痕ついたのは、誰?
〇お題「お化け」の短編です。
『赤尾さん、ごちそうさま』
子ども食堂でよく見かける誰かの、わたしへではない、化け物へのお礼の言葉が耳に入った。
『どういたしまして』
厨房の奥から抑揚の乏しい返事が聞こえた。
――あの女は、やはり化け物だ。
この子ども食堂では、朝七時から八時まで朝食を出し、夕方五時から八時まで夕食を出している。
あの女はそれ以外の時間でも、普通に働いている。
知り合いから聞いたところによると――
午前九時から午後三時まで、食堂近くで事務員として。
夜の十時から翌午前一時まで、食堂近くのコンビニエンスストアの店員として。
何年か前に、旦那と子どもを交通事故でいっぺんになくした――
この子ども食堂にいつ来ても、あの女がいる。
食堂のオーナーは今日はいないが、町内会の副会長をしているお爺さんだ。
あの女は大鍋をかき回し、皿を並べ、子どもたちの宿題を覗き込み、やんちゃな子がこぼした味噌汁を黙って拭いている。
ワンオペのときですら、慌てふためいたところを見たことがない。
疲れた顔も、苛立った顔も。
まして笑顔だって、見たことがない。
鉄面皮。
あの女には、きっと人間らしい感情がないのだろう。
胸の名札には『赤尾仁子』の文字。
仁という漢字には、思いやりや慈しみという意味があるらしい。
子ども食堂で働いているとはいえ、ここまで感情に乏しいあの女には、似つかわしくない名前だろう。
ニコという名前のくせに、ニコリともしない。
「お母さん、今日、学校でね」
向かいに座っていたわたしの息子、友貴が話しかけてきた。
我が子ながら、可愛げのない子だ。
――鬱陶しい。
「喋るのは、食べてからにして。行儀悪いのは、嫌い」
ごめんなさいと口が動いて、友貴は黙って食事を再開した。
九歳になったばかりの息子は、わたしの顔色をよく窺っているが、機嫌を察知するのが致命的に下手くそなのだ。
どんな話なら聞いてもらえるか。
どんな声の大きさなら怒られないか。
どんな顔をしていれば、わたしの機嫌を損ねずに済むか。
わたしにはそれが気に入らない。
わたしは本当に嫌になってくる。
この先、あの旦那にどんどん似てくる友貴を、自分が育てなければならないことに。
わたしは幸せになっていいはずだ。
でも、世界はいつだって私に不公平だ。
子ども食堂の今日のメニューは鶏肉の照り焼きと、ほうれん草のおひたし。
それに、わたしの嫌いななめこが入った味噌汁。
友貴は照り焼きを一口食べて、目を細めた。
「友貴くん、おいしい?」
表情をまったく変えない仁子さんが友貴に訊ねた。
――気持ち悪い。
嘘でも笑えばいいのに。
「うん」
友貴が、仁子さん相手に嬉しそうに微笑んだ。
その返事を聞いたのか聞いてなかったのか、やはり表情のない仁子さん。
――愛想を振りまくにしても、相手を選べよ
――友貴がお礼を言ってるんだから、嘘でも愛想よくしろよ。
なまえのニコ、が泣いてるぞ。
わたしは、何もかも気に入らない。
旦那に似てくる友貴も。
このくそったれな子ども食堂も。
このくそったれな子ども食堂を利用しなければならない自分の境遇も。
もちろん、ここにいつもいる化け物も。
どうせ、わたしが何を言おうと、あの女には関係ないのだろう。
ただ食事を出して、食べさせる。
親切な自分に酔って、さぞ満足していることだろう。
「施して、気分がいい?」
だから、わたしはつい、そう口にしていた。
友貴がはっとした表情で箸を止めた。
――周りをキョロキョロするんじゃないよ
仁子が私のいる卓まで引き返してきた。
やはり、感情らしい感情が見えない。
「何か、ありましたか?」
「いいえ。別にぃ?」
わたしは笑ったつもりだった。
うまく笑えていたかは、わからない。
仁子はしばらくわたしを見ていたが、特に何も言わずに厨房に戻っていった。
それが、また腹立たしかった。
――怒ればいいのに。
言い返せばいいのに。
わたしを軽蔑しているのなら、そういう顔を見せればいい。
だというのに、仁子さんは何も見せてはくれない。
何を見ても何を聞いても、何かを感じることがないみたいに。
友貴がわたしの袖を引っ張った。
「お母さん、もう帰ろう?」
震える小声で。
――何に怯えているんだ?
ああ、あの化け物にか。
そりゃあ、そうだろう。
「まだ、食べてるでしょ」
卓には、まだ半分以上食べ残している鶏肉の照り焼き。
――ちゃんと、最後まで食えよ。
家に帰っても、飯は作らねえぞ。
「でも……」
幽霊みたいに消え入りそうな友貴の声。
「何?」
脅すつもりがなくても、怒気を孕んだ声が友貴を怯えさせる。
「……なんでもない」
私から目を逸らした友貴は、お椀を手に取って冷めかけた味噌汁を飲んだ。
わたしが食事を終えるころ、次の客がやってきた。
子どもたちの弾む声。
食器の触れ合う音。
誰かの笑い声。
仁子さんの返事。
わたしだけが、食堂に居て、ここに居ない。
――わかっているさ。腫れ物なんだろう?
ここでも、どこでも。
いつの間にか、仁子さんがわたしの卓の横にいた。
「少し、お話ししてもいいですか」
抑揚に乏しい話し方に、わたしはこめかみが痛くなってきたのだった。
「何ですか?」
「……余計なこととは思うけど――
母親が不機嫌だと、お子さんは辛いわよ」
仁子さんから言われたことが、すぐには理解できなかった。
母親が不機嫌だと?
お子さんは辛い?
誰が?
誰のことを?
わたしのこと?
友貴が、仁子とわたしの顔を見比べているのを目にして、わたしの頭の中で何かが弾けたのだ。
「あなたに、何がわかるのよ!」
声を張り上げるつもりはなかったはずだった。
他の卓の会話まで止まった。
「人の家庭に勝手に踏み込んで、偉そうに説教? 食事を出してあげてるから、何を言ってもいいと思ってるの?」
止まらない。
抱えていた苛立ちが。
積もっていた不満が。
「そういうつもりでは……」
――こういう場面でオロオロするなら、まだ可愛げもあるものを。
「じゃあ、どういうつもりなんよ!」
仁子は黙りこんだ。
いつもの、顔。
死んだ魚のような、どこを見ているのかも定かではない目。
「あなたみたいな人には、わからないでしょうね。
毎日毎日、必死でやってる人間の気持ちなんて。
人の子どもにご飯を食べさせて、いい人のつもり?
感謝されて、気分がいい?
わたしがどんな思いでここにいるのか、考えたことある?」
叫んでおいて、自分でも何を言っているのか途中からわからなくなっていた。
仁子は何も言い返さない。
周りの視線が、わたしに集まっている。
やめてよ。
わたしを、そんな目で見ないでよ。
「あなたに、人間の私の何が判るのよ!」
わたしが調子に乗ってつい、そう叫んだとき。
それまで鉄面皮を通してきた仁子が――
仁子の目から、涙が一筋流れた。
頬を伝う、たった一筋の涙。
その涙を見て、わたしは一瞬、言葉を失った。
化け物が――
化け物が泣いている。
しかし、わたしを見る周囲の目が冷たかった。
誰も何も言わなかったが、それなのに、わたしを責める声が、聞こえてくる気がして、辛くなった。
――何で、いつもいつも、こんなつらい目に合わなくちゃいけないのよ。
我慢しきれなかったのは、友貴だった。
わたしを椅子から弾き飛ばす勢いで、押したのだ。
「お母さん、止めてよ」
「……帰るよ!」
わたしは友貴の手首を掴んだ。
「痛いよ」
逃げようとする友貴を、私は引き戻した。
こんな場にわたしを引き止めようとするなんて。
――なんて、悪い子なんだろう!
「いいから!」
友貴がよろめいたが、わたしは放っておくことにして構わずに出口へ向かった。
背中に皆の視線が突き刺さる気がした。
外に出ると、夜風が冷たかった。
結局、友貴はわたしに着いてきた。
それが、むしろ腹立たしかった。
何か言えばいいのに。
泣けばいいのに。
怒ればいいのに。
どうして、誰も彼も、わたしをこんな気持ちにさせるのだろう。
子ども食堂の明かりがどんどん遠ざっていく。
――二度と行くものか。
あんな化け物に、何がわかる。
わたしは悪くない。
悪くないはずだ。
だというのに、あの化け物の一筋の涙が、わたしの目の裏に焼きついて離れなかった。
何か、忘れている?
「お母さん」
いつになく強い口調で友貴がわたしを呼び止めた。
そこで、友貴を振り返らなければ良かった。
――何て目で、親を見るんだ。
そこには、別れた旦那が最後にわたしに見せたのとまったく同じ侮蔑の視線。
「わ、私、悪くない。あの化け物が泣いたから、何だって言うのよ」
わたしの言い訳に、友貴は何も言わなかった。
ただ、冷たい視線だけ。
夜道を歩くわたしの影が、二つ。
離れた街灯がそれぞれ、わたしを照らして、影が二つ。
まるで、わたしがお化けだと言わんばかりに。
《終わり》
モチーフは『泣いた赤鬼』。
まったく違う話に化けました。
化け物だけに?
赤尾仁子さん。
設定では、三十代後半。
最初に主人公のモノローグにはありますが、
過去に夫と子供二人を自動車事故で亡くしています。
仁子さんに自分で語らせない方が、
より気まずい感じが出ていいかと思って、設定のままにしました。
「わたし」のような人をきっちり描いたのは、実は初めてでした。
書き終えた今も、他責思考の人の脳内がよくわからないんで、
これで合っているんでしょうか?
「わたし」の「仁子」への呼称について、話が進むごとに変わるのは仕様です。




