玻璃の静謀ー赦し2
2️⃣
「しっかし親父もつくづく信じられない性格してるよなぁ…朝食の席で養子を貰う、食べ終ったらとっとと出かけてそいつの面倒を見ろだってさ。普通はさ、養子になる奴の方が挨拶に来るもんじゃない?しかも俺より年上だぜ?絶対に優遇されてるよ。もしかしたら俺、本当に見捨てられたのかもー」
雪臣は小さくため息をついて自分の前の新聞を睨みつけた。"日本市場開放政策会談"の見出しの下には首相やアメリカの高官と並んで、人の良さそうな笑みを浮かべた彼の父親が写っている。公安委員長である桂之介は会談中の警備の要である為に東京を離れるわけにいかず、雪臣がその代理を急遽任されたのだった。向かいの席に座っていた恭四郎は耳聡くそれを聞きつけて、広げていた新聞から目を離した。
「何を仰っているんですか?一ツ橋喜徳様の件は、先生が日頃お世話になっていらっしゃる一ツ橋首相直々の頼みで断れなかったのだと仰っていたでしょう」
「うん」
とは言うものの、彼らにとって面白いとは言い難い話であることには違いない。列車はちょうど宇都宮駅を出たところである。気のない様子で頷いた雪臣は、頬杖をついて車窓の外を見た。
夏休みと紅葉の合間のシーズンオフのせいか東北新幹線の車内は日曜の割には人口密度が低かった。桂之介が養子にすると言ったのは一ツ橋喜徳。現首相の末弟で、この9月にアメリカ留学を終えたばかりの22才の青年だった。
「あーら、私は別に構わないわよ?」
その時、雪臣の隣から聞こえてきた声がなんとはなしにしんみりとしたその場の雰囲気を吹き飛ばした。
「綾さん…」
雪臣はギョッとして、隣で駅弁を食べていたひとつ年上の婚約者に目を向ける。呆気にとられた雪臣にニッコリと笑いかけた彼女は、余っていた梅干しをヒョイと雪臣の口に放り込んだ。
「私が気に入ってるのは雪臣ちゃん自身なんだもの。もしあんたが政治家にならなくったって婚約解消なんかしたりしないから安心してよ。むしろそっちの方が好都合だわー」
「はは、気に入ってる…ねー」
生成色のニットのワンピースを着た娘が挑戦的な眼差しで恭四郎を見た。咲き誇る大輪の牡丹を思わせる美貌が黒く艷やかなセミロングの前髪の下で際だっている。
「雪臣ちゃんが政治家にならないんだったら、変なおじゃま虫も付き纏わなくなるしね…」
「邪魔しているのはどちらです、綾様ー?」
恭四郎はバサリと新聞を折りたたむと、自分を睨みつけている綾を見ようともせずに平然と胸ポケットから煙草を取り出した。
「回復されたとはいえ、雪臣様はまだ本調子ではないんです。人混みの中にいればそれだけ気疲れもされるーだから私は車にしましょうと申し上げたのに…」
「たっ、たまには電車もいいだろっ!普段通学するのに車ばかりだから、こういう時ぐらい乗ってみたかったんだよ。お前だって自分で運転するより楽だろうが。今回はただの旅行じゃない。親父の名代で一ツ橋との駆け引きがあるんだろ?俺はなぁ、それも考えて…ね、綾さん?」
苦し紛れの雪臣のフォローはどうやら何の効もなさなかったらしい。
プイッとそっぽを向いた綾。その心は恭四郎に不覚を取った悔しさに満ちていた。雪臣の体のことまで考えなかった。どうしても電車で行くと言い張ったのは綾自身である。彼女の脳裏に浮かんでいたのは午前中の雪臣との電話のやり取りだった。
予定していた友人との約束が相手の都合で取り止めになったのは今朝の事。天気が悪ければたまには家に居てみるのもよかったが、生憎外は憎らしいほどの秋晴れである。伊達綾はこんな日に家の中に収まっていることができるほど殊勝な娘ではなかった。
華やかで勝気な彼女は早速取り巻きのボーイフレンド達の中から遊び相手を選び出そうとスマホを手にアドレスを操り始めたのだったがーその時、彼女の目に止まったのは、年下の婚約者の名だった。
この夏、雪臣が心臓の発作を起こした原因のひとつは伊達賢章である。賢章は綾の叔父であり、日本屈指の銀行である伊達銀行の現総裁、伊達慶邦氏の弟だった。
綾と雪臣の婚約を利用して松平家を足場に政界への進出を試みようとしていた伊達家ではこの事態を重くみなし、一族の意に反した賢章には厳しい処置が与えられた。現代っ子の綾は元来、大時代的な一族の結束に縛られる性質ではなかったものの、今回の雪臣の発作に対しては多少の責任を感じてるらしく、病院にも幾度となく足を運んでいたのだった。
そういうわけで今朝も見舞いに行きがてら遊びに行こうかと電話をかけた所、雪臣は父桂之介氏の言いつけで会津若松に向かうという。渡りに船とばかりの綾は、詳しい話を聞く前に自分も行くと宣言したのだった。
「ところでさ、一ツ橋喜徳ってどんな奴なの?会う前に少しくらい情報仕入れといた方がいいだろ?」
華奢な腕に滑り落ちてくるアームバンドを押さえながら雪臣は不意に真顔になった。日頃父親の仕事に興味はないと言い切る雪臣だが、一旦任されてしまうと素直で忠実な彼は、将来有望な桂之介の後継者になりうる一面を充分に備えていた。
「そうーですね…」
恭四郎の表情も政治家の秘書のそれへと切り替わった。座席の脇にある灰皿へ煙草をねじ込むと真っ直ぐに雪臣を見る。
「一ツ橋喜徳様は今年22才。この6月にアメリカハーバード大学を卒業され、つい先日帰国されました。専攻は政治学。現首相の末弟で政界でも屈指の名門一ツ橋家のご子息です」
「ハーバード大卒?変わり種だな、政治が専攻なら政界入りするつもりなんだろ?だけど日本の政治家ってほとんど日本の大学卒じゃなかったっけ?」
「頭悪くて日本の大学に入れなかったんじゃないの?ほら今留学流行りで日本の大学落ちちゃうと浪人するよりかは体裁がいいっていうんで留学しちゃう人多いでしょ」
「…綾様…ハーバードですよ。全米一の名門校なんです。入学されただけならともかく、喜徳様はきちんと卒業されているんですから」
額を抑えてため息をついた恭四郎を見て綾が口を開こうとした時ー。
「わかった!頭の問題じゃないっていうんなら、あとは周りの事情だよな。本人が日本の大学に行きたくなかった…なんてことはないよな。政治学を取って政治家を目指してるんだから。とすると彼を日本の大学に行かせたくなかった誰かがいたーってこと?」
「当たり、です。それがどうやら今回の養子の件にも深く関わっているらしいのですが…」
「どういうことだ?」
座席から身を乗り出した雪臣。通路を通り過ぎる人影を待って、恭四郎は口を開いた。
「つまり…喜徳様の出自の問題なのですが…本妻腹の方ではないんだそうです」
幼い頃に一ツ橋家に引き取られた喜徳は早くからその優秀さを見せたが、それは名門出身の本妻の子供達を凌ぐものであり、かえって本妻の憎しみを煽る結果となった。
「継母に憎まれる子供?どっかで聞いたような話だなぁ…」
ニヤッと笑った雪臣を見て痛ましそうな顔をしたのはなぜか恭四郎の方だった。ためらいがちな口調で話を続ける。
「お父上の跡を継がれて政界入りされた一ツ橋首相は、優秀な喜徳様を可愛がりご本人の意志を汲んでいよいよ本格的な政界入りの下準備に取り掛かろうとされたのですがー母上からクレームが付き喜徳様の日本の大学への進学は断念せざるを得なくなりました」
「んまぁひどいおばさんねぇ!子供の進路を妨害するなんてっ!」
「何言ってるんです、綾様。一ツ橋夫人といえばあなたの母方のお祖母様じゃありませんか」
呆れた様子の恭四郎の口調に雪臣がうなづいた。
「うん、一ツ橋って聞いて俺もピンと来た。伊達の小母さんは一ツ橋首相の妹だもんな。一ツ橋喜徳は綾さんの叔父さんーだよね?」
今を去る20数年前、政界を代表する名門、一ツ橋家と経済界を掌中に収める伊達家との間に、今日の松平、伊達の前身ともいうべきひとつの縁組が成された。花嫁は一ツ橋家の娘、花婿は伊達家の息子ーそれが綾の両親だった。
「あら、知ってたの?」
ペロリと舌を出した綾を見て恭四郎は再び呆れ顔で呟いた。
「…一ツ橋夫人は綾様とそっくりなご気性なんですね、きっとー」
「なんですって!」
「大丈夫でしょうかねぇ…また"綾様の叔父上"ですからねぇー」
苦い顔をする恭四郎。論外に匂わしているのはもちろん、夏の初めの事件の事に違いなかった。まったくこの男、雪臣に関わることだと普段の10倍は執念深くなるらしい。傍らでそれを聞いていた雪臣の方がギョッとして目を剥く。
「おい、恭四郎っ!お前、それは綾さんの責任じゃないだろっー」
「別に綾様を責めてるわけじゃありませんよ。ただ叔父上ならばどんな方なのかわかってらっしゃるのではと思ってー」
「知らないわよ。そんなこと言われたって!賢章叔父にしろ一ツ橋にしろ、私が頼んで叔父になってもらったわけじゃないもの。まして一ツ橋の方は母の弟って言ったって母が伊達に嫁いできてから生まれた子だっていうし、会ったこともないんだから」
綾の言葉を聞きながら、恭四郎はいたく納得したようにうなづいた。
「確かにー綾様と血が繋がっていらっしゃるとは想像しがたいほど優秀な方のようですね」
「どういうことよっ!」
綾の言葉には答えず、恭四郎はサラリと雪臣に向き直った。
「喜徳様の才能を惜しまれた一ツ橋首相は、せめて政治のやり方を学んでおけばいつか役に立つ時もと思われ、ハーバードへ留学させられたということですからー」
「なるほどー」
雪臣は組んでいた腕をほどいてうなづいた。
「んで、留学を終えて帰ってきたはいいけど、実際に腕を振るう場所が一ツ橋の家じゃない。だったら幕閣の誰かの家に潜り込ませて活躍の場を与えてやろう。ありがたい兄心の餌に選ばれたのがうちだったってわけだ。松平なら養子に出しても見劣りしない家系だし、息子は居ても心臓病持ちでいつくたばってもおかしくないポンコツだし、条件は充分ー」
「そんなことはありません!」
ふいに声を荒げた恭四郎に、雪臣は目を丸くして口をつぐんだ。
「そんなことはあなた自身が許しても、この私が許さない。あなたを差し置いてー」
「恭四郎ー?」
「ちょっと但馬、いい年こいて見境なく熱くなんないでよねっ、ったくみっともないったら…少しは周りのことも考えなさいよ!」
ペットボトルの紅茶を片手にふんぞり返った綾は、形の良い顎で車両の中を指し示した。恭四郎の声は商売柄よく通るし凄みも効く。相手に通じなかったり舐められたりしてはこの世界を渡ることなど到底できなかった。
だが今はそれが裏目に出たらしい。胡乱げな顔つきで振り返る数人の乗客を見ながら、恭四郎は自分の声が思ったよりもずっと響いていたことに気がついた。
「ー恭四郎、わかったから肩から手を外してくれ…痛ぇよ」
「え?ああ…すみません」
慌てた恭四郎は咄嗟に、掴んでいた雪臣の肩を離した。
雪臣は自由になった肩を擦りながら離れざま恭四郎のポケットから煙草を引き抜く。
「親父が何考えてるのかは知らないけどな…」
「雪臣様ッ!」
恭四郎が止める間もなく火をつけた煙草を吸い込んだ雪臣は、恭四郎に向かって煙を吐き出しながら艶然と微笑んだ。
「考えてみろよ、恭四郎ーこの俺が相手の言いようにされて大人しく黙ってる、なんてことがあると思うか?」
「いえー」
恭四郎の声は短めに、しかし明瞭に響いた。
「あなたがそんなに聞き分けのいい人だったら保護者としてももっと楽なはずですから…どさくさに紛れて何やってるんです、雪臣様?煙草はダメだと言ってるでしょう。まったく懲りない人ですね、あなたも」
言いながら恭四郎は雪臣のネクタイをクイッと引っ張った。ふいを突かれた雪臣は、つんのめった拍子にくわえていた煙草を落とした。
「おいっ恭四郎!俺は鵜飼の鵜じゃあないんだぞっー」
怒鳴りかけた雪臣を、片手を上げて制しながら恭四郎はふと真剣な表情で覗き込んだ。
「とにかくー雪臣様は私がお守りしますから。あなたが喜徳様に気後れなさることはないんです。あなたは松平先生のご子息として堂々と対応なさって下さい。いいですね?」
「……」
いつになく真摯な恭四郎の言葉に、雪臣は思わず言葉を失ってその瞳を見つめ返した。その時ー。
ドサリッ!茶色い物体が雪臣の視界の片隅をかすめた。ビクリと身をすくめた彼は反射的に横を向いた。
「綾さん…」
前髪を掻き上げながら見上げた雪臣の瞳に映ったのはーエルメスの旅行カバンを片手に鼻息荒く彼らを見下ろしている綾の姿だった。
「なぁぁに2人で見つめ合ってニヤニヤしてんのよ、気持ち悪いわねぇッ!ほら、もうじき郡山の乗り換えだわよッ。グズグズしてると置いていくから」
「あっ、ちょっと待ってよ、綾さんってば!」
スカートを翻して勢いよく歩き出した綾を、雪臣は慌てて追いかける。その後から恭四郎が何事もなかったような表情で悠々と通路を歩いて行った。
そして一行が会津若松の駅に降り立ったのは昼を少し回った頃のことだった。ホームを繋ぐ通路からは煌めく雪を被った山並みが見える。この時期まだ蒸し暑さが続く東京と違って日差しこそ強いものの、会津盆地を吹き抜ける風はすっかり秋めいていた。
ここ福島県会津若松市は松平家の出身地である。今を去ること150年前の幕末の戊辰戦争の時の白虎隊の悲話で有名なこの街は、今も会津藩23万石の面影をそこかしこに残している誇り高い城下町だった。
桂之介の岳父、松平敬司が戦前、地元若松市民の票を集めて当選して以来、年に数回は"お国入り"をして次の選挙の布石をしておくのが松平家の習慣であった。雪臣も幼い頃から父親に連れられて何度かこの地を踏んでいた。
そのせいなのか、駅前のロータリーに建つ、白虎隊の像を見た時、彼の胸中をなんとも言えぬ思いがよぎった。郷愁というのはこんな感情のことなのだろうかー?それは幼い日に逝った、今ではもうかなり朧げになってしまった母の面影を思い出す時の気持ちによく似ていた。
「ー?」
ふいにー強い視線を感じて雪臣は白虎隊の像から目を逸らせた。
「どうしました?」
傍らの恭四郎がすかさず語りかけてくる。
「気の…せいかな…?」
「なぁに?」
「あそこの影にいる男、郡山で乗り換えた時からずっと後ろにいる…つけられてるんじゃないだろうな…」
雪臣は側に止まっていた車のバックミラーに視線を落としながらつぶやいた。どれ、と綾がサングラスを下げてコンパクトを取り出し背後を覗き込んだ。
映っていたのは、駅の案内板にもたれてじっとこちらを伺っているひとりの男。年の頃は30代半ばほどだろうか?渋い!と女子高生が騒ぎ出しそうな苦み走った端正な顔立ちである。ちょっと目にはロケに来た俳優か何かのように見えないこともなかったのだがー彼の発してる"気"が、雪臣に彼の存在を見逃させなかったのである。
男の発する気ーそれはある種のきな臭さだった。カタギの人間とは何かが違うのだ。別段派手な服装をしているとか奇異な行動を取るとかそういうことではない。背後の男は顔がいいというひとつの点を除けば、ありふれたダークスーツを少々着崩した普通の男にしか過ぎなかった。
強いて言えばー隙が無さすぎた。綾も同種の感想を持ったらしい。
「あらほんと。いやぁぁねぇぇ、ガラが悪そう。ねぇちょっと"㋳"じゃないの、アレ!」
美貌の男に関しては天下一品の雪臣や恭四郎を見慣れている綾は、免疫のない娘とは違う。男の胡散臭さを見破ったのはさすがというべきだったが…。
"やっぱり"㋳"よぉ"と振り向きそうになった綾の袖を引っぱりながら雪臣は同種の物騒さを醸し出してる傍らの男に苦笑いを向けた。
「恭四郎、きっとお前だ。激しく目立ってたもんな。きっとご同業だと思って警戒してるんだぜ」
からかい口調の雪臣の尻馬に、ここぞとばかり綾も乗っかった。
「そうよねぇぇ、但馬ってばその目つき、その格好、どう見たって危ない人にしか見えないものねぇぇー」
危ない人と称された恭四郎は、背後の男から雪臣の姿を隠すかのようにその長身をさりげなくずらしながら呟いた。
「それは結構ー私は雪臣様をお守りするのが務めですから。恐れられる番犬がいれば誰も近寄って来ないでしょうしね。」
「お前なぁ…」
そこまで卑屈にならなくてもー呆れ口調の雪臣の呟きを微笑で受け止めた恭四郎。だが次の瞬間、彼の瞳には再び厳しい光が宿っていた。
「ー確かに"日新会"の方じゃなさそうですね…」
「まぁな…」
雪臣は"後援会"と称して自らの利益を図ってもらうために父親に群がってくる地元民の姿を思い浮かべた。背後の男がその手合いであったなら松平桂之介関係者である自分達をただ眺めているだけであるはずがない。一抹のきな臭さは感じさせるものの、男からはこちらに対する好意も敵意も伝わってはこなかった。
「今のところ、特に害はないようですし…あまり気になさらずに。気づかない振りをしていましょう。雪臣様の言うように私が警戒されているだけならそのうち誤解も解けるでしょうから。ただー」
恭四郎はふと眉をひそめて不審げな眼差しを雪臣に向けた。
「あなたは気をつけて下さいよ。そうでなくても何かと変な騒ぎに巻き込まれやすいんですから」
「誰がだッ!」
華やかな女子大生風の娘に、坊っちゃん然とした美少年、ブランド物のダークスーツが決まりすぎている男ー服装も言動も何一つ共通点はあるまいと思われる奇妙な3人組には物陰から眺めている男でなくとも目を奪われる。
ギャアギャアと騒がしい一行は周りの注目を浴びながら、ロータリーの向かいにあるレンタカー屋に入っていった。それを見届けた男は案内板から背を離すと、街の雑踏へと消えたのだった。
「アウディをー」
店内に入った恭四郎は胸ポケットにサングラスをしまいながらためらいなくカウンターに告げた。それを聞いて口を挟んだのは半歩遅れて店内に入ってきた綾である。
「えーッ、フェアレディーがいいわよ、フェアレディーッ!」
いきなり飛び込んできて内輪揉めする客に、困惑の表情を隠せずにいる店員を促すように頷いた恭四郎はカウンターに片肘をつきながら綾を振り返った。
「フェアレディーは2人乗りですよ、綾様ーそれともここから別行動なさるんですか?ならばお引き止めはしませんが」
「おいっっー」
雪臣の制止など聞く耳持たず、恭四郎はそれは楽しげに綾を挑発する。
『…だめだ、こりゃー』
新幹線で来たことがよほど気に入らなかったのか。恭四郎という男は普段感情を面に出さないため、冷静沈着な男であるというもっぱらの評判だが、実はとんでもない所で巧妙に仕返しをするのだ。
そんな彼の、よく言えば策略的、悪く言えば陰険なやり方を知り尽くしている雪臣は額を押さえてため息をつくしかなかった。
「なぁぁに言ってんのよ。私と雪臣ちゃんは許婚なんですからねッ、邪魔者はあんたの方でしょ、但馬ッ!」
「あ、あの…お客様…?」
「おいっっやめろよ、2人とも!みっともない」
延々と続くかに思えた恭四郎と綾の舌戦を止めたのは雪臣の一喝だった。
「…雪臣様」
恭四郎、綾を含む、店内にいた者達の視線が雪臣に集まった。一瞬前までは誰一人として、この華奢で小柄な少年がこの場を制する威圧感を発揮できるとは思いもしなかっただろう。そう恭四郎でさえも。
だが一瞬のこととはいえその場の空気を支配していたのは確かに雪臣だった。それを知ってか知らずか、雪臣は再びため息をついて天井を見上げた。
「アウディだ、フェアレディだってガキじゃあるまいし…」
「だぁぁってー」
「第一、ここにあるのはトヨタ系の車だぜ?」
「……」
ギョッと車種表を見つめた綾と恭四郎。なるほどそこにはアウディもフェアレディの名もなかった。
黙り込んだ許婚と同居人に醒めた視線を投げかけた雪臣はふいにカウンターに向き直った。
「すみません。クラウンを貸してもらえますー?そう、そこのダークグリーンのやつね」
にっこりと笑った雪臣の一言で、ささやかな選定車騒動は終止符を打ったのだった。




