん。

 麗優のことだけど、病気っていうのは嘘なんだ。

 普段はずっと、王先生がお入りになっていたんだよ。

 そして、今日のはただのアルバイトじゃなくて、試験でもあった。

 王先生はもうすぐ退職される予定で、あとを継ぐ人を探されてたんだ。

 僕が君を推薦したんだよ。

 職員に身長制限をクリアする人はいなかったし、恵美ちゃんにピッタリだと思ったから」


 なるほど。

 ということは、園長と王さんの喧嘩は演技だったのですね。

『監視カメラが壊れた』とわたしに誤認させて、油断さようとしたのでしょう。

 実際にはカメラが複数あって、ずっと監視されていたわけです。


 あの可愛らしい麗優の中身がこのお爺さんだったということは、それはもう、とてつもなく酷い現実ですけど、でも今は――


「そんなこと、どうだっていいんです。

 わたし、パンダの真理に到達しました。

 ……ありえないんですよ。


 パンダのような動物が、自然界に存在してるわけないんです!」


 わたしが叫ぶと、京ちゃんはぎょっとした様子で硬直しました。

 王さんは目を見開いて、まじまじとこちらを見ます。

 園長さんもしばらく固まってましたが、やがて乾いた声で問うてきました。


「何を言ってるのかな。お嬢ちゃん、気は確かかい?」

「最初からすべてが嘘だったんです。

 一八六九年、フランスのダヴィド神父が四川省でパンダを発見した、そのときから!」


 園長さんは首を振り、わざとらしく笑いました。


「いやいやいや。そんなこと、あるわけないでしょ?」

「わたしにもわけが分かりません。でも、確信はしています」


 園長さんは肩をすくめて、話にならないとでも言うかのように首を横に振りました。

 その横で、王さんが立ち上がります。


「その通りだ。よく分かったな」


「「王先生!?」」


 園長さんと京ちゃんが同時に叫びました。

 園長さんの声は裏返っていて、京ちゃんはどことなく嬉しそうです。


 王さんはわたしに、熱い視線を注いでいます。


「お嬢ちゃん――いや恵美さん。

 お客様に手を振ったあたりまでは、正直、話にならんと思っていたがね。

 でも、その後が凄かった。

 神がかっていたとすら言える。

 もはや、疑いようもない。君には特別な才能がある。

 それも、おそらくは百年に一度、プロパンダの世界を変えてしまう逸材だろう。

 僕はそれを見逃す訳にはいかない。


 君は正しい。正しいのだよ。

 ジャイアントパンダなど存在しない。

 百年以上前に、世界各国の指導者達が民衆をほっこりさせるために創造した架空の生き物なのだ。

 パンダには、存在そのものに平和への願いが込められている。

 これは世界中の権力者・動物園関係者の中でも、一部にしか知らされてない極秘情報だ」


 ――はい?


 なんだか気持ち悪くて、お尻がむずむずしてきました。

 パンダはいない。それだけは確かですけど、王さんは何を言ってるのでしょう?

 冗談ですよね?

 京ちゃんを見ると、彼は神妙な面持ちでこくりと頷きました。


 王さんは大まじめな顔で、続けています。


「恵美さん、あなたにはプロパンダになってもらう。

 拒否権はない。

 君は真実を知ってしまった。この秘密を守り、プロパンダとしての義務を全うすることに人生を捧げなくてはならなくなったのだ。

 すまないがもう、普通の人生は諦めてもらうしかない。

 残酷だが、これは人類のために必要なことなのだ。

 しかし、そのかわりに、普通の人生ではけして味わえぬ満足感を、君は得ることになる――」


 穏やかだけど、力強くて、誇らしげな口調です。

 ちょっと、ちょっと……。


 わたしは怖くなってきて、檻の方に目をやりました。

 麗優の着ぐるみが、藁の上でだらりと手足を投げ出していて、皮肉げに笑ってるようでした。

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