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玻璃の静謀ー赦し5

5️⃣

758ー落ち着いたダークブラウンのオーク材のドアに付いている金色の部屋番号を見上げながら雪臣は小さなため息をついた。自室の向かい側、恭四郎の部屋の前である。

たつ子を伴った喜徳との会食の間、雪臣は必要最低限のことしか恭四郎と言葉を交わさなかった。一方の恭四郎は元々寡黙な性質も手伝ってほとんど言葉を発さない。たつ子も会食はビジネスの場と割り切っているのか、必要以上に恭四郎に話しかけたり纏わりつく様子も見せなかったが、5人の間に流れた気まずい雰囲気の中では喜徳のジョークを交えたウェットに富んだ会話や、それに応じる綾の気の利いた相槌、華やかな笑い声は妙に浮いたものとなった。年がら年中食欲のない雪臣ではあるが、今晩は精神的なものも手伝ってか吐き気さえ覚える。むかつく胃の辺りをこらえながら、彼はやっとの思いでフォアグラのパイ包みを飲み込んだのだった。そんな拷問にも等しい夕食会の後のひとときー。

気を取り直した雪臣は形の良い唇の端をキュッと噛みしめると、意を決してノックするために片手を上げたーが。

『あれー?』

ノブに触れようとした手がピタリと止まる。ドアは薄く開いていた。

「…恭四郎ー?」

閉めたつもりが半ドアだったのか、内側からはチェーンもかかっていなかった。日頃慎重な恭四郎にしてはかなり珍しい。

不審に思いながらも雪臣は、その隙間からスルリと小柄な身を滑り込ませた。

後援会が用意してくれたホテルの部屋はゆうに20畳分ほどの広さがあった。今回は桂之介本人のお国入りではないし、目的も喜徳と雪臣の顔合わせという私的な事柄である。あくまでも忍びで行動するつもりで半ば奇襲に近いような形を取り、後援会を訪ねた恭四郎だったのだが、相手は何ぶん地方の後援会会長。名士と仰がれ四方にゴリ押しの効く人脈を持つらしい。

ホテルの上層部に手を回し、雪臣達が会食をしている間に普通の部屋から最上階の部屋に荷物を移させてしまったのである。

勝手なことをするな!と不機嫌であった雪臣は益々不機嫌になったが、後援会会長の機嫌を損ねる訳にはいかないとー例えそれが一方的で強引な親切であってもー恭四郎に説き伏せられて渋々ながら最上階へと移ったのだった。

スウィートではないものの(ホテル側は最初どうやらスウィートルームを用意したらしいが、さすがにこれは恭四郎が固辞したらしい。特別扱いを嫌い抜く雪臣がキレることを心配したのである)床にはアラバスターのランプが柔らかな光を放っていた。だが恭四郎の姿がない。

『風呂にでも入ってんのかな…?』

雪臣が小首を傾げたその時ーカタンと左手の部屋から物音が聞こえた。かすかな音だったが雪臣は聞き逃さなかった。

一見した所、この部屋の作りは向かいの雪臣の部屋と同じである。

たとえ秘書とはいえ、桂之介の後継者(と周りは見ている)である雪臣の保護者代理人である但馬恭四郎に対する後援会の待遇は万事抜かりがないようだった。ともあれ、左手の部屋には確かダイニングセットとちょっとしたカウンターバーが備え付けられていたはずだ。

『あいつ酒でも飲んでるのかー』

"俺がこんなに後味の悪い思いをしてるっていうのに、呑気に酒なんぞかっ喰らいやがってー!!"

思わず拳を握りしめた雪臣は、だが我に返るとグッと苛立ちを飲み込んだ。

いけない。自分は恭四郎に喧嘩を売りに来たわけじゃないんだったー。自らに言い聞かせながら雪臣は精一杯さりげなさを装ってカウンターバーのあるフロアへ足を踏み入れた。が、胸の奥がむず痒くて目の前に居るはずの恭四郎の顔が面と向かって見ることができずに俯いたままである。

「ー恭四郎…昼間は…悪かったよー俺、言い過ぎた。でもー」

自分の本心を語るということはこんなに大変なことだったっけ?どうでもいいような社交辞令だったら寝言でだってペラペラと喋れるのにー自分のものとは思えないような小さくかすれた声を聞きながら、雪臣は言葉を継ぐ。

「でもお前も悪いんだぜ。親友だか何だか知らないけどあんな女につけ込まれるような隙を作るからー」

「雪臣様…」

愚痴を言ううちにいつもの調子を取り戻した雪臣がふと顔を上げたのと、恭四郎が口を開いたのはほぼ同時であった。が、次の瞬間相手の目を見た彼らは互いに返す言葉を失った。

「ー!?」

「……」

恭四郎はカウンターではなく1人用のソファに腰掛けていた。眼の前のテーブルには恐らく東京から送られてきたのだろう、おびただしい枚数のFAX用紙と桂之介の書斎や議員会館にある端末に直結しているというノートパソコンが乗っている。さすがに1日の仕事を終えたプライベートな時間なのでネクタイを緩めYシャツの袖はまくり上げていたが。

だが雪臣が驚いたのは恭四郎のこんな格好のせいではなかった。3年間も同居しているのだ。いくら絵に描いたような隙のない美男と言われる恭四郎でも自宅に帰ってくればネクタイのひとつも緩めはする。こんな格好は雪臣にとって見慣れた日常の一部でしかない。雪臣が言葉を失ったのは、その時ちょうど誰も居ないと思っていたカウンターバーの向こうから姿を現したたつ子のせいだった。

「こんばんは、雪臣様ーふふ"あんな女"が大事な秘書の部屋に居たことが心底意外というお顔をなさっていらっしゃるのね」

「……」

プイと顔を背けた雪臣を庇うように、恭四郎はソファから立ち上がった。

「よさないか、たつ子!」

「あらどうして?」

大きくウェーブのかかった髪が揺れた途端、たつ子のつけている香水が漂った。オリエンタル系の、甘くきつい香りに雪臣はむかつく胃を押さえた。

「雪臣様とはこれから長い仕事上のお付き合いがあるのですもの。ぜひお近づきになりたいわ」

「悪いけどー」

クスクス笑うたつ子から頑なに視線を逸らして雪臣は呟いた。

「ちょっと明日の仕事の打ち合わせをしたいんだ。席外してもらいたいんだけど、おばさん?」

さっきまで蚊の鳴くような声で喋っていたのが嘘のようだ。やっぱり人間慣れないことなんてするもんじゃない。取り戻した調子に雪臣は内心大きく頷いた。

ピクリとたつ子の眉が上がる。どうやらこの松平家の御曹司は見かけほど柔な性格ではないらしい。

「あら…それは失礼いたしましたわ、気がつきもせず。でもー」

持っていた盆をテーブルに置いて、たつ子はふと左手首の腕時計を見、雪臣の顔を見遣った。

「もう11時半ですわ。そろそろお子様の時間は終わりなのじゃございませんこと?あまりご無理をなさるとお熱が出てしまわれましてよー」

「立場をわきまえろ、たつ子!!」

とうとう恭四郎が怒鳴った。が、それを聞いて驚いたのはむしろ雪臣の方だった。

恭四郎が本気で怒っている姿を見るのは珍しい。いや、正確には"怒鳴る"というような行為が珍しいというべきか?しかも相手は底意地が悪そうとはいえ一応女性である。普段の恭四郎であれば女性に対してこんな物言いをすることは絶対にない。そこが議員会館に詰める女性秘書達や女子職員達に言わせると"スマートでフェミニストな憧れの但馬さん"という評価に繋がるらしいが…しかし雪臣に言わせれば恭四郎は女性に優しいのではなく、本気で相手にしていないだけにしか見えないのであるが…。その点、たつ子は少なくとも恭四郎にとってその存在を認めさせる数少ない女性の1人であることには間違いないようだった。

「まぁ…ごめんなさいー」

だが怒鳴られた当人であるたつ子はまったく意に介していないようだった。一応謝ったものの、そのアーモンド形のくっきりとした瞳には紛れもない悪意が満ちていた。

「あんまり華奢で可愛らしい方なので…ついおせっかいを焼いてしまいましたわ。おばさんの戯言と聞き逃して下さいませね」

「ー」

雪臣は何も言わない。ただ黙ってこの上もなくきつい眼差しでたつ子を睨みつけていた。

「たつ子、出て行ってくれー俺は雪臣様と打ち合わせがある…」

「ああ、そうだわ。雪臣様、コーヒーはいかが?たった今淹れたところですのよ。それともホットミルクになさる?」

「人を呼ぶぞ、たつ子ー!」

恭四郎の声など聞こえもしなかったように振る舞うたつ子をじっと睨んでいた雪臣は、だが彼女が盆から取り上げたソーサーから立ち昇るコーヒーの香りにふと表情を崩した。

「…これ…ブルーマウンテン…」

「あらご存知?」

たつ子は大げさに驚いて見せ、意味ありげに恭四郎を振り返った。

「ーこの人が好きだったものですから…朝と夜しか飲まないのですけど学生時代からの習慣でしたわ。ねぇ?」

「……」

同意を求められた恭四郎は否とも応とも答えずに眼の前のたつ子を見ていた。憎悪とも困惑ともつかない複雑な表情だった。

『この女、恭四郎の朝晩の習慣を知ってる…?』

恭四郎は自分の信条や習慣などをベラベラと口に出すような男ではない。ということは、実際彼の側に居て四六時中見ている者にしか彼の習慣はわからないのである。ブルーマウンテンのブラックを飲むという習慣は特に朝晩だけに限られることだからそれを知っているというこの女は確かにただの知り合いではないようだ。

『朝晩の習慣を知ってる女っていうのはつまり、朝起きた時から一緒に居て夜は寝るまで一緒に居るってことで…つまりー!?』

事の意味を理解した雪臣の、透けるように白い眉間に皺が寄った。にわかには信じ難く、念を押すような顔つきで雪臣はそっと恭四郎を見上げたのであるが…。

「ー!?」

恭四郎と目が合う前に雪臣の視界に飛び込んできたのは恭四郎の背後に立つたつ子の姿だった。勝ち誇ったような笑みを浮かべてこちらを見ている。その表情を見た途端、雪臣の中で何かが弾けた。

「ー俺、帰るー」

クルリと踵を返した雪臣の折れそうに細い腕を、恭四郎は反射的に立ち上がって追いかけ、力一杯握りしめた。

「雪臣さー」

「…具合悪いから部屋に戻って寝るッ!!離せよッ、お前なんか大人の話でも何でもしてやがれっっ!!」

いくら小柄で華奢とはいえ、全身全霊で振り払われてはさすがの恭四郎も雪臣を手放さざるを得なかった。

バターン!!

物凄い音を立てて恭四郎の鼻先でドアが閉まる。その後にはパタパタというこんな時さえ悲しいほどかすかな雪臣の走る足音。続いてすぐにもう一度、今度は少しくぐもった音でやはりドアを力任せに閉める音が聞こえた。恐らくすぐ向かいの自分の部屋に帰ったのだろう。耳を澄まして聞いていた恭四郎は雪臣を追いかけようとしてすぐにドアのノブに手を伸ばしたのだがー。

「行かないでッ!!」

鋭い声と共に恭四郎の前に黒い影が飛び込んできた。

たつ子である。先程までの笑みはどこへやら、思い詰めた目をしている。ウェルカムフルーツの脇から取ったのか、手には剥き身のナイフを握りしめていた。

「たつ子…」

恭四郎はわずかに眉根を寄せた。

「…あなたがこの部屋から一歩でも出たら私、死ぬわよー」

「何、バカなことを言っているんだ、お前ー」

恭四郎は軽くたつ子を交わそうとしたが彼女は強引に恭四郎の前に回り込み、自らの喉元にフルーツナイフを突きつけた。

「本気よ、私ー私が死んだら困るのはあなたの方じゃないの、恭四郎?秘書のスキャンダルは政治家の先生にとっては命取りなんでしょう。ましてやこの会津若松は松平氏のお膝元だものー日本の選挙制度は地元の信頼の厚さが土台ですものね。それに何よりあなたにとって一番恐いのはー」

たつ子は視線で押さえつけるようにその眼差しを恭四郎から離さない。

「あのお坊ちゃまのご機嫌を損ねること…そうなんでしょ!どうしたの!あなた変わっちゃったわ、恭四郎!!あの頃はこんなじゃなかった……私のことまったく知らない人間でも見るような冷たい目で眺めて…忘れたの?私達あんなに愛ー」

ふいに抱きついてきたたつ子からフワリと香水の香りが立ち上がる。その匂いに絡め取られそうになった恭四郎は、たつ子のうなじから視線を逸らしながら言葉を遮った。

「もうやめろ、たつ子ーお前が傷つくだけだ…」

たつ子の肩に手をかけると無理矢理その手に握られていたナイフを奪い取った。

「俺達はもう終わったんだ、4年前に修が死んだ時にー」

ピクリとたつ子の表情が動く。それには気づかないふりをして恭四郎は言葉を続けた。

「お前が本当に愛し、必要としていたのは俺ではなく修の方だった…あいつに死なれて初めて気がついたからこそ、お前は卒業も待たずアメリカに留学してしまったんだろう。そうじゃないのか?互いに本当に愛し合っていれば、たとえ修が死んだとしても俺達は離れることはなかっただろう。むしろ2人でそれを乗り越えようとしていたはずだ。あの頃の俺達は互いの顔を見れば修の影に脅えてーあいつを死なせた罪の意識から逃れたいために次第に互いが疎ましく思うだけの存在になって堪えきれず…別れたんだー」

「ー」

たつ子の顔が見る間に"無表情"という仮面に覆われていく。反応の無さを気にする風でもなく、恭四郎の言葉は独白めいてなおも続いた。

「たつ子ーお前は自分が思っているよりはずいぶん純粋な女だ。純粋で激しいお前が、本当に愛しているわけでもない俺の為に死ねるとは思わない…自分が納得しないものには妥協できない頑固さが、お前と俺はよく似てるからーたぶんお前が俺に対して感じる気持は親近感以外の何物でもないはずだ、違うか?」

食い入るような真剣な眼差しを向ける恭四郎を見上げて、たつ子はまったく別な言葉を口にした。まるで全然恭四郎の言葉など聞いていなかったかのように遠い目をして。

「ーあの頃は…よかったわね、恭四郎ー修が居て恭四郎が居て私が居て……しょっ中つるんで早稲田通りの居酒屋や古本屋に入り浸ってた…よく3人で国際法律学のいけ好かない教授をやり込めたじゃない?立て続けに質問を浴びせかけて…私とあなたはいつも、納得がいくまで徹底的に教授をやり込めたけど、修はなぜか途中でいいですって引いちゃうのよね。1度どうしてなのって聞いたら、逃げ場が失くなっちゃった教授があんまりオロオロしててかわいそうだったからなんて言ってたのよ。詰めが甘いのね。最後までそうだった…裏切り者って責めることさえなかった。皆自分で背負い込んで…一言も残してはくれなかった…あなたは修とは反対ね。興味のない相手はきっぱりと撥ねつけるもの。勝手と言えば勝手だけど思わせぶりな態度で相手を傷つけることはしないー修の優しい意地悪さとあなたの意地悪な優しさーどちらが好きだったのかしらね、私…」

「……」

スルリと恭四郎の腕から滑り抜けたたつ子は、テーブルの上に置いてあった琥珀色のカクテルグラスを手にすると窓辺に近づいた。四方を山に囲まれた会津盆地の夜景は、まるで黒ビロードの宝石箱に無数のダイヤモンドを散りばめたような豪華さであった。この上もなく贅沢な夜景をバックに振り返ったたつ子は艶然と微笑み杯を掲げる。

「まだ夜は長いわ。答えを出すまでの間くらい私と一緒に居てくれてもいいでしょう、恭四郎」

『とりあえず雪臣様は自室に戻られたようだしーたつ子を帰してから覗きに行くことにするか…』

チラリとドアの方を見遣った恭四郎は大きなため息をひとつつくと、緩めていたネクタイを締め直しながらソファへと向かった。


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