玻璃の静謀ー赦し10
10
キーンという高音がどこか遠くから響いていた。
『何の音だろうー?』
徐々にハッキリとしてくる意識の中で、雪臣はわずかに身じろぎをした。
『痛っー』
ふいに頭に走った鈍い痛み。同時に感じたのは瞼を開くのも億劫なほどの全身を覆う倦怠感だった。
『ここはーどこだ?俺は……』
泥のようなだるさを押しのけてようやく目を開いた雪臣の視界に飛び込んできたのは、学校の保健室のような白い天井だった。
再びキーンという音がした方に寝た状態のまま首だけ巡らしてみると、秋の柔らかな日差しの差し込む窓から飛行機が飛び立つ姿が見えた。
「意識が戻った?雪臣君」
足許の方から聞こえた声に驚いて雪臣はとっさに半身を起こしたがー。
次の瞬間、視界がグルリと渦を巻き、その場にうずくまってしまった。
「急に起き上がっては危ないよ、雪臣君ー君は今まで睡眠薬で眠っていたんだから」
「睡眠薬ー?いったいどういうこと?喜徳さん。俺達、会津若松のホテルに居たんだよね?なんか怪しい奴らに追われて逃げて…ここはー何でこんな窓の近くを飛行機が飛んでるの?」
「それは飛行場だからね、ここはー」
ニコリと喜徳は笑って答えた。だがその笑みは雪臣が今まで見ていたものとは全く違っていた。
「ここは横田飛行場ー米軍の横田基地だよ」
トロリとした狂気を纏った微笑を浮かべて喜徳は雪臣の前に立ち尽くした。
「ノブノリだけでなく、日本警察のボスの息子まで連れて来たとは首尾上々だな、たつ子!!さすがは私が見込んだ女だ。これで首相の一ツ橋も米軍への思いやり予算を削減するなんぞ勝手なことは言い出せなくなるだろう。ペンタゴンの上層部にも恩を売れて、私は益々この横田で商売がやりやすくなるー見ろ、今回の薬もなかなかいいのが手に入った。コイツを日本の組織に渡したらすぐに本国にトンボ返りだ。その前にお前に一番最初に試させてやるさ」
「今はいらないー」
ベッドに腰掛けて髪を梳かしていたたつ子はふいに背後から抱きつき胸元に手を伸ばしてきた男の手からスルリと抜けて立ち上がり振り向いた。
フレデリック・アームストロング。通称フレディと名乗る、この年の頃40そこそこの男と深い関係になってからもう3、4年ほど立つ。金髪碧眼で長身のこの男は顔立ちも振る舞いも申し分なかった。最近の潮流に沿ったヴィーガン食品の輸入個人事業主で近頃は米軍人の中でも8割以上の人間が栄養や地球環境に与える影響を意識して、ヴィーガン・メニューを望み出したのに応えて、横田基地にもヴィーガン食材を卸す為に頻繁に来日していた。
というのはあくまでも表向きのことで実はこの男、正体は北朝鮮と横田基地を繋ぐ直行便を利用して入ってくる覚醒剤を、日本のヤクザやアメリカ本国のマフィアに売りさばく闇ブローカー。日本国内にありながら治外法権である基地の中でフレディの闇商売はどんどん拡大していく一方であった。無論うまい汁を吸わせてもらったからには場を提供してくれている米軍へも相当の見返りは流さなくてはならない。こうして広がったフレディの闇人脈は今や本国の米軍の牙城であるペンタゴン=軍指導部層にも根を広げていたのである。
たつ子と知り合った頃、フレディはペンシルベニア州から選出された上院議員だった。ペンシルベニアの名家出身の妻の実家のコネで政財界に足がかりを築いた彼がその頃議員関係や商売上のことで雇っていた顧問弁護士が属していた法律事務所に、たつ子がパラリーガルとして働いていたのである。
アメリカに渡った後、苦学して弁護士資格を取る為に大学に入学したたつ子だったが、修の件で実家とも気まずくなっていたがゆえに両親には経済的にも頼る事もできずにいた。奨学生として大学に通っていたものの当然それだけでは足りずアルバイトとして働くうちに顧客として出入りしていたフレディにその優秀さを認められ、学費の援助を受けるうちに深い仲になった。だが純愛というにはこの関係には数々の打算が潜んでいたのである。
フレディは多くの恩恵を受けている名家出身の妻と別れることなど露ほども考えたことなどなかったし、最初から彼がたつ子に求めていたものは裏稼業に役立つ彼女の優秀な頭脳と若く魅力的な肢体でしかなかった。たつ子もフレディの求めるものは理解していて、彼の裏稼業への貢献も愛人関係も求められればどんなことでも拒むことはなかった。拒めば最後、たつ子がすべてを賭けた弁護士への道は閉ざされるのである。彼女には選択肢などなかった。そして何年かの後、たつ子はやっとアメリカでの弁護士資格を手にしたのである。
だがすべてを割り切ったつもりでもたつ子の心は悲鳴をあげていた。修を自殺に追い込んでしまった罪悪感から逃れるように目の前に現れたフレディとの関係に溺れていった。しかしフレディの心は自分の上にはないーかつて修や恭四郎と共に過ごし弁護士になることを夢見ていた理想とかけ離れていく現実に嫌気が差したたつ子はいつからか、フレディが扱っていた覚醒剤に染まっていったのだった。
「何だ?機嫌が悪いな、たつ子。昔の男と再会して里心でもついたか?」
「とんでもないっ!!」
瞬間カッと眼を見開いたたつ子は、ベッドの上に居たフレディにパッと飛びかかり馬乗りになった。そのしなやかな両手の指がフレディの金髪の頭を包み込み、ギリギリと音を立てるかのように食い込んでいく。
「むしろその逆よーこれで一切未練など失くなったわ。恭四郎…この想いを共有できるのはこの世にはただ1人あなただけだと思ったのに、あなたはとっくに救われていたなんてーあんなー人を見下すような目をした生意気な子供の何にあなたは救われたって言うの!?あんな子供にッ…私の何が劣っていた…とー」
絶望の深淵を覗き込んだような暗い光をたたえたたつ子の目は、目の前のフレディを見ておらず、彼女の想いはただ心の内の自分へと投げかけられているようだったがー。
「OK!!」
それはふいにフレディの痛いほど強引な抱擁によって現実に引き戻された。
「だったらお前も充分にそいつらに復讐してやればいいさ。あの日本警察のボスの息子もノブノリをハメたのと同じに薬漬けにしちまえばいい。そうすればもう生意気なことなんぞ言ってられなくなるさ。そうなった時の首相とボスの顔が見物だな。近頃は日本の警察がこの横田での取引きをいろいろと嗅ぎ回っているらしい。日本政府は元から薄々この取引きについては感づいてはいたものの、外交上揉めることを煩わしがって深い追求はしてこなかったが、この先警察が本腰を入れ始めると風向きが変わってくることがあるかもしれない。その時首相の弟と警察トップの息子がこっちの手の内にあればかなり有利に事が進むこと間違いなしだ。ノブノリは最初こちらの動きに懐疑的だったが、同じ日本人のお前を近づけたら案外すんなりと疑いを持たずに組織の傀儡になった。すべてお前のお陰だよ、たつ子。お前は私の大事なスウィートハニーだ」
フレディに抱きしめられキスの雨を浴びせられ、共にベッドへと沈み込みながらもたつ子の視線は再び宙を彷徨う。その先に見えているのは死んだ修かそれとも恭四郎なのかーあるいは彼女が失ってしまった二度と取り戻すことの出来ない過去そのものだったのかもしれない。
「ハー?米軍基地?横田って東京の?オヤジはこのこと知ってんの?ってかー」
ぼんやりとした意識を振り払うかのように雪臣は華奢な首をブンッと一振りした。その目にようやくいつもの勝気な光が灯った。
「普通さ、睡眠薬って自分の意志で飲むもんだよね?友好的関係築こうと思ってる相手に飲ませるもんじゃない…ってことは、何?喜徳さんは俺にケンカ売ってんの?それともこれって一ツ橋首相の差し金?」
「違うよー僕の兄さんはそんな卑怯なことなんかしない。兄はね、庶子の僕にも本当に優しくて…初めて一ツ橋の家に入った時、一ツ橋の母や他の兄達はとりつく島もないくらい本当に冷たくて…僕はあの家で本当に居場所がなかった。たった1人、兄だけが分け隔てなく僕に接してくれたんだ。党の幹事ポストに着き始めた頃で仕事が忙しかったけれど、暇を見つけては家から連れ出して色々な所に連れて行ってもらったり、勉強をみてもらったり可愛がってくれたー僕はそんな兄の為に少しでも役に立ちたくて…大学に行って政治の勉強をしたいと思うようになったのだけど、それをどうにも良く思わない筋があってー」
『ー一ツ橋夫人からクレームが付き、喜徳様の日本の大学への進学は断念せざるを得なくなりました』
雪臣の脳裏に恭四郎の言葉が蘇った。
「知ってるよ。それで喜徳さんはハーバード留学したんだろ?」
「ああ。それも兄が手配してくれたんだ。可愛がり、こんな僕に期待してくれた兄に少しでも恩返しがしたくて…日本では学べなかった政治の勉強をアメリカで身に付けようと日々必死に頑張っていた。その傍らで何か兄の役に立てたらとアメリカ生活の中で見聞きした事を自分なりにまとめたものを定期的に送ってたがー」
ふいにー子供のように興奮した様子で饒舌に喋っていた喜徳の横からすべての表情が消えて失くなった。その様子はまるで一瞬のうちに表情の仮面を付け替える京劇役者のそれだった。
『何かおかしいー感情の動きがとても不自然だ』
訝しむ雪臣の視線を気に留める風でもなく、喜徳の声は低く淀みなく続いた。
「ある時ーアメリカの麻薬組織が、軍の基地を経由して日本国内に覚醒剤を密輸しているという噂を知ったー驚いたのは日本の政府はそれに薄々感づいているのにアメリカ政府と揉め事を起こしたくないばかりに見て見ぬふりをして何一つ深い追求をしてこなかったという事実だ。もしそれが真実だったとしたら?僕の大事な兄さんの理想の国家にそんな汚点はあってはならない。ただのひとつも、だ!!だから僕はすぐに兄に進言したんだ。組織と軍、それから日本の麻薬ブローカーの癒着に捜査の手を入れるようにとーところが!!」
ふいに何かを思い出したのか、喜徳の顔が苦しげに歪んだ。
「兄からの返事は何ひとつ返ってこなかった……僕は一ツ橋の家族達が邪魔をして兄の耳に入れないようにしているのではと何度もいろいろな手段で兄に知らせを送ったのだけどーそればかりか、降って湧いたように松平家に養子に入るようにと、一方的な知らせが…」
喜徳のいかにも育ちの良さそうなすんなりとした細い指先が、綺麗に撫でつけられていた髪をクシャリと掻き乱した。ハラリと落ちた前髪を掻き上げもせずユラリと上げた視線には明らかに狂気の色が滲んで見えた。
「いったいなぜ、兄はこんな仕打ちをするのか!!兄に感謝し敬愛し、兄の為ならどんなことでもすると思っている僕の気持ちを兄は充分に知っているはずなのに!!それともーこの黒い噂には兄自身も関わっていて、真実を暴き出そうとする僕のことが邪魔になったので遠ざけようというのか!?」
頭を抱えてその場に崩折れた喜徳を見下ろした雪臣は深いため息をひとつつくとためらいがちに口を開いた。
「喜徳さん、そこまで思い詰めなくたっていいんじゃないー?国家間のことだしいろんな調整つけてからじゃないと動けないってこともあるよね。大体政治家ってやつはシークレットが多いもんだし…うちのオヤジだって喜徳さんが養子に来ること今朝まで俺や恭四郎に黙ってたんだから。俺だって正直オヤジにはムカついて噛みついたけどー」
自らの思いを口にしながら雪臣は父への不満が朝よりはいく分か軽減していることに驚いていた。結局いつもそうなのである、松平桂之介という人間は。
優しげで穏やかな物言いに紛れて結構な無茶振りをするものの、不思議と周りの人間は桂之介の思うように動かされてしまう。結果自分が不利益を被ったとしても桂之介に恨みを抱くこともない。たぶん桂之介自身も策を巡らしてやっているわけではないのだ。
伯母の照にしてもーと雪臣は脳裏にいつも太陽のように明るい伯母の笑顔を思い浮かべた。
照は桂之介の本妻だった敏子の父、松平敬司の養女である。先代敬司がなかなか実子に恵まれなかった為、妹の子の照を養女に迎え将来的に照の婿に松平の地盤を継がせようとしていたのだが結局、後に実子の敏子が生まれ桂之介が敏子と結婚して地盤を継いだのである。
性格が大人しく病弱だった敏子と違って、桂之介と年齢も近く男勝りで姉御肌の照は敬司と桂之介の間に入って色々な相談に乗るうちに互いに憎からず思うようになっていったらしいが、敬司の地盤を受け継ぐ桂之介にはやはり実子である敏子との結婚が必須条件であるという周囲の空気の流れで、彼らの淡い想いは自然消滅した形となった。
その後桂之介は敏子と結婚したが照は他家に嫁ぐこともなく(桂之介の事が吹っ切れなかったのだろうというまことしやかな噂が流れた)政治家桂之介を影から支えようと警察に入ったのだった。
何年か後に敏子が若くして亡くなり照との再婚話が持ち上がったが、その頃桂之介は家庭の外で雛子との間に雪臣を設けておりまたもや結婚話は流れた。だが雛子も亡くなり桂之介が雪臣を引き取った時には、男手ひとりでは大変だろうと松平家に帰ってきて幼い雪臣の面倒を見てくれたのは他でもない照である。
母に似て体が弱かった雪臣だが、心まで弱くなってはいけないと警官お家芸の剣道や護身術等も教え込まれたお陰で元来の性格もあったのだろうがかなり勝気な鼻っ柱の強い少年に育った。
桂之介が銀座で知り合った前松平夫人と再々婚を決めた時に照は再び松平家を後にしていたが、当時雪臣だけでなく今度こそは桂之介は照と結婚するのだろうと思っていた周りの者達は皆、正直呆気に取られたものであった。とりわけ母の記憶も朧気な雪臣はスパルタではあるが、優しく明るく報われなくても父桂之介に尽くす照の事を実の母以上に慕ってもおり伯母の気持ちは察していたので、どうして父は照と再婚しないのかと随分食ってかかりもしたのだが、桂之介は彼特有のちょっと困ったかのような微笑を浮かべるのみで、結局はなし崩しに前松平夫人を家に迎えてしまったのである。照自身は望みもしない事だったろうが伯母の心情を思えば雪臣としては新しく継母となった松平夫人にはどうしても馴染めなかった。家を出て一人暮らしをしたいと言った事も父は認めず、逃げ場を失った雪臣がグレかけて夜の巷を彷徨い歩き、そこで偶然恭四郎に出会った事は今になって思えば何か運命的なものを感じはするがー。
「ーやっぱり…思い出したら何だかまたムカついてきた」
それでもー。
「喜徳さん、昨日鶴ヶ城の天守で俺が恭四郎の存在に慣れ過ぎてるって言ったよね。俺、あの言葉があれから頭から離れなくてずっと考えてたんだけどー確かにそうかもしれないなって…恭四郎と暮らすようになってからあいつはそりゃもううるさくてさ…俺が弱いせいでたまに体調崩して入院したりするから自業自得なんだけど。今日は寒いから学校まで送ってくだの、うっかり窓を閉め忘れて寝ちまって翌朝熱っぽくなったらそれから10日以上毎朝キッチリ検温されたりーホントに鬱陶しいことこの上ないんだ…けどー実際俺が入院したりするとあいつはー途端に何も言わなくなってさ…もうホントに見てるこっちが心配になるほど思いつめた顔して、気づくといつもベットの側にいるんだ。病院に付き添いはいらないからって言われてるのに夜中にこっそり入ってきて明け方またこっそり出てくんだよ。夜中にふと目が覚めたら足許にあいつが居てじっと様子を伺ってるースゲェホラーでしょ?何度心臓止まりかけたか。最初の頃はオヤジの命令で俺の面倒見させられてると思ってたからてっきり手の込んだ嫌がらせしてるんだと思ってたんだ。けどーあいつ1人の時にはたぶんやったこともないような食事を作ろうとしたり…まぁひどい出来で食える代物じゃなかったからそれは俺がやることにしたけどね。でもあいつのそんな様子を見ているうちに何でなのかはわからないけど、こいつは本当に俺の事を心配してくれてるんだってのだけはわかるようになったんだ。そうしたら俺も自分自身のこと粗末に扱えなくなったんだよね。今まではオヤジは大切にしてくれてはいるけど結局は俺の言う事を正面から受け止めてはくれないし、口が裂けても恭四郎の前じゃ言えないんだけど」
照れ臭そうに肩をすくめながら雪臣は喜徳に向き直った。
「だから喜徳さんには感謝してるー大事な事に気づかせてくれて…喜徳さんが言ってくれなきゃ俺、恭四郎に当たり散らしてあいつに愛想つかされてたかもしれない」
「なんで…なんでそうまっすぐに居られるんだ!?」
「え?」
苦しげに喜徳の表情が歪む。
「喜びも悲しみも君は常にまっすぐに表すんだね……僕にはそれが出来ないんだ…兄に…聞きたいことはたくさんあるのにー嫌われたらと思うと心が竦んでしまって何も言い出せなくなる。そうしているうちに心の中で闇をいっぱいに育て上げてしまってーその闇に喰われてしまった…すまない、雪臣君。君に危害を加えるつもりはなかったのにー」
「喜徳さん!?どうしたの、何を言っー」
再びうずくまった喜徳の肩に手をかけた雪臣は、だがその異様な全身の強張りに思わず手を離していた。
「喜徳さん…」
喜徳の目は床の一点を見つめたまま全身が固まっていた。よく見るとその上小刻みに震えている。どこか痛むのかその表情は苦悶に歪んで、額には薄っすらと脂汗が浮いていた。
「喜徳さんッー!!おいっ誰か!誰かいないのかっ!?」
様子が急変した喜徳を置いて部屋を出るのは危ういと判断した雪臣は出来うる限りの声を張り上げて助けを求めた。どのような意図で盛られたのかわからない睡眠薬はまだ体に残っているらしく、大声を上げると頭痛とめまいが襲ってきた。しかしここで大人しく倒れているわけにもいかない。
「クソッ!!誰か…」
ガラッと音がした方にとっさに首を巡らすと、そこにはダークスーツを着たビジネスマン風の白人男が立っていた。
「ヘイ、ノブノリ!!」
喜徳とは顔なじみなのか、馴れ馴れしげに声をかけたがその表情にはあからさまに侮蔑の色が滲んでいる。次の瞬間、男の口からついて出た英語が雪臣を凍りつかせた。
「そろそろヤク切れの時間だろー持ってきてやったぜ」
男が懐から取り出したのは平たい銀色の金属ケースだった。手慣れた様子で中を開けるとそこには1本の注射器が入っていた。つかつかとうずくまっている喜徳の傍らに来たかと思うと男は乱暴に喜徳の腕を取って着ていたシャツの袖を造作もなくたくし上げた。
「ー何しやがるっ!?」
「NO!!」
思わず男の腕にしがみついた雪臣だったが気がつくと次の瞬間思いきり手を振り払われ、部屋の隅に吹き飛ばされていた。
「クッー!!」
錆びた鉄の味が口の中に広がった。どうやら唇の端が切れたらしい。めまいがして立ち上がれない雪臣はだが射殺すような眼差しで男を睨みつけるのをやめなかった。しかし男の方は涼しい顔でいとも簡単に喜徳の腕に注射器を突き立てた。ぐったりとしてうなだれたままの喜徳にどうにも我慢できなくなった雪臣は絞り出すような声を投げつけた。
「何やってんだよ、喜徳さんーあんた、一ツ橋首相を助ける為に留学したんじゃなかったのかよ……」
しかし雪臣の言葉に反応したのは果たして日本語を理解しているのかも怪しい外人男の方だった。
「ピーピーいちいちうるせぇぞ。そう騒がなくても…待ってろー」
ユラリー喜徳から離れた男はゆっくりと振り向き、雪臣の方へ歩を進める。
「今からお前にも天国を味あわせてやるよーボスからのお達しだ」
いつの間に取り出したのか、男はまたもや新しい注射器を握りしめていた。
『っくしょー…夏に死に損なってからまだ半年も経っちゃねぇのに…何だって次から次にこうやってやっかいな事に巻き込まれんだ?』
「ヘヘッ睨んだって無駄だぞ。こんな細っこい首根っこ、一瞬でへし折ってやるぜ。痛い目見たくなけりゃ大人しくしてるんだな」
ガシリと男に掴まれた自らの腕を眺めた雪臣は自分でも何と都合主義だなと半ば自嘲気味に思いながら、それでも彼の同居人の名を思い浮かべずにはいられなかった。
『恭四郎ッー!!』




