玻璃の静謀ー赦し8
8️⃣
「恭四郎の過去と弱味を握る女…か…」
備え付けのグラスに注いだウイスキーを舐めながら雪臣は大して面白くもなさそうに呟いた。
ロビーで小林隼人と偶然再会し(あちらが偶然だったかは疑問だが)ひとしきり話を終えて自分の部屋に戻った雪臣だったが恭四郎の過去を知ってしまった衝撃のせいか、頭の方は部屋を出る以前よりも益々冴えてしまっていた。
『今夜はこのまんま眠れないかもしれないなぁ…明日は喜徳さん案内して山登りだしほんとは少し眠っとかないとヤバイんだけどー』
アルコールでも引っ掛ければ少しは眠気が訪れてくれるかもと期待して深夜の1人酒盛りを始めたのだが…飲み始めて30分近く立っても眠気は一向に訪れてはこなかった。だがハイペースであおったアルコール分は確実に体に酔いをもたらしていた。
『嫌な、酔い方しちまった…』
体は昼間の疲れや酔いのせいでだるくて火照って仕方ないのに頭の芯だけが妙に醒めている。そして一番忘れたいことをしっかりと考えているのだ。
「恭四郎らしくねぇぜ、女に振り回されるなんて…いつどんな時でもスカした陰険野郎なのが恭四郎だろうが」
恭四郎が側に居れば間違いなく憤慨しそうな暴言を吐いた雪臣は憂鬱を吹き飛ばそうと脳裏に浮かぶ恭四郎の顔をさっき別れてきた隼人の脳天気な顔にすげ替えた。
☆
「じゃあな、俺もう部屋に帰るわ…話してくれてありがとうな。恭四郎やあの女とは会わないのか?今回に限っては俺は知らなかったことにするから、会ってけば?今の話の礼だよ。ま、最もー」
雪臣はエレベーターを眺めながら吐き出すように呟いた。
「今はやめた方がいいと思うけど?一生恨まれるぜ」
「おお恐…あいつも大概信用ないよなぁ?」
肩をすくめて苦笑した隼人。
「いや、礼なんていらないけどさ…こないだ松平氏の国会答弁の取材の合間にポッと恭四郎と話せる時間ができたんだよね。ちょうど昼飯時だったんで飯の話題になってさ。俺が恭四郎に言ったのよ。"お前はいいよな、大臣のお坊ちゃまと同居してるんじゃ家政婦の上げ膳据え膳だろうが"ってな。そしたらあいつ、いけしゃあしゃあと言うじゃないの。"いや食事は雪臣様が作って下さるんだ"ってな。そりゃもう嬉しそうにさぁ。"芋の煮たのとか、魚の焼いたのとかがうまかったなぁ"なんてー確かにごちそうだよな?俺なんかもう外食か泊まり込みん時は出前ばっかりだろ、絶対早死にするぜ」
「ああー」
褒められた割に雪臣が大して嬉しそうな顔を見せないのにはちゃんと理由がある。
『芋の煮たの?魚の焼いたの、だぁー?あいつには何食べさせたって同じなんだよっ!何でもうまい、うまいってそれしか言わないんだから』
じゃがいもと里いもの区別がつかない、サンマとイワシの区別もまた然りー男というものは得てしてそういうものなのだろうが、その意味では恭四郎はまさに王道をいっていた。
しかし素材の区別はつかなくとも恭四郎は味オンチなわけではない。うまいとしか言ったことがないのは雪臣が作った料理が本当に美味しかったからなのである。雪臣が亡き母の実家、江戸時代から続く料亭"榊原"の血を引いているという何よりの証拠でもあった。
「あんなんでよければ食べさせてやるよ。だけどあんた…」
雪臣は訝しげに隼人を見返した。
「あんなのがごちそうって…普段いったいどういう暮らしをしてるわけ?」
「まぁま、こちとら貧乏人なのさ。というわけでヨロシクね」
「ああ。だけどこの礼と仕事は別件だぞ」
ご飯だ、おいしいご飯だと1人で浮かれて盛り上がっている隼人に、雪臣は釘を刺すことを忘れなかった。
「あー?」
「明日から俺達の目の前に一切姿を見せるなよ!今回変な記事でスッパ抜いてみろ、総理大臣を敵に回すことになるんだからな、しがない新聞記者なんかアッと言う間に潰されちまうぞ」
脅しをかけながらスゴんだ雪臣を見て隼人はポカンと口を開けた。やがてその理由に思い当たったらしい。その茶色がかった瞳に雪臣をからかうような笑みが浮かんだ。
「信用ないのは俺も同じなのねぇ…だぁぁいじょうぶだってば!そんな顔するなって!!美人が台無しよ〜ん…ハッ!!」
「ー」
雪臣の冷ややかな眼差しが更にいっそう冷たさを増したのを感じて、隼人は慌てて取り繕った。雪臣は複雑な生い立ちの影響なのか、この年頃にしては珍しく一切冗談が通じない。常日頃冗談の割合が生活の90%以上を占めている隼人としてはだからこそチョッカイもかけたくなるのだが、何事もやり過ぎは禁物。特に雪臣のような性格は逆襲もきっちりと受けた量の2倍にして返してくるはずだ。そんな面倒はゴメンなのである。
「…ま、今回はほんと、あんた達の追っかけじゃないってことだけは保障するから安心しなって。俺はむしろあんた達一行とはなるべく離れて行動したいくらいなんだよ。同じ会津市内に居てもしものことがあったら…おおっ、そっちの方が総理大臣を敵に回すことになりかねん!!なぁ?あんたら一行、明日にでもここから出て行ってくんないかなぁ?」
「何で俺達があんたの都合でここから出て行かなきゃならないんだよ!冗談じゃない、断るっっ!!」
「そんなつれないー俺とお嬢の仲じゃないの」
「どんな仲だっっ!!」
すっかり自分のペースにはまった雪臣を面白そうに眺めていた隼人はだが、ふと何かに思い当たったようにその顔から笑みを引っ込めていた。
「な、お嬢ーあんた、松平氏から本当に何も聞いてないんだな?」
「何ーって、何をだ?」
しばしの沈黙。いきなり黙り込んでしまった隼人を目の前に今度は雪臣が内心慌てる番だった。
「おいっ隼人!人の質問にー」
"答えろッ"と怒鳴りかけた雪臣は喉まで出かかっていた言葉を咄嗟に飲み込んだ。黙り込んでいた隼人がいきなり熊のようにのっそりと腰掛けていたベンチから立ち上がったのである。
「なっ、何だよ。驚かすな!」
「まぁお嬢にゃ恭四郎がついてるから大丈夫か…」
隼人はまじまじと雪臣を見下ろした。決まり悪くなった雪臣はそれでも目を逸らさずに意地で隼人を睨み上げていた。
「言いたいことがあるんならサッサと言えってんだ。聞くだけなら聞いてやってもいいぜ」
「そうー?んじゃお言葉に甘えてひとつご忠告…お嬢、知らない人について行かないようにね。強モテのおじさん達や外人さんとか、とにかくそういった妖怪しげな人にはね」
「……」
「目ェつけられんなって言ってるの。どうも見てるとお嬢は事件を呼ぶ体質の持主らしいから」
「好きで呼んでるわけじゃあない」
そういえば恭四郎も似たようなことを言っていたーと雪臣は口を尖らせながら思った。が、その表情がふと好奇心に満ちたものへと変わる。
「ってことは何?この会津若松市内で何か事件が起きるってわけ?ヤクザ同士の出入りとか銃撃戦とか…」
「うーむ、ちょっと違うような気もすんだが、ま、似たようなもんかーおっとこれ以上は企業秘密だ。余計なことを口走らないうちに俺は退散するとしようかね。んじゃあねっっ!」
理由が分からずに首を傾げている雪臣を残しカメラ機材を肩に担いだ隼人は、ヒラヒラと手を振りながら回転ドアの向こうに消えて行ったのだった。
☆
『何だったんだろうな?隼人の言いたかったことって…?』
持て余したウイスキーグラスを窓際のテーブルに置いたその時、呼び出しのインターホンの音が部屋中に響き渡った。
『誰だ…こんな夜中に…恭四郎か?』
忙しなげに繰り返すインターホンの音に顔をしかめながら雪臣は仕方なしに立ち上がった。
「はい、はい。そんなに鳴らさなくったって今開けるよ。いったい今、何時だと思ってるー」
「ゴメーン雪臣ちゃん、寝てた?」
「あ…れー綾さん…?」
片手で拝みながら舌を出している綾の顔を見て雪臣は拍子抜けしたように呟いた。
「何よ、私じゃなんか文句あるっていうの?」
たちまち眉を吊り上げた綾に雪臣は慌てて首を振った。
「いや、そんな訳じゃないけどさ…どうしたの?こんな真夜中にー」
「あ、そうそうー」
吊り上げた眉をたちまち元の位置に戻し、綾はケロリとして真夜中の来訪の理由を述べたのだった。
「喜徳さんがね、ナイトイベントに行きませんかって?別館でやってるー」
「イベント…喜徳さんが…?」
今夜はやはり何がどうあっても逃れられない運命らしい。さっきイベントに向かう少女達から危うくナンパされかけたのを逃れて帰ってきたというのにー。幾分げんなりとした雪臣の反応をどう取ったものか、綾は慌てた様子で付け足した。
「あっ、最初はラウンジにでも行きましょうってお誘いだったんだけど私がイベントに行きたいって言っちゃったからね…そしたら僕は構わないよって喜徳さんが言ってくれたもんだからー」
「喜徳さんが…?綾さんの所に直接連絡してきたの?」
「嫌ね、何小難しい顔してんのよ、雪臣ちゃんったら。喜徳さんはあなたと腹を割って話したいってー但馬やあのたつ子さん…だっけ?がいるとどうしてもお互いの立場から抜け出せなさそうだからって。彼、私の所にTELしてくる前に雪臣ちゃんの部屋に何度か内線をかけたのよ。なのに雪臣ちゃんが出なかったもんだから私の所にかかってきたってわけーどこ行ってたのよ、こんな夜中に」
「ん…ちょっとね…」
雪臣は口を尖らせる綾に生返事で答えながら無意識のうちに口走っていた。
「じゃ恭四郎に言っとかなくちゃ」
途端に吊り上がる綾の目。
「雪臣ちゃん人の言う事、聞いてないのっ!但馬なんかどーでもいいでしょっ!何のために喜徳さんが私に連絡してきたと思ってるのよ?それともほんとに但馬が居なけりゃ何にもできないのー!?」
「……」
愕然と口許を押さえた雪臣。綾は驚きを隠せずに口をつぐんだ。
「わかった、行くよ綾さんー」
雪臣は突然綾をひたと見つめるとその肩を力強く抱きしめながら部屋の中に招き入れる。ドアを閉める一瞬、視線が向かいの部屋のドアをチラリとかすめて通り過ぎた。
「今すぐ支度をするからちょっと待っててよ、綾さん。その辺りにでも座っててーでもさすが綾さんの叔父さんだよね?坊っちゃん然としてるけどイベントへ行っちゃおうなんて辺りがさ。アメリカでも結構遊んでたりして…?」
「ー雪臣ちゃん」
部屋の中に入った綾は机の上に置いてあった、半分以上カラになったウイスキーのボトルを発見してふと眉をしかめて雪臣の言葉を遮った。
「お酒飲んでたのー?」
「ん…ちょっと眠れなかったからね」
洗面所から聞こえてくる雪臣の声はその割にはちっとも酔っている様子はなかったのだが…。
「雪臣ちゃん、ちょっと飲み過ぎじゃないの?1人で飲んだんでしょ、コレ…但馬がいたら飲ませるわけないもんね。私、但馬みたいに小うるさいこと言いたくないけれど…」
「何言ってるの、綾さんこそ俺なんかよりよっぽど酒飲みのくせに」
「そりゃ私は丈夫だもの、でも雪臣ちゃんは心臓がー」
「平気、平気」
身支度を終えた雪臣は綾の傍らに立った。ソファに腰掛けていた綾は雪臣を見上げながらふとその白い頰に手を差しのべた。
「……何かあったー?雪臣ちゃん」
雪臣は驚いたように綾を見、そして肩を竦めた。
「何にも、綾さんーそれより喜徳さんとはどこで待ち合わせてるの?あんまり待たせたら悪いよ。早く行こうよ!」
綾は巧みに会話を逸らせてしまった雪臣の横顔を気がかりそうに見つめたものの、実際喜徳をそう待たせる訳にもいかないことに気づいた。
『まぁいいわー後で折を見て聞き出すから…』
意地っ張りな割に妙に心細げな表情を見せる許婚の背中を見ながら、ほとんど姉のような心境で綾は心中呟いていた。
「あらぁ、田舎のホテルのイベントだと思って内心バカにしてたけど結構イケるじゃない?この内装銀座にある"G"とほとんど一緒だわ!」
極彩色のライトの洪水と激しいビートを奏でる聞き取れないほど早口のスラングの音楽ースモークをたいているのか、はたまたどこからこんなに湧いて来たのかと思うほどひしめき合ってる若者達の熱気のせいなのか?室内は白っぽく煙幕がかかって一種異様な雰囲気の空間だった。
「去年からこの時期限定でのオープンらしいね。ほら会津秋祭りでこの時期観光客が増えるらしいじゃない?最近はインバウンドも多いし。せっかくの集客だから夜も何か目玉になるものをってホテルのアイデアらしいね。ここのプロデュースはその銀座の"G"…だっけ?そこと同じ人がやったらしい。スタッフもみんな"G"の関係者が出張ってきてるって話だから…道理で垢抜けてるわけだ。盛況だね」
「んまぁ喜徳さんよくご存じね。さすがだわ」
年がら年中遊び回っている綾もどうやら知らない情報だったらしい。目を丸くして喜徳を見た。
「いやぁ、さっき君達を待ってる間、人恋しくてね。フロントマンとつい話し込んでたら教えてくれたんだよ」
「……」
照れくさそうに笑みを浮かべる喜徳を雪臣も感心の眼差しで見遣った。
喜徳という男、知り合ってまだ数時間だが根っからの人恋しい体質の持ち主らしい。1時間と1人ではいられず(もちろん雪臣達はそんなに待たせたりはしなかったが)話しかけられる相手が存在すれば、それがホテルのフロントマンでも道端を歩いている野良猫でも本人にはさしたる問題ではなさそうである。人恋しいから人なつこい。ゆえに愛想も良くなる。喜徳と出会った人は10人中8人までが恐らく彼に好感を持つことだろう。
好印象ー人から好感を持たれることー選挙を宿命とする政治家にとっては大事な要素の一つである。最もそれだけで渡っていけるほど甘いものではないが…。
『父様も俺より喜徳さん跡継ぎにしたほうが確実かもー?』
人見知りの激しい雪臣は得てして万人受けするタイプではない。好かれる人間には異常に好かれるが、嫌われる人間にはそれこそ松平夫人のように抹殺してやろうと企まれるほど嫌い抜かれるー戦国時代ならまだしも今の平和に堕落しきった日本の政治家にはお世辞にも向いてるタイプとは言いかねた。
いずれにしても喜徳の人恋しい体質は彼の出自とまったく無関係なものではなさそうだー義兄となるべき人物を眺めながら雪臣は思った。
幼い頃一ツ橋家に引き取られた喜徳は恐らく誰もが無条件に受けられるはずの母親の愛情を知らずに成長した。母とは名ばかりの正妻、一ツ橋夫人にはもちろん、実の父は外で作った子供など認知したのがせめてもの誠意だと言わんばかりの冷たい態度だったという。唯一喜徳を可愛がったという異母兄の一ツ橋首相もだいぶ年齢が離れていることではあり、常に喜徳と一緒に居ることはできなかった。一口に政治家の妾の息子で母を亡くし、父に引き取られたといった所で喜徳と雪臣では内情がだいぶ違うようだった。
"人なつこい"のと"人見知り"の差は案外この辺りから来ているのかもしれなかった。
『よくグレなかったよなぁ実際…俺だったらとうの昔に人生踏み外してドン底かも…俺の場合、なんだかんだ言っても父様と恭四郎がいてくれたしー』
"例えば父上の愛情、例えば但馬さんの存在"
瞬間昼間の喜徳の言葉が雪臣の脳裏によぎった。
「……」
わかってはいるのだ。言われなくたってーだから謝りにわざわざ恭四郎の部屋にまで出向いたのに…あの女が邪魔をしてー。
『頭痛がするー』
執拗に頭の芯に響いてくる重低音に雪臣が顔をしかめた時ー。
「Come On!! Let`s Dance with me?」
長身の金髪男がニコニコしながら座っていた綾の肩を叩いた。
「えっ、何!?」
背後から声をかけられ、綾は一瞬訳がわからず金髪男と雪臣、喜徳達の双方に視線を彷徨わせた。
「踊りませんかだって…我が姪ながらチャーミングだからね、綾さんは」
綾は自慢げに頷く喜徳の隣、雪臣に気づかわしげな視線を投げた。自分に注がれた許婚の心配そうな視線に気づいた雪臣はふと安心させるように笑顔を向けたのだった。
「行っておいでよ綾さん。せっかくのイベントだし…俺はオーバーワーク気味だから悪いけどここで喜徳さんといるから…ね?大丈夫だから」
「ーそう?じゃ、ちょっとだけ…ね」
口ではそう言いながらも実際は踊りたくてウズウズしていたに違いない。スタートを切られた競走馬のようにライトの渦に飛び込んでいった綾の姿を見送った雪臣はその時ふと隼人の別れ際の言葉を思い出していた。
"知らない人にはついて行かないよーに。強面のおじさんや外人さんとかー"
『外人…ったってアレは平気ーだよな…?声かけられたのは俺じゃなくて綾さんだし』
それにしてもーとおもむろに雪臣は隣りにいた喜徳に向き直った。不機嫌さは影を潜め、今その美貌には脱力したような笑みが浮かんでいる。
「なぁにー雪臣君?」
雪臣の微苦笑に気づいた喜徳は不思議そうに問い返した。
「…いや…俺も喜徳さんを見習わなくちゃって思ってー」
そうすればもっと恭四郎に対して素直になれるし、綾さんにだって小突かれたり大目玉を喰らうこともなくなるだろうからー。
そう言いかけた雪臣の言葉は、最後まで喜徳の耳に達することはなかった。雪臣が話しかけていた言葉は突然出現した1人の男によって遮られたのである。
「ちょっと失礼ー少々話を伺いたいんだが……」
ふいにー。
喜徳との間に割り込んできた男の顔を認めた雪臣の表情が一瞬のうちに緊張をはらんだ。
『こいつー駅で見かけたキナ臭い奴だ!!』
ゾクリと雪臣の背筋を戦慄が駆け抜けた。間違いない。隙のない身のこなし、やたら整った顔立ちのせいでより酷薄そうな光を帯びるサングラスの下の鋭い眼差しー大体この真夜中、しかも薄暗い部屋の中でサングラスを掛けていること自体充分に怪しいではないか。
『外人じゃなくて……強面のオッサンの方かっ!!』
「松平雪臣君ーだね?」
「……」
そうだとも違うとも雪臣は答えない。ただ黙って男の顔を見上げている。その顔は内心と反比例して能面のように無表情だった。
「君ー痛ッー!!」
業を煮やしたらしい男は再び口を開きかけたがしかし口をついて出たのは雪臣への言葉ではなく、うめき声であった。
雪臣が男の向こう脛を思いきり蹴り上げたのである。それが眉ひとつ動かさず男の顔を見上げながらであったので、男はすっかり油断していたようだった。
「喜徳さんっ!こっちだ、早くっ!!」
雪臣はいきなり喜徳の腕を取ったかと思うと脛を抱えてうずくまる男の脇を駆け抜けた。
「おいッ、ちょっと待てッークッ!!あんのぉ〜クソガキ〜ッ!!」
男は人波に紛れて消えていく雪臣達の後姿に向かって手を伸ばしたものの足の痛みのせいで追いかけることができず、その場で悪態をつくより他なかった。とその時ー。
「やっぱり逃げられちゃいましたか…そりゃそーですよねぇ?土方さん、誰が見たって怪しいもの。どう見たって警察関係者には見えないや」
クスクスという笑い声と共に男の目の前に1人の青年が現れた。
長身の青年である。22、3才というところだろうか?人の良さそうな笑みを満面に浮かべている割には、知り合いのはずの男を助けもしないで呑気に笑っている辺り意外と見かけ通りでなさそうな性格が垣間見えていた。
「お前見ていやがったのか、沖田!!このヤロー、だったらどーして助けねぇんだ。このウスラボケがっっ!!」
「えーっ、俺は嫌ですよ〜」
沖田と呼ばれた青年はGジャンのポケットに手を突っ込みながら悪びれもせずに答えた。
「恐いじゃないですか、あんな手負いの獣みたいな高校生。一般市民だから銃を使うわけにもいかないしなぁーま、使えたところで本当に使ったら松平警視正に殺されちゃいますよね?だからどっちにしてもやっかいなものには近づきませんよ。ハハ、それにしても本当に"桜田門の鬼百合"にそっくりな子だなぁ、さすが実の伯母と甥ですよねぇ土方さん?」
「沖田…お前、この土方の下で何年働いてる?凶暴な奴が恐いだぁあ?ならなんで警察になんぞ入ったんだっっ!寝惚けたことを言ってる奴はー」
「ハイッ"皇居の濠に飛び込んで死んじまえ!!"ですよね、ハハハッ、冗談ですってば!沖田刑事、松平雪臣救出に向かいますっ!」
目を白黒させている土方に向かってピシリと一瞬だけ敬礼をした沖田は、長い手足を持て余しながら、しなやかに人波を掻き分けて走り出した。
「ハッ!何だあいつ…」
雪臣は外まで響く重低音の扉を振り返りながら手の甲で顎の汗を拭った。いきなり駆け出したせいか、部屋で飲んでいたウイスキーが今頃になって回ってきたらしくクラクラと目眩を覚える。
「大丈夫かい、雪臣君?」
差しのべられた喜徳の手を制して、それでも雪臣はおどけたように笑って答えた。
「大丈夫ーです。それより喜徳さん…せっかく楽しんでる所、連れ出しちゃってすみませんー俺、どういう訳かよくトラブルに巻き込まれる性質らしくて…今の奴もまったく身に覚えはないん…だけどーああまた恭四郎の奴に嫌味言われ…ちまうー」
次の瞬間、雪臣の華奢な体がフワリとかしいだ。それを慌てた様子もなく片手で抱き止めたのは喜徳だった。腕の中の雪臣を見下ろすその視線にはもはや先程までの柔らかな笑みはなかった。取って代わってそこに浮かんでいたのは、これが同じ人物なのかと思わず疑ってしまうほどの虚ろな表情。
「だから言っただろう?君が当然だと思って与えられている愛情は果たしてどれほど君を守ってくれるのかー君を見ていると兄を思い出すよ。自分は愛情を捧げられて当然だというような傲慢さ…許さないー許せない、兄さん!!」
その時見計らったように暗がりの茂みから2,3人の男達が音もなく躍り出た。皆、上背のあるガッシリとした外国人のようだった。無言で喜徳に近づくと腕の中で意識のない雪臣を引き離して担ぎ上げる。無抵抗に担がれるその様子は、傍から見れば酔った人間を介抱しているように見えた。
別の1人が呆然自失状態の喜徳に短く何か英語を呟くと暗い目をした喜徳は一瞬目を閉じて天を仰ぎ、ズボンのポケットに入れていた手を出した。次の瞬間、地面にハラリと落ちたのは中身のない錠剤のパッケージ。
やがて目を開いた喜徳は何かを決意したかのような表情で、男達と共に暗闇の中に消えて行ったのだった。
『ーん?待てよ…あいつらに囲まれて歩いてるのって…一ツ橋のハーバード帰りじゃねぇの?なんでタレコミ元が組織の奴らと一緒にいるんだ…?』
それはほんの偶然だった。数時間前、雪臣とホテルのロビーで別れた隼人は、彼の今回の仕事の手がかりを探すべくホテルの敷地内をなすともなく歩き回っていた。
彼の真の目的ー雪臣には誤魔化したものの、隼人は社会部に配属されて以来の大きなスクープの種を抱えていたのである。
ー米軍絡みで麻薬組織のかなり大規模な裏取引が行われているらしい。しかも取引が行われているのはこの日本の地である米軍横田基地とのことー。
社会部に移ってからまもなくの頃、隼人は夏の初めに起きた政治汚職事件のスクープを評価して、彼を社会部に引き抜いてくれたデスクが興奮気味に語るのを耳にした。
ーその情報を掴んだのはなんと留学中の一ツ橋首相の腹違いの弟だっていう噂だが…まぁそれは眉唾としてもだ沖縄での基地問題のことだけでも問題の山積みだってのに、政府のお膝元の横田基地で治外法権をかさに着て米軍が何をやっとるんだ!!けしからんってな話の展開になること請け合いだなーもしそいつが事実ならば、な。そこでだ、小林…お前このネタ、モノにしてみる気はあるか?噓かホントかはわからん…雲を掴むような話だが…事実ならこれは日本を揺るがす大スクープになる!!日本だけじゃない、アメリカを巻き込んでの外交問題にまで発展するぞ!ー
ーやります!!ぜひやらせてください!!ー
隼人は反射的に答えていた。
ー絶対にスクープ、挙げてみせます、俺の切り口で!!必ず仕留めますっー
と大見得切ってこの件に取り掛かってから早、数カ月ー米軍の取材から始めてみたものの、一介のしがない記者に太いコネやパイプがあるはずもなく、隼人の大スクープへの夢は暗礁に乗り上げていた。
ところがここ数日、首相の弟である一ツ橋喜徳がアメリカ留学を終えて帰国してから、彼の後を追うように数人の米国人集団が日本に同時入国しているという情報を掴んだ。その一団はアメリカ本国ではペンタゴンとも関係が深いと言われている上院議員、フレデリック・アームストロング氏の経営する関連会社の者達という名目であったが、彼らは明らかに一般のビジネスマンとは一線を画していた。鍛え上げられた筋肉の持ち主ぞろいの屈強な男達というのはスーツの上からでも充分にわかる。
その彼らがなぜか今、東京から離れた地方のホテルの庭の暗がりで首相の弟を取り囲んで何をやっているというのか?
『どう見ても親睦会…ってな雰囲気じゃあないよな?でもなんか1人、後ろの方で酔いつぶれて担がれてる奴もいるけどー』
咥え煙草でカメラの望遠レンズを覗き込んでいた隼人は、だがいきなり視界に飛び込んできた光に驚いてレンズをずらした。
一団の横に1台ワゴン車が音もなく滑り込んだかと思うと一ツ橋喜徳と男達はあっという間に乗り込み去って行った。喜徳に抵抗する様子はなくそれはまったくの予定された自然な流れのように見えた。
「しかしなぁ…こんな夜中に一ツ橋の御曹司が怪しい外国人達とどこへ行くってんだろう?スタッフだっていうたつ子の姿も見当たらないし、ちょいと戻ってお嬢と恭四郎の耳に入れておくかーったく俺もつくづく親切な男だよなぁ」
ブツクサ言いながら愛用の一眼レフカメラをしまって、隼人はホテルの本館に戻る道すがら喜徳と男達が車に乗り込んだ場所に立ってみた。
別に何か意図したわけではなかった。しかし立ち去ろうと踏み出した足元で仄暗い街灯を反射して何かが鈍く光った。
「ーん?」
何気なく拾い上げたのは小さな薬の袋だった。医者に処方箋を出してもらい調剤薬局で出される薬が入っている薄いプラスチックの袋ー使用済みなのか封が切られていて中身は入っていなかったが、裏返すと"ドラール"とプリンターで打ち出れた文字が印刷されていた。
"ドラール"声を出さずに文字を読み上げた隼人は一瞬迷ったように視線を彷徨わせた後、それを上着のポケットにしまい込み、カメラを担いで歩き出した。




