玻璃の静謀ー赦し6
6️⃣
「ーゥーッッ、眠れないっ…!」
幾度かの睡眠への挑戦に失敗した雪臣は低く唸るとガバッとベッドカバーを撥ねのけて起き上がった。サイドテーブルに置かれた時計をふと見遣ると12時30分ー恭四郎の部屋を飛び出して来てからまだ1時間もたっていない。仄暗い明かりに照らし出された雪臣の貌に後悔と苛立ちの色が交互に浮かんでは消えていた。
そうしてしばらくの間まんじりともせずに、前方に広がる闇を見つめる。何だか永遠に夜が明けないような気持に囚われていたたまれなくなった雪臣様はふいにパジャマを脱ぎ捨て、ベージュのウールスラックスとシャツを着込み、襟元に紺と赤のストライプの入った白地のカーディガンを引っ掛けながら部屋の外に出ていったのだった。
『…さてどこに行こうかー?』
後ろ手にドアを閉めた雪臣様は、向かいの恭四郎の部屋のドアからわざと目を逸らしながら思案にくれた。正面を向けないとなれば、首は自然と横を向くしかない。当然のように雪臣の視界に飛び込んできたのは隣の綾の部屋のドアだった。
「……」
しばらくその前に立ち尽くし考え込んだ雪臣は、やがてノックをしようと片手を上げたのだがー。
「ー茶杓の銘は"玉響"。千利休が太閤秀吉に献上したものを家康公が譲り受け、3代将軍家茂公より会津松平藩祖容保公へ下賜されたもので…って…エエーッとちょっと何か違うんじゃない?3代目の名前は…ああそうそう家光だった!ったくもうみんな家がついてるからややこしいったらありゃしない。似たような名前つけてるんじゃないわよ!ったくー」
ドアの向こうから響く綾の声に雪臣の手はふと止まった。防音装備が施されているはずのドア越しでもなお聞こえるほどの綾のボヤキ具合である。何だかよくわからないものの、その声の調子から相当に苛ついていることだけは容易に判断がついた。
『茶杓?家光…?』
綾の言葉を心の中で繰り返した雪臣はその途端、食事中の喜徳と綾の会話を思い出したのだった。
"そういえば今日案内してもらった鶴ヶ城には茶室があるそうだね?"
"ええ、お庭の一角にあるらしいですわ。私達が入った廊下橋の左側にあるって地図に出ていたけれど…"
"へぇ、いいねぇ…いや実は一ツ橋の実家にも離れに茶室があってねー兄の趣味と外国からの来賓の接待のために建てられたものなんだけど…僕もよく付き合わされたものでー"
茶室にいると心が和むのだと喜徳は言った。その翳りのない笑みはそのまま、兄の一ツ橋首相への絶対的な信頼に繋がっているらしい。犬の子でもやるように自分を養子に出す兄を、よくもそこまで信頼できるものだー嬉しげに兄の話をする喜徳を、雪臣は皮肉を込めた眼差しで眺めたがー。
"それじゃ、明日飯盛山から帰って来たらあのお茶室を借りてお茶会でもしましょうか…ね、雪臣ちゃん?"
いきなり話を振られて雪臣はハッと我に返った。
"えっっ!!ああ…そうだね…"
また人の話を聞いてなかったわねーと言いたげな瞳で綾は一瞬雪臣を睨みつけたものの、すぐに気のない雪臣の返事をフォローするかの如く華やかな笑顔を喜徳に向けた。
"お点前は私が務めさせていただきますわ。こう見えても私、表千家を10歳の頃から嗜んでますのよ"
"そいつはすごいなぁ…それじゃ綾さんは見かけだけじゃなくって中身も充分に伴った真性大和撫子ってわけだ。今どき日本女性の中でだって滅多にお目にかかれないよ。いやぁ楽しみだなぁ、ハハハッ"
だが雪臣は知っている。綾は年数は積み重ねていても、その実稽古の方はサボッてばかりで茶道や華道は最低限の作法しか覚えてないのだということを。
確かに綾は幼い頃から茶道、華道、ピアノ、英会話、おおよそ将来どこに嫁いでも恥ずかしくないように伊達銀行の総裁令嬢としての花嫁修業は積んでいた。しかし元来頭が良く要領の良い合理的な物の考え方をする娘である。ピアノや英会話、料理などは現在の自分の生活に役立つからと熱心に学ぶし、それなりのレベルでこなす。しかし茶道や華道はそれで食べていくわけでもないからと見向きもしなかった。
政治家の妻になったらどうするのかと雪臣は1度彼女に向かって聞いたことがある。
"そんなの、実際なってから考えればいいじゃない"
綾の答えは簡単明瞭である。
"だいたい雪臣ちゃん自身がお父様の跡を継ぐかどうかも決めてないっていうのにーそんな人を試すような質問、するもんじゃないわ"
と逆に雪臣が切り返された。
"では早速手配しておきましょう"という恭四郎の言葉でこの話は一応区切りがつき、雪臣はそれきり忘れ去っていたのだが…。
『……』
ふいに唇を噛みしめて俯いた雪臣は、そっとドアノブから手を離した。
綾の真意が掴めたのである。口ではなんだかんだと言いながら、綾は苦手な茶道を引っ張り出してまで雪臣に味方してくれようとしているに違いなかった。日頃数々のボーイフレンド達と浮名を流し、病弱な婚約者である自分の所には気が向いた時にしか近寄らない。一緒に居れば居たで言いたい放題のやりたい放題。"結婚前から婚約者を尻に敷いている伊達の小娘"の評判には決して恭四郎1人が眉をひそめているわけではなかった。
だが綾は人々のそんな陰口にはまったく動じない。自分のやりたい事、やるべき事をしっかりと見極めて欲望の渦巻く政財界を鮮やかに生き抜いている。
強い人間だー雪臣は綾を見てつくづくそう思う。強くてしたたかで生命力に満ち溢れた美しいその姿は、自分に与えられなかった宝の山を見ているようで雪臣に幸福感を抱かせた。だから雪臣は綾の側に居て彼女の存在を感じていることがとても大好きなのだ。彼女の言葉ならたとえどんな小言でも雪臣にとっては生きるためのエネルギー源になってしまうのだがー。
だがさすがに今、綾の目の前に出て行って泣き言を吐く気にはとてもなれなかった。綾は誰の為でもない、自分の為に一生懸命努力をしてくれているのだ。当の本人がどうしておめおめと話の本題から逸れたことで綾に泣きつけるというのだろう?そんなことをすれば実際、自分は世間の言う通り綾の尻に敷かれる情けない男に成り下がってしまうことを雪臣は充分に承知していた。
「えーっとお茶を点てたら茶筅は"の"の字を描きながら静かに茶碗から離す…っと…ー」
悪戦苦闘している綾の呟きをドア越しに聞きながら、雪臣はそっとその場から離れた。
エレベーターに乗り込んで1Fのロビーに降りてきた雪臣は深夜の割にはやけに人が多いのにふと気がついた。
『何だろう…?そういや昼間も結構人が居たみたいだったけど…』
観光客風の若い娘の姿が気のせいか多いような気がする。このホテルでは別館で不定期にナイトイベントが開催されると綾が言っていたから、そこに行くつもりなのかもしれない。少女達を見ていた雪臣はボンヤリと取り止めもないことを考えていたのだがー。
その中の1人とふと目が合った途端、雪臣はしまったと心の中で舌打ちした。少女達の目の色が一瞬にして変わったのだ。雪臣の稀な美貌に目をつけたのである。自分の意志とは関係なく、人々が自分の容貌に魅かれて集まってしまうー雪臣にとっては日常茶飯事なことだった。街中を歩いていても普段の学校生活に於いてさえ人々の好奇、憧憬、称賛の視線は当の彼にしてみれば"鬱陶しい"以外の何者でもなかった。
やがて見ているだけではあきたらなくなったらしい少女達が自分の方に向かって来だしたのを見てとった雪臣は、素早く階段の下にあった自動販売機コーナーに身を隠したのだった。ナンパでもされたらかなわない。綾には大目玉を喰らうだろうし、恭四郎にはくれぐれも事件に巻き込まれるなと言い渡されてるしー。
頭の中をよぎった恭四郎の面影に、雪臣の口許は見る間にへの字形に変化した。
「くそっ、自分だって遊んでるくせにっっ…!!」
荒々しくスラックスのポケットに手を突っ込んだ雪臣は握りしめた小銭を目の前の自販機に入れようと手を伸ばしたのだがー。
突然背後から伸びてきた腕が雪臣よりも先に自販機に小銭を放り込み、素早くボタンを押していたのである。ムッとした雪臣は、割り込んだ人間を怒鳴りつけてやろうと後ろを振り向いたのだが…。
「ー!?」
目の前にいきなり缶を突きつけられて雪臣は思わず言葉を飲み込んだ。
「ようお嬢、お久しぶり!その節はどうも?お陰さんで大変なスクープを貰っちまって…どう?その後元気?」
Tシャツにジーンズ、ダウンジャケットという出で立ちの男はニヤニヤと笑いながら空いていた方の手でかけていたサングラスを外した。この能天気な口調には雪臣は聞き覚えがあった。
「あ、あんた…恭四郎の自称友達のー」
「そうそうー」
「雑魚記者!!」
「小林隼人!!」
雪臣と隼人は同時に叫んだ。がっくりと肩を落としたのはもちろん隼人である。
「お嬢…あんたねぇ、俺には小林隼人って名前がちゃんとあるんだよ…」
「小林…隼人…?」
そういえばそんな名前だったような気もするがー。
「覚えてないのォ?あんたを救出するために俺の愛車提供したんだけどなぁ」
『そんなこと言ったって…』
雪臣は口を尖らせた。
横浜で救出された時はハッキリ言って半ば意識を失った状態だったのだ。極度の緊張(してたのだ、あれでも)とそれに伴う疲労のせいで持病の心臓病の発作を起こした彼が覚えていたのは車の中でもずっと彼を抱きかかえ続けていた恭四郎の力強い腕の感触だけだった。
「ま、しょうがないか…お嬢に会ったのはパーティーの時だけだったし、その後は具合が悪かったんだし…確かにあん時のあの様子じゃあなぁ…あんたら猿の親子みたいだったぜ。恭四郎はひしっとあんたを抱きしめて離さないし、あんたはモーローとしながらも恭四郎にしがみついてるし…ホラ、動物園の猿山に行くと必ず1組はいるだろ?そーいう母ザルと子ザル…が…」
「…さるー?」
ピクリと上がった雪臣の眉を見て、隼人は思わず口をつぐんだ。自らの失言に気づいたらしい必死にごまかし笑いを浮かべながら手に持っていた缶を無理矢理雪臣に握らせた。
「ほ、ほらよっ、俺等ぁ恭四郎と違ってしがないブンヤなもんで、こんなもんしか奢ってやれねぇけどな。ま、飲めよ」
「何、これ?暴々…茶…?」
「そ、お嬢の今の心境にぴったりだろ?」
「恭四郎に何か聞いたのかっ!」
「あ、図星だった?」
噛みつきそうな勢いで睨んだ雪臣に隼人は首を竦めた。
「べーつにィィ。なんかそんな気がしただけェェ。お嬢がすごい顔してるから…俺、まだ恭四郎に会ってねぇもん。会ったところであいつは一切松平ファミリーの秘密についちゃ何ひとつ喋ってはくれませんよ、何ひとつね…この間のスクープだって山内議員サイドの汚職問題しか撮らせてくれなかったし…松平夫人に関しちゃ一切ノーコメント、もし漏れでもしたら他のブンヤにスクープ流すぞって脅しやがったんだぜ、あいつ…まったく友達甲斐のないー」
隼人はフゥーとため息をつくと頭の後ろで手を組んだ。
「…なんだーじゃ結局あんたがあそこに居たのはスクープを撮るためだったんじゃない?俺を助けたのはついでってわけだ」
雪臣はにわかに醒めた目つきになると手の中の缶を睨みつけた。
「ま…ねーあんたに期待なんかしちゃいなかったけどー」
「相変わらず可愛くねぇな」
呆れ顔の隼人が顔を上げた瞬間ー雪臣の表情がたちまち曇った。震える手で口許を覆った雪臣を、隼人が訝しげに見つめる。
「…何だ?」
「ー俺…これだから恭四郎の人格を認めてないなんて言われちまうのかなぁ…一緒にいると忘れるけどあいつ8歳も年上だし、人が見たらやっぱり生意気なんだろうなぁ、俺ー」
肩を落とした雪臣を、隼人は缶のプルタブを引きながら物珍しそうに眺めた。
「へぇーお嬢が弱気になるとは珍しいこともあるもんだ…」
「何だよっ!悪いかっ!」
「いやいや…」
雪臣のポーカーフェイスが崩れ、色白の頰が桜色に染まったのを見た隼人はニヤニヤと笑った。
「何?一ツ橋首相の弟になんか言われたのか?やっぱハーバード帰りは弁が立つねぇ」
雪臣の表情に警戒の色が広がった。
「…あんたどうして喜徳さんのこと知ってんの?そういやなんでここにいるのかも聞いてなかったーよな?」
さてはまた自分達を週刊誌ネタにしようと東京から追いかけてきたのかー。胡散臭げに自分を見つめる雪臣を隼人はカッカッと笑い飛ばした。
「嫌だなぁ、そんな目で見るなよ。今回はあんたらとは別件の仕事だ。実は例のスクープ以来、俺の実力がようやく認められてねぇ、君ィ」
隼人の顔が得意げな色をたたえてニンマリと微笑んだ。隼人の言に寄ると例の政治汚職のスクープを撮った隼人は社会派記者としての実力を認められ、今まで属していた芸能ゴシップネタの部門から政治・経済などの社会ネタを扱う部門へ配置換えになったとのことだった。しかし雪臣の表情はあくまでも"不審"であった。
「じゃなんで俺と喜徳さんがここにいることを知ってんのさ。怪しいじゃないか」
「いやそれは蛇の道は蛇ってね…ここにいるのは…」
雪臣の鋭い突っ込みに隼人は目を白黒させる。
「ホラ…その…明日から秋祭りだろ、会津若松の!!」
「え!?」
「うんうんそうなんだ。それで取材に来てるんだよ。毎年ここのは盛大らしいからな」
自らの答えにえらく満足したらしい隼人は何度も何度も頷いた。
『人が多かったのはそのせいだったのか』
雪臣は妙な所で納得しながら注意深く隼人を見つめた。どうやら隼人は事の真相を喋るつもりはないらしい。まぁここまで隠すことならば隼人の目的は確かにくだらない週刊誌ネタではなさそうであった。
『俺に関係ないことならまぁいいか…』
追撃の手を緩めた途端、雪臣の心を再び憂鬱の嵐が襲った。知らずため息をついた雪臣を眺めた隼人は話の矛先が自分から逸れたらしいことに気づいてたちまち余裕を取り戻した。近くのベンチに腰掛けると、隣の空いている席を叩いて雪臣に座るようにと促した。
「ーさっきの話だけどな…」
ベンチにかかるかすかな雪臣の体重を感じながら隼人は口を開いた。
「でもさ、それで恭四郎がなんか不服そうにしたことがある?」
「ーわかんないんだ…」
雪臣はしばらく考えたあと、ポツリと呟いた。
「恭四郎って小うるさいけれど、自分の感情を表に出さないし…あ、綾さんに嫌味を言うってのは別だぜ。あの2人は天敵だから…寝言みたいなもんだろ。そうじゃなくて自分の本心を、だ」
「そうかー?寝言だからこそ本心が出るってこともあるぜ」
「えー?」
聞きとがめた雪臣に隼人はニヤリと笑ってみせた。残っていた缶コーヒーを一気に飲み干すと近くにあったゴミ箱にポイと投げ入れる。
「ーつまりな…炯眼なるジャーナリスト小林隼人様の見た所、恭四郎は口じゃブツクサ言いながらも結構あんたの世話焼きを楽しんでると見た」
「あいつが俺の世話してるのは親父に押し付けられて逃げられなくなったからー」
自嘲的に瞳を逸らした雪臣の言葉を、チッチッと舌打ちしながら隼人が遮った。
「ったってあいつはずいぶん有能な秘書だそうじゃないか。最近は与党、野党の別なく議員の先生方から引き抜きのお誘いで引っ張りだこらしいぜ」
「何だとッー!」
「おっと俺に怒んなよーだから俺が言いたいのはだ、あいつだってそれなりの野望があって政界に入ったんだ。あんたに不満があったらとうの昔にどっかの先生のラブコールに応えて松平陣営をおん出てるさってこと。行き先がないんならいざ知らず、引く手あまたなんだから」
「…引く手あまた…」
あまりにも近くに居すぎてわからなかった但馬恭四郎という男の価値の重さを知らされて雪臣は呆然と呟いた。その様子を見た隼人が面白そうに大きく頷く。
「つまり何の期待も関心も持っちゃいないあんたのお守りをするほどあいつはヒマな男じゃないってこと。わかる?」
雪臣は弾かれたように隼人を見、慌ただしく再び視線を逸らせた。
「で、でもこれから先、あいつが俺よりもっと見込みがあると思うような奴と出会ったら…」
『何を言っているんだ、やめろ!下手なことを口走るのは!!』
頭の中でもう1人の自分が叫んでいる。
「そうだな。そん時ゃお嬢が見限られることもあるかもしれない…そういうもんだろうが。漢の仕事ってのは?遊びじゃない分、妥協もない…」
そこまで言うと隼人は黙り込んでしまった雪臣を力づけるようにフッと人懐こい笑みを浮かべたのだった。
「何?強気なお嬢にそんなに自信喪失させるほどものすごい奴だったの、ハーバード帰りは?」
「そうじゃないんだ、喜徳さんじゃなくて……」
『言うな、隼人のペースだ!こいつはマスコミ側の人間だぞ』
「…あんた…萱野たつ子って女…知ってる…?」
「萱野たつ子…?」
ふいの質問に隼人は記憶の糸を手繰り寄せるように宙を睨んだが、それはすぐに中断された。
「おう、知ってるぜ!同じ大学の同窓生だった。才色兼備のいい女でな、"法学部の萱野たつ子"って言ったらちょっとした有名人だったんだぜ」
鼻の下を伸ばしてニヤニヤと笑う隼人に、雪臣は氷のように冷たい眼差しを投げた。
「その萱野たつ子なんだけど…今、日本に来ているんだ。喜徳さんのスタッフとして」
「え……?」
隼人の表情が雪臣に負けず劣らず凍りついたように見えたのは気のせいか?
「へ…へぇ?そうなの」
「あんたと同窓生ってことはあの女と恭四郎もそうだったってことだよね」
「そっ、それがどうかした?」
「今日の昼間、あの女と会ってから恭四郎の様子がおかしい。いいように振り回されてるーあの女が言うには恭四郎とは昔、大親友だったとか…」
雪臣の論外に含まれている言葉の棘を感じ取った隼人は苦虫を噛み潰したような顔になった。
「で、恭四郎は?なんて言ってるんだ」
「恭四郎は否定も肯定もしない。けど鼻の下伸ばして好きな女に振り回されてるって感じじゃないんだ…何かよくわかんないんだけど…もっと他に理由があるような気がする。あの緊迫感はー。それにあいつは仕事の場にそんな私情を持ち込む奴じゃない」
"へぇ、そう?その割にはあんたにはベタ甘じゃないの、ずいぶんとー反対に伊達の娘っこにはどう贔屓目に見たって敵意を持ってるように見えるぜ、ありゃ"
焦った隼人は必死で話を逸らそうとうっかり口をすべらせそうになり、かえってそれが雪臣を益々不機嫌にならせることになりそうだと慌てて口をつぐんだ。なぜ恭四郎のことで、雪臣に対して自分がこんなに後ろめたい気持ちにならなければいけないのか?自称報道スクープマンを名乗る自分としては、たとえどんなものであろうと真実を伝えることが使命のはずー憮然としたものの、隼人の心は一向に晴れなかった。
眼の前で滅多に見ない雪臣の落ち込んだ顔を見ていると、どういうわけか自分がすべて悪いような気分になってくるのだ。ペンは剣よりも強し、されど雪臣よりは弱しー。これをカリスマというのか?
雪臣の父、松平桂之介も多分にその要素を持つ数少ない政治家ではあるが、雪臣も父からそれを十分に受け継いでいた。将来政治家になった時、それは彼の大きな武器となるに違いなかった。
『恭四郎もこれにやられたクチだなー』
密かに隼人がため息をついた時ー。
「…絶対におかしい…あいつ、部屋を飛び出した俺を追いかけてもこなかったんだぞ…?いつもなら必ず血相変えて叱りに来るのにーそんなにアレがいい女なのかよ、ふんっっ!!」
当の"カリスマ"のこれまた珍しい子供じみた独占欲に、隼人は思わず微笑んでいた。
「そりゃあ…あいつだって男だからなぁ…頭じゃわかってたって考えてることとやることが違くなっちまうってことが、まぁたまにはあるだろ?」
「下品極まりない奴だな。自分と一緒にすんなよ」
鼻の頭に皺を寄せた雪臣はさも嫌そうに眉をしかめた。
「ヘイヘイ、どうせ俺は本能の赴くまま、その日暮らしがやっとのしがない庶民ですから…」
「貧乏だから下品になるなんて俺は一言も言ってないぞ!!こういうのは本人の気持の持ちようだっ」
『…貧乏…ねー』
慰めているのかえぐっているのか雪臣の真意を計りかね、隼人はポリポリと頭を掻いた。
「ヘイヘイー」
隼人の小馬鹿にしたような気の抜けた返事を聞いた雪臣はムッとした顔つきで何か言いたげに口を開いたものの、ふいにそれどころでなかったことに気がついたらしい。不満げな表情を残しながらも口から出たのは他の言葉だった。
「隼人ー恭四郎とあの女の間に昔、何があったんだ?」
「な、何ってーなに?」
射抜くような眼差しを雪臣に向けられわざとらしくおどけてみせる隼人。だが雪臣はニコリともせずにひたと隼人を見据えた。
「いいか隼人、俺はこっちはあきらめないからなー隠そうなんて思わない方がいいぞ。どうせ親父のルートを使えば恭四郎の過去を洗うぐらいわけないんだ。だけど…」
ふいに言い淀んだ雪臣は、自らを勢いづけるように手の中の缶の茶を一気にあおったのだった。
「ーだけど…そんなことしちまえば知られなくてもいい奴にまで恭四郎の弱味を曝け出しちまうことになるかもしれない。今は親父の下で同じ立場で秘書やってたとしても、この先政敵にならないって可能性はないんだからーあいつの足を引っ張るような真似だけはしたくないんだ…だから隼人ー」
雪臣のまっすぐな視線が再び隼人の心を射抜いた。
「恭四郎の過去を知ってるんだったら教えてくれ。なんであの女が必要以上に俺に絡むのか、どうして恭四郎はあんなに感情的になるくせにあの女に言いたい放題言わせておくのかーそれによっちゃ対喜徳さん対策も変えなくちゃなんないんだ、頼むー」
ペコリと頭を下げた雪臣。瞬間、隼人はその意外な行為に目を奪われてポカンと口を開いた。
『お嬢が人に向かって頭を下げてるー!?』
「…何だよ?」
上目遣いで隼人を見上げた雪臣は、隼人の反応を見ると癇症に眉を吊り上げる。
「い、いや…」
返す言葉を濁しながら隼人は内心首を捻っていた。
『…意外だぜ…』
雪臣と実際に会って言葉を交わしたのはこの間の伊達銀行創立記念パーティーの時が初めてだったが、その時の第一印象といえばとにかく"美貌と尊大"の二言に尽きた。
雪臣に会った大抵の人間はその人並み優れた美貌の方に心を奪われて気づかないようだが、仕事柄多くの人間を見つめ続けてきている隼人である。雪臣の見かけには似合わぬプライドの高さにまず驚いた。
一見愛想がいいように見えてその実頑固なまでに相手に屈しない。パーティー会場で客達に囲まれる雪臣や、その後横浜で山内議員や義母の松平夫人と言葉を交わした雪臣を見て隼人は直感したのだった。
『こいつはたとえ殺されても、自分が認めないものには頭を下げるタイプじゃねぇな』
その雪臣が今、エベレストより高そうな頭を下げている。しかも自分の為にではなく他人の恭四郎の為に、であった。
『ーつまり、だ…ただの他人じゃねぇわけね』
雪臣の中に意外な一面を見出した隼人は何とはなしに嬉しくなってクスクスと笑い出す。
「き、気色悪ィな…」
思わず引いた雪臣を眺めながら隼人は勢いよくそっくり返って組んでいた足を組み換えた。
「何やかやと言いながら、けっこう両思いなんじゃないの」
「何だっ、その両思いってのはっっ!!」
「まぁまぁ…」
くわっと口を開けて怒鳴った雪臣に隼人はヒラヒラと片手を振りながら笑みを浮かべる。雪臣の態度にどうやら腹を決めたらしい。
「ーま、いいでしょ。お嬢の純情に免じて話してやるとしましょ…たつ子が現れたことは恭四郎にとってあまりいい傾向とは思えないしな……」
「やっぱり何かあるんだな…」
「気になるゥ?」
「…気にならなかったらあんたとここでこんな話なんかしてないっっ…」
「ごもっとも」
プイッと背を向けた雪臣の肩に手を乗せた隼人の声はだが意外にも真面目なものだった。
「ーこんなこと今さら俺が言わなくたってあんた充分にわかってると思うが…たとえ過去にたつ子と何があったにしろ、今の恭四郎にとっちゃあんたが一番大事な奴なんだ。そうじゃなけりゃ火のついた倉庫に自分の身も顧みずに突っ込んでくような馬鹿な真似、あいつがするかよ。俺じゃあるまいしー」
「ーああそうだな…」
雪臣は驚いたように隼人を振り返り、そして肩に乗っていた彼の手を軽く叩きながら微笑した。
「ありがとな、隼人ーでもあんたにそんなに気を遣われると何だか恐くてしょうがないよ。心臓に悪いから早く話してくれ。俺は…大丈夫だから、さ」
おうと頷いた隼人は顎を撫でながら腕を組み、記憶の糸を手繰るように視線を宙に彷徨わせた。
「…俺があいつらに初めて会ったのはW大学に入学してしばらくたってから入部したライフル部でのことだったー」
「あいつらっ…て恭四郎とたつ子だな?」
「そうだ。それからー神保修ー」
「じんぼ…おさむ……?」
小首を傾げる雪臣をチラリと横目に見て隼人は再び視線を宙に遊ばせた。
「学生時代ー恭四郎の一番の親友だった男だよ。恭四郎と奴は同じ政治学部で…どういうわけか馬が合ったんだろうな、性格も育った環境も全然違ったがよく一緒に居るのを見かけたよ。神保って奴はこれまた絵に描いたようにおっとりとした奴で…なんせ18、9にもなる男がだよ、酒は知らない、煙草も知らない。新人歓迎のコンパの時、酒を勧めた先輩に向かって真顔で言ったんだ。"酒は20才を過ぎてからです。先輩は法学部なのに日本の法律を知らないんですか"ってね」
「ぶっっ!!」
瞬間、雪臣は恭四郎のこともたつ子のことも忘れて吹き出していた。
「な?とんだオトボケ野郎だろ?部の合宿の時に、奴が米を研ぐ係になったんだがあん時ゃさすがの俺もブッ飛んだね」
「な、何があったんだよ」
「もうそろそろ米が炊けてる頃だろうってんで俺達が味噌汁やおかずを持って入っていったら、薄暗くなった洗い場で神保の奴しゃがみ込んでて…なんて言ったと思う?」
「ー?」
「"いやぁお米を洗うのって大変なもんなんだねぇ。日が暮れちゃったけどまだ洗い終わらないんだよ。これからはご飯炊いてくれる人には感謝しなくちゃならないねぇ"だとーよくよく見たらさ、なんと一粒ずつ洗ってやんの、米を!」
「ブッッ!グフッー!!」
目を白黒させてうずくまる雪臣。
「そんな所が恭四郎と合ったのかもしれないな。恭四郎もああ見えて世話好きだし…」
隼人の言葉の含みを敏感に感じ取った雪臣は頰の辺りをヒクつかせながらも抵抗を試みた。
「…俺はちゃんと飯も炊けるし味噌汁だって作れるぞ!一緒にすんな!!」
「いやそればかりじゃないんだけどね…何かお嬢と似たとこあるような気がするんだよなぁ。性格じゃなくて生まれ育ちがな…確かあいつも地方政治家の息子で…山梨か長野じゃなかったかな…地元に帰れば下にも置かないお坊ちゃまだったらしいから」
「山梨…あ、ひょっとして山梨全県区から選出されてる神保顕彦のー」
「弟だよ。あんたよく知ってるね?」
「父様…親父の仕事仲間だもん。自民党の若手有望株じゃないか。確か今、政務次官…だよな?」
「そ…"政界のプリンス"と異名を取る由緒正しきサラブレッド家系だな。明治の頃から代々続く政治家の家柄らしいから…しっかしプリンスってのは顕彦氏じゃなくて修のためにあるような言葉だったよなぁ実際…あ、あいつはプリンスってよりも"天使様"の方がお似合いか?ほんとそこいらの小学生より素直で無邪気で人を疑うってことを知らずに大きくなっちまったような奴だったからなぁ」
「そんな奴のどこが一体俺と似てるっていうんだよ。ったく嫌味かー?どうせ俺は婿養子と料亭の娘の子供だよ。"みてくれ天国、中身地獄"のジェットコースター野郎でJAROに訴えられて当然なんだよっ!」
「ギャハハッ!それ何?」
「学校のークラスメートの奴らの言葉…キレイなバラにはトゲがあるだの美味いフグには毒があるだの、人のこと好き勝手言いやがって…クソッ!!」
ふいに川田や菊池の顔が脳裏をよぎり、雪臣は思わず拳を握りしめたのだが。
「いやーでもな、人間っていうのは少しゃぁ毒を持ち合わせてないと生きていけないもんなんじゃないかなぁ?」
爆笑の余韻醒めやらず、涙を拭う隼人の言葉は、だが意外に真面目な返答だったので雪臣は無言でまじまじと見上げた。雪臣の訝しげな視線に気がついた隼人は、ニッコリと微笑を浮かべながら言葉を継ぐ。
「ー純粋な無邪気さっていうもんは悪意の塊と同じくらい時としてやっかいな代物になる…それを持つ人間にとっても、周りの奴らにとっても……な」
「……?」
「現に神保は3人の人間の生き方を変えちまったんだ。その"天使の如き無邪気さ"で、な」
「…3人…って?」
「恭四郎と自分とーたつ子だよ…あいつは神保の幼馴染で…恋人だったんだー」
「えっ?だってあの女、恭四郎のー」
恋人だったんじゃー予想もしなかった隼人の答えに思わず言葉を失い、雪臣は隼人に目で語りかけた。
「…うーん……」
ポリポリと頭を掻いた隼人はどう説明したらいいのか明らかに迷っている様子である。彼はダウンジャケットのポケットを探るとおもむろに赤と白のマールボロの箱を取り出した。
「ー吸っても、いい?」
「どうぞ」
反射的に答えた雪臣は軽く目を見張った。
日頃(と言ってもまだ数えるほどしか会ったことはないが)無礼な言動を起こしてばかりの隼人が相手の許可を得てから煙草を吸うとは意外な発見だった。
『これだけは恭四郎も見習うべきだな』
ヘビースモーカーである恭四郎は雪臣が煙草を吸おうとすると未成年だからとか体に負担がかかるからと言ってすぐに取り上げようとするくせに、自分が禁煙しようなどとは決して思っていないようであった。
ポンポンと膝の上で煙草の箱の底を叩き、1本だけ取り出した隼人は慣れた手つきでライターで火をつける。大きく煙草の煙を吸い込んだ彼はやがて雪臣の促すような視線に覚悟を決めたのか、マールボロを口から離すと宙に向かってフウーッと煙を吐いた。
「…結局…たつ子が心変わりしちまったんだな…ガキの頃からの延長で神保の側にいるためにライフル部のマネージャーとして入部したはずが、肝心の神保が今話したような子供子供した奴だろ?恋人も親友の区別もなしに始終3人で一緒だったからなぁ。普通の男だったら自分の女が他の男の目に触れるなんざ、いくら親友でも避けたいと思うはずだがな…だが神保はそうじゃなかったーそれが悲劇の始まりだったんだ」
隼人は一息にそこまで話すと一瞬息をついだ。
「たつ子は次第に神保のそんな態度について行けなくなったんだろう。そんな時、たつ子の目に映ったのは"神保の親友"だった恭四郎だったというわけー」
「わかった。じゃ結局、あの女が一方的に神保顕彦の弟の…修って奴をフッて恭四郎に迫ったってわけなんだな?強引に?一方的に?なるほどあの態度なら頷けるよな…」
1時間ほど前の恭四郎の部屋でのたつ子とのやり取りを思い出した雪臣が仏頂面で頷くのを隼人は手を上げて遮った。
「いや、それだけなら何も問題はなかったんだ。たつ子が一方的に恭四郎に入れ込んでるだけなら…だが恭四郎もー」
「あの女に魅かれたっていうのかー?」
無言で頷く隼人。雪臣の不機嫌さは今や絶好調に達していた。
「…恭四郎がためらいながらもたつ子に魅かれていくのは傍目で見てりゃ火を見るより明らかだった。深みにハマッて面倒なことにならなけりゃいいがってライフル部の連中はみんな言ってたんだ。実際先輩なんかは恭四郎を呼び出して何度か忠告してたらしいが、結局は火に油を注いじまったようなもんだったらしいな。ホラ、よく言うでしょ?"革命と恋は抑圧されればされるほど勢いづく"ってさ。そんなわけで俺達傍のもんはどうなることかとヒヤヒヤしながらあいつらを見守ってたんだが……」
「だが…?」
雪臣は隼人の言葉尻をとらえると促すように覗き込んだ。
「だけど、どういうわけだか肝心の神保の奴だけが恭四郎とたつ子の秘密に気づかなかったんだ。おトボケ野郎の本領発揮ってとこだな」
「…そんなことあるのか…とことん幸せな男だな?」
「ーそうでもないさ…」
呆れ返ったように眉をひそめる雪臣から視線を逸らした隼人は、ふいに吸いかけのマールボロを脇にあった灰皿にねじこんだ。
「俺が思うに、人の性格ってのはいろいろあるが…たとえば木の枝にたとえるとするとよくしなる柔らかい枝と真っ直ぐで固い枝ー雪が大量に降り積もったとしよう。同じ重みの雪だったとしてもよくしなる枝の方は折れるということはない。反対に、真っ直ぐな固い枝はすぐにボッキリといくよな?」
「うんー?」
「神保の場合、もろに後者だったのさー素直すぎるのも考えもんだぜ。もしそいつが裏切られたと知ったら受けるショックは普通の奴の比じゃない。ある程度の年になりゃ普通人間てのは裏切られたり裏切ったり、憎んだり憎まれたりとマイナスの感情に対する免疫も出来てるもんだが。そんな心の動きにゃまったく無縁だった天使様は、親友と恋人の二重の裏切りという猛毒にあたってー」
「どうしたんだ?」
「…大会を控えたある日の朝練中、自殺しちまいやがったのさ……死ぬ直前まで毛ほどもそんな素振りも見せずにニコニコしていたくせにーライフルが暴発して…即死だったー」
「自殺…」
"あトボケ野郎"と称された青年にはあまりにも似つかわしからぬその壮絶な末路に、雪臣は思わず息を飲んで呟いた。
「本当に自殺だったのか…だってそいつニコニコしてたんだろ?話を聞いてるとずいぶんとこう、トロ臭そうな奴だし銃が暴発したっていうのも案外ちょっとヨロけたか何かのはずみで……」
「そう思いたいのは山々だがな…」
隼人はムッツリとした表情で腕を組んだ。
「だがああ見えて神保の奴、顔に似合わぬ腕前の持ち主でな?さすが山梨のお坊ちゃま、ご幼少のみぎりからオヤジさんに連れられて自分ちの山で狩猟をしてたそうだ。イノシシなんかもいたっていうからな、高校の時なんかもインターハイでかなり上位までいったらしいし、つまり…」
「寝ボケてたって銃が扱えるほどの腕前だったってわけだ」
「ああ…部で使ってた銃には暴発を防ぐために毎回使用するごとに装填することになってたし、使い終わった後にはその日の当番が弾が中の中に残ってたりしないかを必ず厳重にチェックしていた。仮に百歩譲って銃の中に弾が残っていたにしても、銃の暴発止めが外れていたっていうのをどう考えたって神保みたいな玄人が見過ごすわけがない」
「暴発止めが…外れてた?」
「ああ。な、ここまできたらお嬢だって納得できるだろ?それにー神保の場合は決定的に裏切りの瞬間を見ちまったわけだから…」
「何なんだ、さっきから」
隼人の言葉にピクリと眉を動かして雪臣が苛立たしげな口調で遮った。
「裏切った、裏切ったって。実際に神保って奴をフッたのはたつ子だったんだろ?恭四郎はためらいながらも魅かれてただけじゃないか。想うくらい勝手だろう。そんなことぐらいで裏切者にされてあてつけに自殺されたんじゃ恭四郎もとんだ奴らに見込まれたもんだな」
語気荒く睨みつける雪臣を見つめて隼人は小さく溜息をついた。
「違うーお嬢、全然わかってない…」
「何が違うってんだっっ!」
「…俺は決定的にって言ったのよ?ドン臭い神保だからこそ、恭四郎がたつ子に魅かれてるってことだけじゃ裏切られたなんて思うはずないでしょーが。大体そんな鋭い思考が働く人間だったらそう察した時点で恭四郎の前からたつ子を隠すよ、普通ー当然"おトボケ野郎"の異名もついてないと思うね、俺はー奴は見ちまったんだよ…恭四郎とたつ子がーそう、この間の伊達の創立パーティーでちょうどあんたと伊達の娘っこが繰り広げてたようなキスシーンを演じてる所を、ね」
「俺と綾さんが…あ?」
小首を傾げていた雪臣はやがて思い当たる節があったらしい。自分でやっていた事の割には恭四郎に当てはめるとたちまち不機嫌になる雪臣に隼人はそっと苦笑した。
「ーあの日、神保は何か実家の方で用事があるとかで兄貴に呼び出されてて部活を休んだんだ、珍しくな。ところが部活が終わった頃、ふいに姿を現した奴とバッタリクラブハウスの廊下で出くわして…俺とあと2、3人ぐらいの奴らがその日の後片付けの当番だったんだが……"どうしたんだ"って声かけたらあいつ"思ったより用事が早く済んだからたつ子や恭四郎を誘ってご飯でも食べようと思って。恭四郎達まだ残ってる?"とか言いながら人の話もろくすっぽ聞かないでガキんちょみたいにヘラヘラと駆け出しながらいきなり部室の扉を開けたんだ。"たつ子、いるー?"ってな。そしたらー」
「…恭四郎とーあの女がいたって…わけだ…」
「ああ…」
隼人は、彼にしては珍しくぼんやりと遠い目をして呟いた。
「…あの時の神保の表情が忘れられないーたぶん一生忘れられないだろう…慌てて部室に駆け込んだ俺達の目に入ってきたのはー呆然と抱き合ってる恭四郎とたつ子、それからポカンと口を開けた神保ーそれが見る間にいたずらが見つかって怒られるんじゃないかって脅えてる子供みたいに、ギュッと固く目を閉じて口を引き結んだ表情に変わって…あいつらの事情を知らない人間があの場に居合わせたらきっと、神保の方に非があるに違いないって誤解をするようなー申し訳なさそうに身をすくめて部屋の入口で縮こまってた…予想外の反応をされて恭四郎や俺達が動けずにいたらあいつー」
隼人はふと言葉を途切らせ、目を閉じた。あの日の出来事が昨日のことのようにまざと蘇った。
☆
「…あ…あの…僕ー一緒にご飯食べよーかなんて思ったもんだから……あっ、で、でもいいやっ!用事があったんだっ!じゃ、また…ね…」
「ー修っ!」
「待って、修!!」
「おいっ、待てよ、神保ー」
修の言葉がまるで呪文の解ける合図だったかのように我に返った恭四郎やたつ子、隼人の声が口々に修を引き止めた。その声に絡め取られるように修はよろめき、立ち止まる。恐る恐る振り向いた彼の顔には、困惑と痛々しい笑みが入り交ざった複雑な表情が浮かんでいた。
「……ぼっ、僕ーその…何も見ちゃあいないからっっ!!たつ子と恭四郎がーあっ、コ゚ッ、ゴメンね!!」
自身の言葉に絶句した神保はオロオロと視線を彷徨わせたかと思うと追い詰められたうさぎのように廊下へ飛び出した。
「修ッー!!」
慌てて追いかけようと駆け出した恭四郎の肩を、隼人はむんずと掴んだ。
「何するんだ!離せっ、隼人ー」
よほど動揺しているのだろう。常に冷静沈着だという評判の恭四郎が荒々しくその手を振り払った。
「馬鹿、お前が追いかけて行ったら神保の奴、余計に動揺しまくるだろうが?神保は俺達が捕まえるからーお前とたつ子はとりあえず帰れ」
「だがっ…!」
「その方がいいんだよ。連れ戻してまたお前らとハチ合わせでもしたら余計に神保を刺激すんだろ」
「……」
黙り込む恭四郎。ふうとため息をついた隼人は窓際で顔を覆って肩を震わせているたつ子を見遣ると、その場に居た後輩達を急かし立てて神保を追わせた。
「ーとにかく、神保を見つけ出すのは俺達がやるから…その後はお前ら3人で何とかしろ。いつかはこういうことになるのはわかってたはずなんだからなー」
部室を出て行きざま、わずかに顔を傾けた隼人は、罪人を裁く裁判官のように重々しい言葉を残して立ち去ったのだった。
☆
「その後、何とか神保を見つけ出した時には奴もだいぶ落ち着いたように見えてたんだが……」
クシャリと自分の前髪を掴み、隼人は唇を噛んだ。
「そうじゃなかったんだ、あれはーあの頃は俺もまだまだ甘ちゃんでな…ショックで抜け殻になってた神保の態度を読み誤ったんだよ。今だったらあの晩あいつを1人にするなんてこと絶対にしやしなかったのにー」
「ーあんたらしくないよ」
自らの思い出に埋没しかけていた隼人は、ふいに冷たいほど素っ気ない声で我に返った。目の前で頬杖をついた雪臣がじっと隼人を見つめている。
「過ぎちまったことをクヨクヨ悩むなんて…あんたはいつだって自信満々でハッタリかましながら前しか見ないで生きてるじゃないか」
「…俺はイノシシか…」
心外そうに頰を膨らませかけた隼人はだがすぐに気を取り直して苦笑いする。
「でもま、確かにそうだ…ウジウジ悩むのは俺の性じゃあない」
「ーだろ?」
「ああ」
片目をつぶってみせた雪臣に隼人は感謝の気持を込めて軽く頷いた。雪臣はさり気なく気を使ってくれたのだ。過去を思い出して憂鬱な気分に引きずり込まれそうになっていた自分に。
普段、勝気で生意気な口ばかりきいているように見える雪臣だが複雑な家庭環境に育ったせいか他人の心の機微はかなり敏感に察知する。人見知りが激しいために素直に優しさを表すことは滅多にないがよくよく注意して見ていると、この年頃にしては随分と他人に気を遣うことを心得ている少年であった。
『だもん、恭四郎みたいに心に傷を負った奴が居心地よくて救いを求めちまうって気持はよくわかるよなぁー』
もちろん心の機微に通じているということはいい意味ばかりではない。逆に言えば何を言ったら相手に打撃を与えることができるかを承知しているということであるから、見かけによらず繊細な恭四郎はその生殺与奪権を自分より8つも年下の雪臣に握られてるのも同然ということでー。
「…隼人、続きはー?」
心の裏側にある気遣いなど微塵も感じさせない小生意気な口調で雪臣に話を促され、隼人はハッとして我に返った。
「ーそして神保は死んだー遺書はなかったらしいし、代議士一家にスキャンダルはご法度だとばかりに、奴の遺体は親戚連中がサッサと引き取って行っちまったけど……」
再び言葉を切った隼人は雪臣の反応を伺いながら注意深く話を切り出した。
「…偶然にしちゃ出来すぎてると思わないか?やっぱり事故って言うより自殺の線の方が濃いだろうが?」
「う…んー」
形の良い顎を小突きながら雪臣は口をへの字に曲げて唸った。
「まぁ真相はともかくとして神保が死んじまったのは事実だ。大学じゃあの後エラい騒ぎになっちまってな…残された恭四郎とたつ子はそりゃもう極悪人扱いもいいところだったよ。神保さえ死ななけりゃどこにでも転がってるような安っぽい三角関係ってだけの話だったんだけどなー噂が噂を呼ぶうちに、たつ子も恭四郎も耐えられなくなったんだろう。大学に出てこなくなったーそうこうするうちにたつ子は退学して単身渡米しちまったし、恭四郎は恭四郎で少しノイローゼ気味だったんだろうな。病院通いとバイトに精を出し始めて卒業まで数えるほどしか大学には顔を出さなかったー」
『3年前っていうと…ちょうど恭四郎が父様の秘書見習いになった頃かー』
雪臣はそれほど遠くないはずなのに、遥か昔のことのように霞がかった過去の記憶を手繰り寄せるように思い浮かべた。
3年前ー15才だった雪臣自身も当時は混乱の真っ只中にいた。父が再婚した相手ーつまりこの間出て行った松平夫人との折り合いがどうにも悪く、高校からは自宅を出て学校の寮暮らしか1人暮らしがどうしてもしたいと桂之介に直談判していたのである。
だが桂之介は目に入れても痛くない愛息子を手放すなどガンとして首を立てには振らなかった。まだ心臓病にはなっていなかったものの、生まれつき体の弱い雪臣に寮生活は無理だだの、1人暮らしなどして寝込み、誰も知らないうちに冷たくなって死んでいたらどうするのだだのと、わかったようなわからないような最もらしい難癖をつけて雪臣の要求をはなから聞き入れようとはしなかった。そのあまりにも身勝手な親のエゴを振りかざす桂之介に反抗するために、雪臣は一時期いわゆるグレかけたことがあった。
煙草は今でこそ吸わないが酒の味を覚えたのも夜の街を徘徊していた中学3年の頃である。そしてーこれは桂之介の知らないことであったがー何を隠そう、雪臣が恭四郎と初めて出会ったのも夜の盛場でのことだった。警察に補導されそうになった雪臣を、偶然に通りかかった恭四郎がひょんなことから助ける羽目になったのである。
しかしー雪臣は未だに恭四郎をイビる時のネタとして引き合いに出すのだがー当時の恭四郎は恐ろしく冷めた男で、自分のすぐそばで不良少年達に刺されそうになっていた雪臣を見ても何の感慨も見せず平然と通り過ぎようとしたくらいである。恐らくあのまま巻き込まれなければ雪臣が血まみれになって息絶えようと見向きもしなかったに違いない。
その後、一緒に暮らすようになって献身的に看病してくれた時の恭四郎の優しさと最初出会った時の冷酷さーこのギャップはいったいどこから来るのか、どちらが本当の恭四郎なのかー?隼人の話を聞いて、雪臣は長い間の疑問がほんの少し解けたような気がした。
「だけどもし本当に自殺したんだとしたらー」
雪臣は呆れたように隼人を見た。
「……ほんとガキだよなぁ…神保修って奴はーじゃなきゃよっぽどの知能犯だ。残された奴らが後でどんな扱いを受けるか、ちょっと考えりゃわかりそうなもんだけど?ま、恭四郎はともかく、付き合ってた女によくそんな真似できるよな?そいつってほんとにたつ子のこと好きだったの?」
ズバリ言い切られた隼人はう〜んと苦しげに眉根を寄せて首を捻った。
「…そう言われちまうと、な…まぁたつ子の気持もわからないでもないよ。だがよりにもよってその関心を向けた先が神保の一番身近に居た恭四郎だったってのが悪かった。よりにもよって、なぁー?」




