入国
第一話です。
午前十一時成田国際空港。
「これは……」
混み過ぎじゃないか。冬鐘鳴は心の中でそう付け足した。
旅行地や食事どころと違い、空港はその必要がある人しか来ることはない。一つの飛行機に乗れる人数は決まっているし、チケットは事前に取るものだ。本来ならば混雑など滅多にしない。特に今日は今のところ事故も無く、混雑する理由など微塵も見当たらないはずだ。
鳴がもう一度頭をひっくり返して理由を探す。すると意外なところから答えが出てきた。
「あっ」
目の前を通り過ぎた同じぐらいの歳の女性。ごくごく一般的な女子用制服だが、よく見ると胸に金色の滑らかな糸で刺繍がしてある。「福海」の文字を三本のラベンダーが囲んでいるマークだ。
鳴はようやく混雑の理由を思い出し、指をさされた少女が指をさされて固まっていることに気がつくのは幾分かの時間が必要だった。
■
3日前のことだ。鳴の母親代わりであり、師匠でもあり、上司でもある茜音から連絡が来たのは。
「お、茜音。珍しいね」
開口一番。鳴は茜音にそう言った。母親代わりであるといったが、どちらかといえば姉に近い。手がかかって、迷惑をかけ合う関係。だからお互い名前で呼び合っている。
ちなみに珍しいね、とは茜音の方から連絡してきたことについて言っている。
「珍しいねとは挨拶だな。母親が息子に電話するのはそんなに珍しいか?」
とても珍しい。年に一度あるか無いかの出来事だ。だが、鳴が気にしたのはそこではなかった。
「母親、ねぇ」
「なんだ?事実だろう?」
「……」
鳴は歯を食いしばることで笑いを堪える。先に茜音との関係を思い返していたせいで、茜音が母親ということにひどく違和感を覚えたのだ。こみ上げてくる笑いを、必死に噛み殺す。その様子に気づいたのか、茜音のムッとした雰囲気が電話口か伝わってきた。鳴は自分の腿を力一杯殴りつけ、笑いを虐殺した。痛みに涙を滲ませながら、取り繕うにやっと答える。
「なんでもないよ。で、どうしたの?」
「いや、それがなんだな……」
茜音はさぞ言いにくそうに口ごもる。
鳴はその態度に違和感を覚えた。基本的に茜音は鳴に対して遠慮はしない。何か言いたくて言わないなど、茜音と鳴の間にはないのだ。
鳴は茜音がこれから言うことはよほど重要な案件なのだろうと、気を引き締めた。
「お前、学校に通う気はないか?」
そのため、茜音の一言には逆に拍子抜けしてしまった。
「何を言うかと思えば……気を使ってるんじゃないだろうな?」
鳴は今年で十五歳。本来ならば高等学校に通う年齢だ。そのための学力がないわけではないし、社会性がないわけてもないが、鳴は中学校から教育機関に通うことはしていない。それを茜音は気にしているのだろう。何も子供が学校に通うのは当たり前、なんて常識を持ち出す気か?曲がりなりにも、母親代わりということだろうか。
「いやそういうわけじゃないんだ」
茜音は意外にもそれをすっぱりと否定した後、続ける。
「ただ最近お前の動きが鈍い気がしてな……」
ピクリ、と鳴の指が反応する。自分では気が付かなかったこと、否、気づいていて気づいていないふりをしていたことを言い当てられたせいだ。
「スランプってほどではないんだろうが、お前最近調子悪いだろ」
茜音の声の曇りがなくなり、いつもの調子になっていく。鳴のそういう部分についての指摘には、茜音は遠慮しなかった。
「……うるさいな。気にするほどじゃない」
だがはいそうですと認めるほど鳴は素直な人間ではない。言葉を濁しなんとかやり過ごそうとする。
「気にするぞ。特にお前はごく小さな時間で勝敗が変わる。コンマ一秒でも以前より遅くなっているようなら、それがいつか死因となることだろうよ」
「……」
鳴は何も言い返せなくなってしまった。茜音の言っていることが全て事実で、言い訳が見つからないだけではない。
茜音が自分を心配していっていることに、鳴を気遣って言ってくれていることに気づいたからだ。背中にむず痒さを感じて、顔が赤くなっていくのを感じる。
確かに鳴は少し調子が悪い。原因は全くわからないが、鳴が先程言い返したように気にする程でもないので無視していた。
だが茜音が言ったことも事実である。コンマ一秒、いやそれより小さな瞬間で、鳴の失敗する可能性か左右される。
「福海という軍校が日本にある。そこへしばらく行って、少し休め。分かったな」
最後の一言と一緒に、鳴は頭をわしゃっと撫でられた気がした。それだけで、茜音からの心配が、痛いほど心に染みる。
「……うん」
鳴はそうとしか言い返せず、茜音も安心したように笑ってそのまま電話を切った。
■
「まったく、何考えてるんだか……」
時は戻り、そして少し進んでなる時計の針はお昼を指している。アメリカから日本への移動。それ自体は別になんてことはないが、茜音を一人海の向こうへ置いて行くことは心配だ。世の中に問えば十人中十人が、茜音は天才だと言い切るだろう。
そして天才という人種はどうしても頭のネジが何本か抜けている。ただ功績を褒め称えるだけの部外者はいいが、家族や親戚などの関係者はそうはいかない。心配で心配で仕方がないのだ。
悶々としながら、鳴は空港から出てすぐ近くに停まっていたタクシーを拾った。
数十分後、福海学園生徒寮前を見上げていた。
そう、見上げていたのだ。
「あのーすみません、ここであってますよね?」
「合ってるよー」
思わず今立ち去ろうとしていたタクシーの運転手に確かめてしまうほど、寮は巨大だった。これは寮とは言わず、ホテルか旅館とでも言うべきである。何しろ六階建ての木造建築物だ。
木目が強調された武家屋敷。それを上に六つ分伸ばしたような形だ。武家屋敷の力強さは失われていないものの、若干シャープな印象を受ける。
鳴はとても入りづらそうに、寮の入り口をくぐる、扉はもちろん引き戸である。
「あのー…すみませーん」
一応声はかけるものの、外見だけでなく中身も素晴らしく声が尻すぼみに小さくなってしまう。玄関の横には靴箱が設置されていて、玄関先には鳴を迎えるかのように木彫の熊が居座っていた。本当に旅館にでも来た気分だ。
一向に返事がないので、鳴は少しそのまま待つことにした。その間に玄関から見える部分だけ、構造を把握しておく。
玄関から上がれば廊下が三つに分かれている。左、真ん中、右、どの廊下がどこへ行くのかは分からない。だが真ん中の廊下の先へ目を凝らすと、階段らしきものが見えた。更に良く見ると廊下の左右にドアを引き手のようなものがあり、おそらくあそこは部屋なのだろう。寮の外観、内観からして部屋は恐らく和風だろう。
「気に入ってくれたかい?」
その問は、突然降ってきたかのように、鳴の後方から現れた。
鳴は反射的にその場から飛び退く。敵は後方、もちろん前方に回避。
土足のまま廊下に飛び込んで、素早く振り向く。
声の主はそれを呆れたように眺め、苦笑を漏らしていた。シャツの上に半袖の茶色のセーターを重ね着て、灰色のズボンを履いている。まるで年寄りのような地味な服装だった。だが髪は真っ黒で白髪など見当たらず、顔には若い精悍さが覗える。口元に握りこぶしを添え、堪えるようにしながらも薄い唇は笑みを作っていた。
「そんなに警戒しなくてもいいじゃないか。ただの管理人だよ」
管理人、と自称した男は玄関の脇の靴箱に手をかけて、靴を脱ぎ始めた。それを一番手近で、玄関先に近い靴箱に入れた。
ずっと鳴の後ろにいたのだ。待ち構えていたのか、咄嗟に移動したのか、それは分からない。しかし管理人が全く気配を悟らせず、玄関で自分を待っている鳴を後ろからニヤニヤと眺めていたのは確かだ。
これでも鳴は一通りの武術は嗜んでいる。それなりに人の気配、なんてものを察知する技術にも長けている。
それなのに、全く分からなかった。その事実に、鳴は管理人への警戒レベルを一気に引き上げる。
それすらも、見越しているのだろうか。管理人は「まあまあ」などと鳴の肩をぽんぽんと叩いて、廊下を先導し始めた。
●
三階の右の廊下、その最奥の311号室。そこのドアを管理人は開け、入っていった。玄関から歩いて三分もかかっていないが、その間鳴はずっと警戒しながら歩いていたせいで、軽い疲労感を覚えた。
リビングーーいや、客間が八畳、料理場も八畳、寝室は六畳。管理人は三つの部屋の説明をしながら案内していく。ドアを開けて左に入ったところの寝室に、鳴は荷物を置いた。荷物と言っても鞄一つで、着替えなどは後で配送されることになっている。
説明も一通り終わり、管理人は客間の真ん中で切り替えるようにパン、と手を叩いた。
「さて、これぐらいかな。以上で案内は終わり。特になければ僕は戻るけど、何か質問は?」
特にない。本音はそうだが、鳴はなぜかこの眼の前の管理人に興味を持っていた。なぜか、というのは正しくないかもしれない。鳴自身、恐らく玄関での出来事が原因だろうとは分かっている。しかしそれ以外にも管理人の飄々とした佇まいや仕草、その他様々な要素が気になったのだ。
付け加えるが、決して鳴は男性を愛する類ではない。
「そうですね……管理人さんのことが知りたいです」
管理人は不思議そうに首を傾げる。鳴はそれがとてもわざとらしそうに感じた。
「僕かい?僕はただの管理人だよ?」
「いえ、これからここにお世話になるので、色々と自己紹介がしたいだけです」
こちらもそれなりのことを言いますので、そちらもそれなりのことを。そんな意味を込めて鳴はそう言った。
「ああ、そういうことね。ーーいいよ。僕の名前は秘密。この福海学院寮の管理人を任されているよ。年齢は二十後半、性別は男、好きな食べ物は……煮込みハンバーグかな。女性のタイプは栗色のショートカットに可愛げのある顔。料理ができて気立てがよくて、僕を愛してくれる人」
管理人はペラペラと自己紹介を始める。名前に年に好きな食べ物に女のタイプ。どれも鳴が聞きたかったものではない。
もう一度自分の意図を遠まわしに伝えてみるか、と口を開こうとした時、清海はとても重要な情報を口にした。
「練度は250」
鳴は管理人に気づかれないように歯を食いしばって耐える。思わず叫びだすような驚きに、必死に耐える。
練度。それは今の世の中では自分の価値をある程度定めるような言葉だ。力量、技量、そのようなものは練度に左右されやすい。
そして管理人の練度は、一般的なそれを遥かに上回るものだった。
「そうですか」
鳴は平坦な声でそう返した。
「では、こちらの番ですね。私は冬鐘鳴といいます。年齢は十五、性別は男、好きな食べ物は練り物全般です。女性のタイプは黒髪ロングの清楚系」
管理人の自己紹介をなぞるように、自分の自己紹介を済ませていく。そしてもちろん、その先も鳴はなぞり続ける。
「練度は110です」
「ーーーーそうかい」
飄々として雰囲気が一瞬だけ尖ったものの、管理人にはすぐに簡素な返事をした。
「……あぁぁぁぁ、疲れた」
管理人が鳴の部屋から出て行った後、鳴は寝室のベッドに飛び込んで、毛布に顔を埋めて、心からのため息をついたあとそう呟いた。
あのようなやり取りは精神的に強く疲労を覚える。実際鳴はああいったものは得意ではなかったし、本音はやりたくもなかった。
だが、鳴はそれが必要だと感じたのだ。
正体不明の人物。それならば別に気にしない。そんなものこの世にゴマンといるのだから。だがその人物が自分より強いというのなら別だ。
鳴が比較対象になる時、それより上というのはそれなりに限られる。その正体が何も掴めていないというのは、あまりにもよろしくない。
下手すれば死ぬのだから。
厳密に言えば死ねわけではない。何かが壊れるではなく、どこも欠損するわけでもない。だがそれで自分は死なないから、なんていう過信をもつことはあまりにも愚かだ。
そのような愚か者は、少なくとも福海学院の中には一人もいないだろう。
福海学院。日本最優の軍学校。鳴はそこで得る経験と、過ごす生活を想像して、僅かに笑みを零した。
笑みを消してふと思い出すと、なんだか不自然な感じがした。
ブクマ登録、感想、両方共歓迎です!
ちなみに投稿ペースは一、二週間に一度です。ゆっくりですが丁寧に進めていくつもりなので、これからよろしくお願いします。
あと……私事ですが、BO3がとても楽しいです。ついつい夢中になってしまい、七時間ほどぶっ続けでやった挙句、結果お腹を壊して苦しむことになりました。皆様もゲームのやり過ぎにはお気をつけくだはい。