玻璃の静謀ー赦し3
3️⃣
カランと透明な音を立ててグラスの中の氷が崩れた。
ホテル1階のラウンジ。地元の後援会会長に挨拶に行った恭四郎を見送った雪臣と綾は、一ツ橋との約束の時間までここで時間をつぶそうという話になったのだった。
「どうしたの、雪臣ちゃんー疲れた…?」
向かいに座ってストローで氷をつついていた綾が、ふと手を止めて口を開く。
「あ…いやー」
「…ごめんね。私が電車で来たいって言ったから、雪臣ちゃんに無理させたわねー悪い……」
いつになく殊勝な綾の言葉に、雪臣は軽く目を見張りながら椅子から身を乗り出した。
「違うってばーどうしたのさ、綾さん?急に…らしくないよ」
「らしくない…ってどういうことよ?」
「い、いやぁ……あ、綾さんケーキ食べない?」
わざとらしく話を逸らした雪臣をジロリと見た綾は、しかしそれ以上の追求をしようとはしなかった。何か言おうと口を開きかけたものの、ふいに唇を噛みしめる。
「ー悔しいけど但馬の言い分にも一理あるな、と思って…松平の小父様の用で会津に来たんでしょ?雪臣ちゃんてば少々具合が悪くたって絶対我慢しちゃうからねー私忘れてたわ、あんたのその性格…」
自己嫌悪のためか仏頂面になった綾を見つめ返して雪臣は花のように微笑んだ。
「なんだ…そんなことー」
「なんだ、とは何よッ!」
「恭四郎が言ったことを気にしてるんなら、そんな必要全然ないんだからね、綾さん…今あいつちょっときちゃっってんだよ。親父の秘書なのに、今回のこと全然知らされてなかったもんで」
「雪臣ちゃんのため息もひょっとしてそのせいなの?」
「うん……」
雪臣は頷きながら片手で頬杖をつく。その脳裏には数十分前の恭四郎との会話がよぎっていた。
"後援会への挨拶ぅ?"
"ええ、地元にまで来て知らんぷりするわけにはいきませんから"
"ーそれ…俺も行かなけりゃダメ?"
ベットの上に持ってきた数本のネクタイを並べていた恭四郎は、その中の1本を手にしながら、上目遣いに尋ねた雪臣を振り返った。その視線を受け止めた雪臣はきまり悪げに慌てて口を開いた。
"つ、疲れたんだよ。家出てから全然休んでないし…一ツ橋が到着したら夜まで予定がビッシリなんだろ?"
知らず知らずぶっきらぼうな口調になる雪臣。実際の所、疲労の方は大したことはなかった。ただ彼はこれから一ツ橋喜徳に使わなければならない愛想を他に放出したくなかったのである。そんな雪臣の本心を知ってか知らずか恭四郎はしばし無表情に雪臣を見つめていたが、やがてポツリと呟いた。
"わかりました…日新会の方は私ひとりで充分ですから。あなたはゆっくり休んでいて下さい。先生のことだ、きっと何かお考えがあるんでしょうが、それにしても今のあなたに旅に出ろというのは酷な話なんですー熱は…だるくはありませんか?"
"だっ、大丈夫だよッ!"
額に伸びてきた恭四郎の手を交わして雪臣はそっぽを向いた。恭四郎の心配げな眼差しは、なぜか雪臣を戸惑わせる。雪臣にこんな気持を抱かせるのは、恭四郎と父親しかいなかった。
「人間ってさ、やっぱ信じてる奴には隠し事してもらいたくないよね。恭四郎はー俺もだけど、その点では親父のこと信じてるから…ま、政治家なんて因果な商売だからさ。敵を欺くにはまず味方からって言うしねー俺は政治家なんてやってもやらなくてもどっちでもいいんだけど…」
雪臣の朱唇にかすかに浮かんでいた自嘲的な笑みが影を潜める。
「ーでも恭四郎はそういうわけにはいかないだろ?あいつは政界で生きるために秘書になったんだから…俺が松平の後継者になれないってことは、あいつの未来を閉ざしちまうことなんだもん。一ツ橋に負けるわけにはいかないんだよ」
「あっきれたー」
黒い髪をサラリと揺らしながら綾は肩をすくめた。
「あんたの人生、但馬のためにあるんじゃないのよ、雪臣ちゃん。あんたボランティアで一生終えるつもり?」
「恭四郎は俺が心臓病で倒れた時、面倒見てくれたからさ。病人の看護っていうのは立派なボランティアだよ。あいつが親父に俺の面倒を見ろって言われた時はそんな条件入ってなかったしね。あの時点で見捨てられても文句は言えなかった…」
「だってそれこそ但馬にとっちゃチャンスだったんじゃないのッ。雪臣ちゃんと松平に恩を売って自分の出世の足がかりにするー」
「恭四郎がそんなこと出来るほど器用な奴じゃないってことは綾さんだってよく知ってるくせに」
クスリと笑った雪臣。その自信ありげな態度に綾は思わず言葉を詰まらせた。
「恭四郎がそんな奴だったらとっくに追い出してるよ。これでも人を見る目は自信があるんだからーそうじゃなくて…」
椅子に背をもたれかけながら、雪臣は目を伏せた。
「恭四郎がいなきゃ俺、あの時に成城の家に連れ戻されてたからね…感謝してるんだ、これでもーそんなこと言うとあいつ、得意になって説教始めそうだから言ったことはないんだけど……」
「ー」
「だからさ、あいつのこと許してやってよ。俺に免じて…ね、綾さん?」
極上の笑みを向けられた綾の機嫌は、だが一層悪くなった。濃く形の良い眉が跳ね上がったのと同時に、その手が伸びて雪臣の顔を弄ぶ。
「あ、綾さん…てば…」
舌こそ出さないものの、目の下を押さえられて"アッカンベー"の目になった雪臣は気まぐれな婚約者について行けず、絶句する。口をへの字に引き結んだ綾は喧嘩腰に睨み返した。
「雪臣ちゃんてば、やーらしいっっ!」
「え…やらしいー?何が…?」
「私、今まで仕事にかこつけて雪臣ちゃんの後ばかり追い回してる但馬だけがヘンタイだとばっかり思ってたのにそうじゃなかったのね、まさか雪臣ちゃんにもその気があったなんてっっ!」
「へっ?その気ー?」
「ホモッ気!」
「ーえ…?」
衝撃に続く衝撃に、雪臣は思わず心臓を押さえた。だが発作を起こしている場合ではない。一刻も早くこの冗談にしてもおぞましい誤解を解かなければー。
「あ、あのね綾さん、何でそうなるのさっ!」
「しらばっくれたってムダよ!仮にもフィアンセの前でよくもそこまで他の人間とのノロケ話を言えたもんだわ」
「ノロケーって…あいつは男だよ…」
「だからホモだって言ってんでしょっっ!いくらドラマや世間では認められてるからって…」
わめく綾を目の前に、雪臣は頭を抱えこんだ。
「ー綾さん…それゴシップ記者の前で言うのはやめた方がいいと思うよ」
「何でよっ、やっぱり後ろめたいからなんでしょ!」
「いや…多様性が叫ばれる昨今だし、信用されてもされなくても綾さんが笑いものになるからー」
雪臣は終わりまで言葉を続けることができなかった。綾の手が頬をめがけて迫ってきたのである。
しかし、それを軽く交わした雪臣は逆に綾の手首を掴んで自分の方に引き寄せ唇を重ねたのだった。いくら小柄とはいえそうすると綾の体は雪臣の腕の中にすっぽりと収まった。
「ゆ…雪臣ちゃん…たらー」
突然のキスに、腕の中でもがく綾。腕の力を緩めた雪臣は彼女の耳許にゆっくりと囁いた。
「ゲイの男が女性にこんな風にキスすると思う、綾さんー?」
しばしの沈黙ーふいに綾が吹き出した。
「あ〜もうわかったわよ。こんな長いキスしてたら心臓に空気がいかなくなって発作が起きちゃうわよ、雪臣ちゃん」
ペチペチと顔を叩かれた雪臣はふと見せた妖しい表情を消して頬を膨らませる。
「ー俺、綾さんのことだって大事に思ってるよ?フィアンセだからね…恭四郎とは別次元なんだよ。わかってくれないかな〜?」
もどかしげに言葉を探している雪臣を見て、綾は少し機嫌を直した。
「なんか、丸め込まれたような気もするけど……許してあげるわ」
綾は微笑を浮かべながら雪臣の頭を抱き寄せて再びキスをした。
長く、優しく、甘いキスー雪臣の手が綾の背中に回ろうとした瞬間ー。
パチパチという大きな拍手の音と共に、背後から声がかけられたのだった。
「やぁ、これはごちそうさまー一瞬アメリカにいるのかと思っちまった…」
素早く綾から離れて振り返った雪臣。その視線の先にいたのはーアメリカ軍将校を彷彿とさせるような短く刈り上げたクルーカットの髪、紺ブレザーとストライプのシャツ、白リネンのパンツという出で立ちの青年だった。背がえらく高い。
恭四郎よりありそうだ。190cmは固いだろう。
「綾さんー仕組んだね?」
呟いた雪臣の首に両腕を回した綾は、彼を見上げて不敵な笑みを浮かべた。
「あんたの背後には伊達銀行がついてるってことを教えてやるのよ」
雪臣の肩越しに挑戦的な眼差しを投げつけた綾。そして警戒の色を浮かべた雪臣に、悪びれもせず青年は言葉を繋げた。
「ー雪臣君、だろ…?初めまして」
「あんた、誰?」
差し出された手を握り返しもせず、雪臣は冷ややかに問うた。相手が誰かは聞かなくてもわかっている。にもかかわらずしらばっくれて雪臣は問い返した。自分の名を名乗らない相手にわざわざ答える必要はない。
「あっーこれは失敬、失敬…僕は一ツ橋喜徳。今日、君とここで待ち合わせをしている本物だ。遠い所をご足労いただき感謝している。僕が松平氏…義父上にご無理を言って君に会津を案内してもらえるようお願いしたんだ。一日でも早く仲良くなれるようにね。迷惑だったかな義弟君?」
「別に…迷惑とか迷惑じゃないとかの問題じゃない。親父に言われたから来ただけだ」
「ちょっと、雪臣ちゃん…」
内面はどうであれ、とりあえず相手の出方がはっきりするまでは自分の感情は表に出さない。普段なら息をするより容易くこれをこなせる雪臣のはずだが、珍しく初対面の人間に敵意を剥き出しにする彼に、綾は眉をひそめてその腕を引いた。
と、さすがにその場の空気を感じ取ったのか、明るかった喜徳の表情が微妙に翳る。
「…ごめん、はしゃぎすぎたかなー自分が末っ子のせいか弟がずっと欲しかったものでー悪気があったわけじゃないんだ…」
自分より年上の大の男が、まるで親に叱られた幼児のようになってしまったのを見て今度は雪臣がたじろぐ番だった。これくらいの皮肉は恭四郎との間では日常茶飯事だ。彼だったら落ち込むどころかもっと強烈な皮肉で対応してくるに違いない。
「いい…よー俺があなたの義弟になるのは事実なんだから…だけどー悪気があるかないかはこれからじっくりと観察させてもらうからな」
面食らった内心を必死で隠そうとする雪臣は益々眉根を寄せて、義兄となる人を睨みつけた。
「OK、ご期待に沿うよう努力するよ」
頷いた喜徳がクシャッと人なつこい笑みを浮かべる。雪臣は反射的に視線を逸らして傍らの綾を振り返った。
「あ…紹介しま…す。こちら伊達綾さんー俺の…婚約者。綾さん、一ツ橋喜徳氏だよ…」
「君が伊達の異母姉上のー?」
喜徳は初めて綾に気づいたように大きく目を開いた。
「あ…初めましてーだね?これは嬉しい偶然だなぁ、こんな旅先で姪と対面できるとは思わなかったよ。しかもこれほど美人の姪と、ね。やっぱり大和撫子はいいねぇ、こんな美人が姪だなんて僕も鼻が高いーあ、もちろん姪っていうのは君が僕を叔父として認めてくれればこその関係だけど?」
「認めたくありませんわね」
「え?」
喜徳の賛辞を傲慢に突き返した綾の言葉は、ふいにその場の空気を凍らせるかに見えたがー。
「だってこんなハンサムな方が叔父様だなんてもったいない。何も知らなければ恋に落ちることもできたのにーそうでしょ?」
「え?いや…ははッ…」
ふいに表情を崩した綾は、仇な流し目を喜徳に送った。
「あ…綾さんー」
一瞬前までの、敵意に満ちたあの態度は何だったのだ?どこからが本音か建前かうっかり綾の本心を掴み損ねて雪臣が呆然と呟いた時ー。
向かい合った喜徳の背後からクスリと忍び笑いが漏れた。
「さすが、お口のお上手な所は叔父様そっくりね…可愛らしい義弟君と姪ごさんを私に紹介して下さらないの、喜徳?」
「あーああ、たつ子…」
声をかけられて初めてその存在を思い出したかのように、喜徳は後ろを振り向いた。そこには20代前半の、それにしてはやけにシャネルのスーツが決まり過ぎる女が立っていた。
「雪臣君と綾さんだー雪臣君、こちらは僕のスタッフの萱野たつ子。ニューヨークで弁護士をしていたんだが、留学中色々世話になってね。今回帰国の際に専門で僕についてもらうことにしたんだー」
「…ねぇ…雪臣ちゃん…スタッフってー何?」
「さぁ…?少なくともメイクやヘアってわけじゃなさそうだけどーあ、スタイリストかな」
弁護士をやめてスタイリストー?何か変だなと思いながら雪臣は首を捻った。アメリカの政治家が専属のスタイリストを雇っているという話は聞いたことがある。最近は日本でもそんな真似をする政治家が出て来たらしいが。
小声で囁き合う雪臣達にたつ子は艶然と微笑んだ。
「メイク、ヘアでもスタイリストでもないわ。向こうでは政治家の仕事の手伝いを皆スタッフと言うの。大統領やファーストレディが変わるごとにホワイトハウスのスタッフが総入替えになるという話、ご存知ない?」
「え?ああ、そういえばー」
馬鹿にした風でもなく、ごく自然な態度で尋ねられて綾は反射的に笑顔を返したがー。
「……」
ふいに鋭い視線を肩越しに感じて、彼女は後ろを振り向いた。視線の主は言わずと知れた雪臣である。よほど喜徳達が気に食わないのか、黙りこくった彼はじっとたつ子を眺めていた。するとー。
「ごきげんよう、雪臣様。萱野たつ子です。どうぞお見知り置きを」
かけていたサングラスを外しざま、スルリと伸びたたつ子の白い指が雪臣の華奢な手を強引に包み込んだ。
『ー!』
雪臣はギョッとして思わず手を引っ込めようとしたのだがー。
たつ子はその手に力を込めて意図的に、しかしさりげなく雪臣を引き戻したのだった。反射的にたつ子を見つめた雪臣。
「ーよろしくー?」
念を押すように覗き込んだたつ子の瞳が敵意に近い光を見せたのは気のせいだったのか?吸い込まれそうなたつ子の視線と挑むような雪臣の視線が宙でぶつかった。
フロントに鍵を預けた恭四郎は、忙しなく指を動かしながら辺りに鋭い視線を廻らせた。ふいに腕の時計を見遣る。4時10分ー雪臣達と約束した時間を10分はど回ってしまっていた。この冬に行う観光キャンペーンのことで、ぜひ松平先生のご協力をと必死になった後援会長がなかなか恭四郎を解放してくれなかったのである。
振り切るように帰ってきたものの、部屋の中で待っているはずの雪臣はおろか綾さえも自室に戻ってはいなかった。普段綾に振り回されている感のある雪臣だが、約束を反故にするようなけじめない真似は最も彼の嫌う所である。その辺りには絶対の信頼を寄せている恭四郎だった。
何か事件に巻き込まれたのではない限り、一ツ橋と待ち合わせた時間には必ず戻ってくるはずだろうがー約束の時間までにはあと20分ほどあった。
『それにしてもーおかしい…』
煙草を取り出そうと胸ポケットに伸ばした恭四郎の手がふと止まった。見るともなしに目を留めたロビーの横のラウンジの中に、見慣れた雪臣の後ろ姿を見出したからである。恭四郎は取り出しかけた煙草を戻す手間ももどかしげにラウンジに足を向けたのだった。
「雪臣様」
耳に馴染んだ心地よい声に雪臣は救いを求めるように振り返った。
「恭四郎ー」
「どうなさったんです?部屋にはいらっしゃらないし…探したんですよ」
何やら毒気に当てられたような表情の雪臣を庇うように恭四郎は近づいた。
『後ろ、後ろっ!』
雪臣の白く小さな顎が指し示した方向を見遣った恭四郎の表情が引き締まった。彼の視界に映ったのはソファーに腰掛け、コーヒーカップを手にこちらを見ている1人の青年だった。
「お知り合いーかな、雪臣君?」
「え…?ああー」
間髪の間もなく声をかけられて、雪臣と恭四郎は一言の打ち合わせもなく本番に臨む羽目に陥った。
「これは…父の秘書でー」
「但馬恭四郎と申します。一ツ橋喜徳様には初めてお目にかかります。松平先生よりこの雪臣様の保護者名代として仰せつかっております為、今回お供させていただきます。僭越ながらご容赦のほどを」
「そうですか…こちらこそよろしく」
慇懃なー綾が言う所の人を馬鹿にしたー態度で深々と頭を下げた恭四郎をどう思ったのか、喜徳はやはりにっこりと人の良い笑みを返した。
「それじゃあ僕の秘書も紹介しなくちゃ…たつ子ー」
「たつ子ー?」
瞬間、恭四郎の目がわずかに細まったのを雪臣はいぶかしげに見上げた。
「恭四郎?知り合いかよーまさか、な…」
笑いかけた雪臣の言葉を遮ったのは、シャネルスーツの胸ポケットにサングラスを引っ掛けながら2人に近寄ってきたたつ子だった。
「お久しぶりねー恭四郎」
恭四郎が答える間もなかった。たつ子はつと恭四郎の肩に手を置くと恭四郎の頬に口づけたのである。
「ー!?」
突然の出来事に目を剥く雪臣。完全に1本取られた恭四郎は、だが咄嗟にたつ子の体を押しのけた。
「ーやめるんだ、たつ子。人前だぞ…」
拒まれたたつ子は怒りもせずにクスリと笑った。
「どうしてー?数年ぶりの再会じゃない」
「ー再会…?」
呟いた雪臣が説明を求めるより早く恭四郎が口を開きかけたその時ー。
「なんだこちらも知り合いかい、たつ子」
絶妙のタイミングで言葉をさらったのはまたもや喜徳だった。
「どういう知り合いなの?聞いて差し支えなければー」
喜徳の瞳に子供っぽい好奇心が宿る。
「友人ですー大学時代の…」
今度は恭四郎が間髪入れずに答えた。普段から鋭い目が炯々と光り、喜徳を睨めつけている。明らかに威嚇とわかる態度を取る恭四郎を見て雪臣は再び首を傾げた。
『変だな…恭四郎らしくもないーいくら気に食わない奴だって…』
雪臣と恭四郎の気に入らない相手に対する接し方はある所までは似ているが、それから先はまったくといっていいほど正反対なのだ。
まずは人当たりがよく相手の出方を伺うが、それでフォローの必要なしと見なせば雪臣の場合、ガラリと態度を変えて正面から本音を吐く。恭四郎な場合はだが滅多なことではその本心を曝け出すことはなかった。
「そうー親友でしたのよ…ねぇ?」
恭四郎は答えない。まるで何もなかったようにたつ子の方を一顧だにしなかった。
「ああ、そうなのかいーじゃあね、こうしたらどうかな、雪臣君ー?」
「ーえ?」
突然話を振られた雪臣は驚いて恭四郎の横顔から喜徳へと視線を移した。
「雪臣君と綾さんは僕の車にいらっしゃい。たつ子は但馬さんの車に乗せてもらうといい」
「ち…ちょっとまっ……!」
「恐れながら喜徳様ー」
口を開きかけた雪臣を遮ったのは恭四郎だった。
「雪臣様は本日の移動の疲れが出ている様子。これより会津若松市内を案内させていただく為に、私の車の方で休ませたいのですがー」
「えー?雪臣君、どこか悪いのかい?それは悪かったなぁ無理させてー」
「いえっ、別にっ!…どこも悪くないーです…」
『余計なこと言うな!』
駆け引きはもう始まっているのだ。庇われた上にこちらに不利なことを口走った恭四郎らしからぬ態度に、雪臣は眉を吊り上げて睨みつけた。
自らが口走った言葉の意味を反芻したらしい。恭四郎はハッと表情を強張らせた。
「でも…?」
首を傾げて恭四郎と雪臣の顔を交互に見つめる喜徳。雪臣はフイと恭四郎から目を逸らすとわざとらしい愛想笑いを浮かべて喜徳を促した。
「じゃ行きましょうか?喜徳さん、綾さんー」
大きく頷いた綾は、勝ち誇った笑みを恭四郎に投げかけてこれみよがしに雪臣の腕を取った。
「そうねぇっっ!雪臣ちゃんもたまには気分転換で但馬以外の車に乗るのもいいかもよっ?ねっ喜徳さん?あ、ところで喜徳さんの乗ってらっしゃる車って何ですの。やっぱりアメリカ車か何か?」
「いや、日本に帰ってきてからは兄が用意してくれた車に乗っているんだ。えぇと何て言ったかな…トヨタの…レ…レク…?」
「レクサス!」
「そうそう、レクサスだ。お気に召すかどうかわからないけどー」
「あらレクサスって言ったら高級車だもの。乗り心地いいに決まってますわ。但馬の助手席よりよほどじっくりくつろげるわよ、ね、雪臣ちゃん?」
「ー」
「さ、行こうか。雪臣君、綾さん」
いつの間にか愛想笑いも消えて憮然とした表情の雪臣と妙に浮かれた様子の綾の前で喜徳は席を立った。
「じゃたつ子、後は頼んだよ」
「ええ、私達は支払いを済ませたら後から追いかけますー秘書は秘書同士…ね?」
たつ子の朱唇から醸し出された意味ありげな響きは、当然喜徳の後ろに居た雪臣の耳にも入った。喜徳とたつ子がすれ違い、離れたほんの一瞬ー。
「おい、恭四郎ー」
雪臣は恭四郎の前を通り過ぎざま、醒めた口調で切り出した。
「どういう学生時代の親友かは知らないがあまり鼻の下を伸ばすなよー」
いつにない失敗のせいか、常の鋭さを失っていた恭四郎の瞳に覇気が戻った。
「いつ私が鼻の下を伸ばしたんです?心外ですね、雪臣様!」
「ー口紅がついてるっ!ベットリと!」
ハッとして唇を拭う恭四郎に、雪臣はジロリと針のような視線を向けた。
「嘘だよ」
「雪臣様っ…」
喜徳やたつ子の手前、声を荒げて雪臣を叱るわけにもいかず、恭四郎はヤクザをも黙らせると評判の睨みをフルに発揮して、彼の被保護者を睨めつけた。が、雪臣は怯まない。それどころか口調の冷たさに反比例して、その目は沸々と怒りにたぎっていた。
「ー"語るに落ちたり"だ、恭四郎。俺は別にどこに口紅が付いてるとは言わなかったぞ。それにあの女がさっきキスしたのはお前の頰だろー?」
「ー」
「気がつかなかったのか?常に冷静沈着だと評判の但馬秘書らしくもないー」
痛いところを突かれて言葉を失った恭四郎。日頃やり込められることはあってもやり込めることは滅多にない。珍しい出来事に雪臣が得意満面になるかと思いきやー彼は組んでいた腕をほどき、苛ついた様子でポケットに両手を突っ込んで再び恭四郎を睨みつけた。
「ープライベートでどんな女と付き合おうがお前の勝手だが、今は仕事中だ。食うか食われるかって時に、敵方の女に鼻の下を伸ばしてるようじゃ先が見えてるー松平桂之介の名折れになるような真似だけはするなよ」
「雪臣さー」
反論も弁解の余地も恭四郎には与えられなかった。再び視線を背けた雪臣は、言いたいことだけ言うとさっさとその場を立ち去ってしまったのである。後には呆然と立ち尽くす恭四郎と、彼らの様子をじっと見守っていたたつ子だけが残った。
「ーお嬢ちゃんみたいな可愛い若様は、あなたが私と抱き合ったぐらいで世も末みたいな顔をするのね…そういう自分はラウンジで婚約者ともっと大胆なことを平気でしてたようだけど?」
さりげなく絡められたたつ子の腕を、それ以上の素っ気なさで恭四郎は振りほどいた。その目は気がかりそうにホテルから出て行く雪臣を追っている。
「ーあの方達のは子猫がじゃれ合っているようなものだ。婚約者といってもまだ学生の身だしーお前こそ、いい年をした大人が剥きになるんじゃない。アメリカではどうだか知らないが、ここは日本国内だ」
「いい年した……ですってー?」
たつ子の柳眉が逆立つ。大ぶりの金のイヤリングをはずそうと耳に伸ばしかけていた指がピタリと止まった。
「いい年にしたのは誰だと思ってるの恭四郎。あの時あなたが私を捨てなければこんな風にはならなかったわよ!」
思わず声を荒げたたつ子に、振り返った恭四郎の無表情が一瞬崩れた。しばしの沈黙ー先に目を逸らせたのは恭四郎だった。平静さを取り戻す儀式であるかのように彼は煙草をくわえた。
「ーお前が必要としていたのは修だ……」
「ふっー」
たつ子の紅い唇が嘲笑に歪む。
「…あの時も…あなたはそうやって逃げたんだわー修を追い詰めた罪の意識からーどう?過去を葬って新しく始めた生活の味は?松平桂之介先生は知ってらっしゃるのかしらね、自分の秘書が人殺しー」
「たつ子っ!」
押さえていた恭四郎の感情が爆発した。彼の手が手荒にたつ子の手首を鷲掴みにする。
「ーやっと私の方を見た…」
嬲るかのような、ひどく優しい口調でたつ子は囁いた。
「ああそう…政治の裏側なんて脅迫、人殺しなんて日常茶飯事ですものね。珍しくもないのね、今更…むしろそれが先生の信頼を得るバロメーターなのかしら…?」
「…たつ子、やめるんだー続きは車に乗ってから聞く。どこで記者が張っていないとも限らないー秘書のスキャンダルが代議士の政治生命にとどめを刺すこともある…お前も秘書ならばこのくらいは頭に入れておけ。基本中の基本だー」
「…そんなに仕事が大事ーいえ、若様が?」
「ー」
恭四郎はそれには答えず、たつ子の手を離すと足早に歩き始めた。その背中を見つめていたたつ子はやがてサングラスを掛けるとゆっくりと立ち上がった。




