玻璃の静謀ー赦し7
7️⃣
「偶然なんかじゃなかったーたつ子、お前が心変わりをするのは必然的に修に一番近い男でなければならなかったんだーお前は修の関心を引きたかっただけだったんだから……身近な奴じゃなきゃ全く意味がない」
恭四郎の言葉を受け止め、ニコリともせずにたつ子はかつての恋人を見上げた。
「どういうことー?」
雪臣が出ていった後の恭四郎の部屋には引き続き張り詰めた空気が漂っていた。
「お前はいつまでたっても幼馴染の域から脱しようとしない修に業を煮やしてあいつに嫉妬させてやろうーそう思った…それにはあいつから乗り換える男がいる。本気で乗り換えるわけじゃない。あくまでも修の嫉妬心を呼び起こすための行動だ。それにはまず修の知っている顔、できれば身近な男がいいーそう思った…もちろんあの頃のお前は無意識のうちにやってたに過ぎないんだろうがーあの年頃にはよくある子供じみた独占心だったのに…計算違いだったのは修があんな形で俺達の関係に終止符を打ったことだろう?あれはー皮肉としか言いようがなかったな…修は自分の命を賭けてお前を愛していたことを証明した。こんなふうにさえならなければ何の障害もないお前達だったのにー」
「だからどうしたっていうの!?今さら俺はバカな奴らの痴話喧嘩に巻き込まれた気の毒な男です!って?1人で被害者ぶるつもり!?冗談じゃないわー」
「ーそんなことを言うつもりはない……あの時、修から奪いたいほどお前を好きだったのは事実だ」
「だった?過去形なのねー?今はもうそうじゃないの?」
「……」
嬲るような口調で唇を歪めて尋ねたたつ子から視線を逸らしたまま恭四郎は苦虫を噛み潰したような渋い表情で、テーブルの上にあった煙草の箱に手を伸ばした。蓋を開けて中身を取り出す。最後の1本だった。日頃ヘビースモーカーでならしている恭四郎ではあったが、灰皿の上に築かれていく吸い殻の残骸は明らかに異様な加速を伴っていた。がーその沈黙はふいに投げやりな笑みを浮かべるたつ子によって破られた。
「いいこと…教えましょうか?あの人、即死なんかじゃなかったのー」
「……!?」
瞬間、恭四郎のライターを持つ手がハタと止まった。無表情だったその貌には明らかに困惑の影が現れた。
「ーあの時、一番に駆け寄った私の腕の中で最後に一言、虫の息で言ったわ。"ごめんね、たつ子ーこれでいい?"ですって。私、しばらくの間修の言った言葉の意味がよくわからなかった…だってそうでしょう!?あんなことがあったのよ。あてつけに自殺するのなら恨みつらみを残すのが当然なのに、修ったら自分が私達の邪魔になるからってあんなことー」
たつ子の朱唇が震え、その顔から投げやりな笑みが消えた。床の一点を見つめながら頭を振り、口の中で繰り返し何かを呟いている。自らの言葉に記憶が呼び起こされたのか、たつ子は軽いヒステリー状態に陥ったようだった。
「信じられないわ!!普通じゃない!傲慢にも程があるわ!!」
恭四郎は再会してから初めて見たたつ子の本音を隠さない表情を見て、哀れみとも確信ともつかない眼差しを向けて静かに口を開いた。
「それでもたつ子ーお前は修を愛していたんだ…」
「愛してなんかいないって言ってるでしょ!!」
感情的に怒鳴ったたつ子は、恭四郎と目を合わせた途端プイと顔を背けた。まるで恭四郎にその心の内を知られるのを恐れているかのように。
その時、たつ子の前に置いてあったカクテルの氷がカランと音をたてて崩れた。その音に緊張の糸を断ち切られたかのようにたつ子はふと放心したような表情になったかと思うと氷を見つめながらポツリポツリと独り言のように語り始めたのだった。
「ー愛されてもなかった…結局、修も私も自分のことしか考えてなかったのよー付き合っていたって言ったってそれは互いの理想を相手に重ねて見ていただけだった…あの人は自分の死と引き換えに永遠にはずれない鎖で私を繋いだのー修の死はあっという間に山梨の地元でも広まったわ…そしてその死因についても……神保家の手前、表向きは病死ということになってはいたけれど、噂好きの田舎の人間達の間ではちゃんと真相がわかってた…お陰で父の経営していた会社はめっきり仕事が来なくなるし…小さな町中の工場ですもの、悪い噂が広まるとね…お客はみんな近所の顔見知りばかりだし…早い話、干されたのね。神保家にたてついた制裁というわけ。大学にも、実家にも私の居場所はなかったー外国にでも行くしかないじゃないの……」
「ーそんなことはない」
恭四郎は延々と続くたつ子の言葉にようやく糸口を見つけて遮った。
「少なくともー神保顕彦氏はそんな人じゃなかった。修の事件の後、半ばノイローゼ状態になって大学にも行けず彷徨っていた頃、あの人が知り合いだった松平桂之介先生が秘書を探していらっしゃるからどうかと口を聞いてくれたんだ」
「ー」
たつ子は黙って恭四郎を見つめている。だが彼女の実家が修の死によって相当な打撃を受けたこともまた事実だったのだろう。修の自殺は経済的なことばかりでなく、それをもたらした原因であるたつ子と家族の間にもまた、気まずい壁を作り上げてしまったのである。
たつ子の瞳に浮かんだ凄まじい不信の色を見て恭四郎は悟った。これこそ今はもう他人の立場にある自分が、彼女にあれこれと干渉すべきことではないのだーと。
「…まぁいい」
恭四郎は伏し目がちに目を細めるとゆっくりと煙草に火をつけた。フーッと息を吐き出した彼は注意深く語彙を選びながら言葉を続ける。
「ー俺が尋ねたいのはそうまでして思い詰めてアメリカに渡ったお前が、どうして今頃になって日本に戻ってきたかということなんだ…よりにもよって神保顕彦氏や俺のいるとわかっている日本の、政界にー何が目的だ?帰国する喜徳氏についてきたのは偶然じゃないんだろう。復讐の為かーたつ子?」
「嫌ね、偶然よー」
たつ子は笑った。が、その目は少しも笑っていない。その声もどこか乾いて空々しい響きを放っていた。
「他に何があるっていうの?喜徳とはハーバードの図書館で知り合ったの。互いにプレゼンテーションに使う資料を集めていて…東洋人は目立つから何回か顔を合わせるうちに話すようになってー」
「プレゼンテーションの資料?お前、確か弁護士だったんじゃ…?」
訝しげに眉を潜めた恭四郎の言葉をたつ子が素早く遮った。
「行く行くは独立して小さな事務所を開くのが私の夢だった…そのためにハーバードのビジネススクールに入学してMBI(経営学修士)を取ったわ。喜徳には卒業間近に誘われたの。卒業したら首相である兄の手足となって働くために帰国する。法律にしても経済にしても多少畑は違うけど、君の優秀さは本物だからぜひ僕のスタッフとして手伝って欲しいってー私、承知したわ。その頃には松平氏の所にあなたが居るのもわかったから…」
意味ありげに言葉を切ったたつ子は艶を含んだ眼差しを恭四郎に向けた。
恭四郎はたつ子に向かって何か言いかけたもののふと口をつぐみしばらく考え込んだ後、意を決した様子でたつ子に向き合った。
「ーすまないが…4年前の俺はもう、死んでしまったのだと思う。あの時にーこれが今の、正直な俺の気持だ…だが修がお前に残した言葉の重さを一緒に背負わずお前だけに辛い思いをさせた、その責任逃れをするつもりはない。その償いはどんなことをしてでも俺が必ず払うからーしかし、この件はあくまでも俺とお前…そして修の問題だ。雪臣様には何の関係もない。あの方を巻き込むのはやめてくれないか」
「あなたに庇われてる事自体、あの子が憎いのよっ!!」
たつ子の声が再び感情的に波立った。猫の目のように目まぐるしく変わる自らの心の変化について行けなくなったのか、上目遣いに恭四郎を睨んだその瞳にはうっすらと涙が浮かんでいる。妖艶な笑みを浮かべていたはずの口許はへの字に曲がり、駄々っ子のそれのようだった。
「戻りたい……」
ふいにたつ子はポツリと呟いた。
「あのー学生の頃にー戻りたいの、恭四郎!」
普通の男であればかつての恋人にこれほどまでの哀願を見せつけられたらたとえその気がなくても心が動いたに違いない。だが恭四郎は心どころか眉一つ動かさず、乾いた声でたつ子に問いかけた。その瞳に浮かぶのはただ純粋な憐れみのみである。
「戻って…そしてどうするんだ…?傷つけ合うのか、また…あの頃のようにー?」
「……」
たつ子は呆けたように恭四郎を見上げた。その次の瞬間、彼女は火のついたように笑い出したのである。恭四郎の顔を見たたつ子は彼の言葉が真実であることを見抜いたのだった。恭四郎の心は既に自分にはないーそう悟ったたつ子の高笑いは恭四郎の耳には癒しがたい孤独を必死で耐える彼女の心の悲鳴にも聞こえていた。
「たつ子…」
「…そんなにあの子が大事…?」
「え…?」
突然高笑いを止めたたつ子は絶望と憎しみの混ざったきつい眼差しではたと恭四郎を見据えた。
「あなたは私が修の影を振り切れないというけれど、こだわっているのはそちらの方ではないの?」
「ーどういうことだ?」
わずかに恭四郎の関心を引くことに成功したたつ子は、余裕を見せつけるようにゆっくりとソファの上で組んでいた足を組み換えた。
「ーあなた、必要以上にあの子の不興を買うのを怖がってるわ…松平氏の息子だからというわけじゃない。昔からあなたは頑固だったもの。自分が納得しなければどんな権威があるからといっても絶対に屈服するような性格ではないはずーあなたは恐れているのよ、過去を繰り返すことを…修が居なくなったようにあの子が再び自分の許から去ってしまったらどうしようかとーあなたは修の面影を松平雪臣に重ねているんだわ、恭四郎ー」
「何を馬鹿なことをー」
「そうじゃないとハッキリ否定できて?ノイローゼになるほど思い詰めて私とのことも葬り去ったあなただもの。何か別の支えを見つけなければここまで立ち直ることなど到底できなかったはずよ」
黙り込んでしまった恭四郎を前に、たつ子は勝ち誇ったように言葉を続けた。
「あの子ー今にもあなたを取られるんじゃないかって顔してじっと私を睨んでたわ」
「……」
「かわいいでしょ?あそこまで懐かれてるんですものね。あなたのお姫様のあの目ときたら……あなたが側に居ることを当然だと思って疑いやしないー」
言葉が途切れたその一瞬、たつ子の貌から笑みが消え、アーモンド形の瞳がスッと細まった。
「無邪気ね…無邪気で、傲慢ねーほんと修とそっくり…」
ほとんど独り言のような呟きをもらしながら、あきらかにたつ子は恭四郎の向こうに自分の人生を狂わせた男の姿を見ていた。諦めと愛おしさが入り混じった不思議な眼差しでー。
だが我に返った彼女の口から出たのはそんな様子を振り切るような冷たい響きの言葉だった。
「無邪気な傲慢さー私大嫌いよ、そういうの…いじめてあげるわ。明日からが楽しみね」
赤い唇を吊り上げ挑戦的な笑みを投げかけながら、たつ子はしなやかな身のこなしで席を立ち、部屋を出て行った。
その後姿を見つめていた恭四郎はたつ子の姿が消えた途端、襲ってきた気だるさに耐えかねて、深い吐息と共に今までたつ子が座っていたソファに倒れ込むように腰掛けたのだった。
瞼を閉じてもアラバスターのサイドランプの光が目に刺さる。いつになくささくれだっている神経を落ち着かせようと再び目を開いた恭四郎の苦い表情の前にはたつ子が飲んでいたラスティ・ネイル(錆びた釘)という名の、セピア色のカクテルとシャネルの微かな香りが、たつ子その人の想いのように残されていた。




