中編
[2]
その頃、どこともつかない場所にて。
「――実験に異常が見られた。どうするつもりだね?」
「この実験の異常を教えてくれ。いったいどこが異常なんだ」
「まだ詳細は解らないが……『エラーコード』が存在した、ということだ」
「『エラーコード』?」
「ああ、エラーコードだ」
「ふうん。エラーコード……そんなもの、簡単に直せるんじゃないの?」
「そうだったら、いいんだけれどね」
そして、会話は中断された。
[3]
「……ねえ、『パラドックスの恋文』って、聞いたことない?」
その単語に、シノは首を傾げる。
「パラドックスの恋文? ……ああ、そういえば、教科書になんかそういうのが書いてあったっけ」
そう適当に流しながら少年を見る。少年は先程感じた殺意などまったくもって、今は感じることが出来なかった。
――夢、だったのか。
それは、彼女には解らない事だった。
いつになっても、解らない事だった。
「……ねえ。その教科書、見せてくれないかな」
「教科書?」
いいよ、と言ってシノは少年に教科書を見せる。「ふんふん」とか「なるほどねー」とか言っているのだが、果たして彼はその意味を理解しているのだろうか?
そんなことを考えていたシノだが、シノには時間がなかった。急いで戻らねばならなかったのだ。
「ね、ねえ……」
「うん? どうしたの?」
少年の問いに、シノは首を傾げる。
「ちょっと、お姉さんもう帰らなくちゃいけないからさ。……また今度でいいかな?」
「今度じゃ遅いよ。今じゃなくちゃ。パラドックスの恋文はどういう原理で発生するのか知っている? 実験を行ったけれど、幾度となく失敗したんだよ。そして、幾度となくやり直したんだ」
「……やりなおした?」
「そう、やり直した。なんどもなんどもなんどもなんどもなんども。やり直すことで、世界が変わるかと言えば解らない。けれども、それは間違っていないという科学者の崇高な思考は変わりゃしなかった」
「変わらなかった……って」
「科学者はいつも自分が一番と思い込むものさ。そして、誰を使ってどうこうしても、罪の意識というのは消えているものだ。特にテンションが高い……アドレナリンが放出されている時こそ、ね。だから、快楽殺人も無くならないわけだ」
少年は先程から考えればひどく饒舌になっていたが、それをシノは不思議には思わなかった。
「パラドックスの恋文は成功しなかった。何度失敗を重ねても、だ。だけれど、科学者は諦めなかった。そして、『エラーコード』を生み出した」
「エラーコード?」
「そう。――それは、世界に放たれた――いや、逃げられてしまったと言った方が正しいかもしれない。それを科学者は躍起になって探している。何せ、漸く見つかった研究結果だから、ね」
「エラーコード?」
「リンドンバーグという博士が『脳の電子化』を考えついて、それからそういうのは始まったのだけれど。科学者の崇高な理論と科学者の崇高な思考はいつになったって変わりゃしない。お堅い頭で柔軟な対応なんてできっこない。脳の電子化が出来て、電脳世界が出来て、恐ろしい実験の数々が出来るようになったのは、つい最近のことだよ。例えば、核爆弾をアメリカに投下したとき、どのように放射能は世界へばら蒔かれるか? とかね。そうしてその中にあったのは、『パラドックスの恋文』実行実験」
「パラドックスの恋文ってのは、いったいどういうことなんだい?」
シノの問いを聞いて、少年はいつの間にか現れていた椅子に腰掛ける。少年はそのあと、「座ってどうぞ」とジェスチャーをしたので、シノも後ろにあった椅子に腰掛ける。
ため息をついて、少年は話を続けた。
「パラドックスの恋文とは、簡単な理論だった。『死んだ人間から手紙が届けば』、おかしな現象だと思うだろう? それが成り立ってしまう理論のことだった」
「そんなことおかしいじゃない。タイムパラドックスが起きてもおかしくない」
「だからパラドックスの恋文ってわけだ」
「概要は解った。……けれど、それが『難しい』実験なの?」
「当たり前じゃん」少年は笑って、「だってそれをするには、人を殺す必要があるんだぜ?」
「なんですって……?」
シノはそれを聞いて、思わず言葉を失った。
そこまでして、パラドックスの恋文という理論を証明したいのだろうか。それを考えると気が狂いそうだった。
「『プロジェクト・レゾンデートル』というプロジェクトを、電子的に解析することは何かと有名だと思う。なんせ七不思議の一つにもかぞえられているくらいだからね」
「世界のトップ企業が軒並み統合を繰り広げ、ひとつのメガブランドカンパニーを作り上げたことの真の理由とか聞く、それ?」
「そう。西暦二〇一五年……世界のトップ企業が一同となり『人類みな兄弟』と唱え、『エデンカンパニー』を設立した。それは世界でも類を見ないメガブランドカンパニーとなって、世界を牽引していくと話題になっていたね。だが、急にそんなことが決まるだなんて有り得ない。何か裏があると、普通は考えるわけだ」
「そこで考えられたのが……『プロジェクト・レゾンデートル』だっけ? 一説には大量な非人道的実験を行うための隠れ蓑とか言われているけれど」
「そうだね。六割ほど合ってるよ」
シノは少年から言われた言葉を鵜呑みにはしなかった。というより理解するには知識が足らなすぎた。知識を得てしまえば、いくらかはこの話も理解できるのだろうが、その知識を得る時間もなかった。
「……六割、って言うけど。あなたは凡てを知っているの?」
シノが訊ねると、少年は小さく微笑む。
「ああ。知ってるよ。僕はこの世の凡てを知っている。凡てを知っているんだ。……そろそろ、名前を言ってもいいかな。僕の名前はね、少々特殊なんだ」
「特殊?」
「ああ。今こそは違うけれど、僕は昔統合失調症――っていうのかな、そんなやつでさ。架空の友達だなんて作っていたんだ。おかしくなっちゃうよ」
そして、少年は立ち上がるとゆっくりと歩き出し――数歩歩いたところで振り返った。
「――僕の名前は高遠縁。かつてあった、『パラドックスの恋文』実験の被験者だよ」




