玻璃の静謀ー赦し1
松平雪臣はある朝突然、父である桂之介から「養子を迎える」と告げられる。
養子となる総理大臣の異母弟・喜徳を地元選挙区である会津へ案内するよう命じられ、雪臣は不安と戸惑いを抱えながら恭四郎、綾と共に旅に出る。
しかし会津で彼らを待っていたのは喜徳だけではなかった。
恭四郎の過去を揺るがせた女・萱野たつ子、そして彼女を裏で操るアメリカ人実業家アームストロング。
恭四郎とたつ子の大学時代の同窓生・神保修の死を巡る未完の感情が掘り起こされ、雪臣と恭四郎の心はすれ違い、深く傷ついていく。
やがてたつ子の陰謀によって雪臣は誘拐され、横田基地へと連れ去られる。
恭四郎、隼人、そして雪臣の伯母である照を中心とする警視庁組織犯罪課は雪臣を救うべく危険な作戦に踏み込む。綾もまた、後悔と覚悟を胸に単身その渦中に飛び込んでいくのだった。
過去の罪、誤解、嫉妬、そして愛。それぞれが誰かを傷つけ誰かに救われながら"赦し"は静かに形を変え、雪臣と恭四郎の絆を新たに結び直す。
彼らはようやく気づくのだった。"赦し"こそが人を未来へ進ませる唯一の光であることを。
1️⃣
トゥルルル、トゥルルルー。
かすかに響く電子音に、雪臣の意識は徐々に覚醒していた。
『もう7時か…起きなきゃな。今日は恭四郎ー』
そこまで考えた時、枕元を探っていた雪臣の手はハタと止まった。
『ん?待てよ、確か今日は日曜日だったんじゃなかったっけ?』
次の瞬間パチリと目が開いた彼は、その音が目覚ましではなく電話だったことにようやく気もがついたのだった。
「うわぁーッ待てっ!切れるなッ!」
ガバと跳ね起き、ベッドから転げ落ちそうになりながらもようやく受話器を取った雪臣の耳に飛び込んできたのは聞き覚えのある初老の婦人の声ー。
「ーはい?松平ですけど…」
「もしもし?坊っちゃまでいらっしゃいますか、おはようございます。まつでございます」
それはこの松平の家を取り仕切っている家政婦の声だった。
「あ、うん…どうかしたの、まつさん。電話かけてくるなんて…」
急いだ拍子にぶつけた足を擦りながら、雪臣は窓際に置いてある時計を見ようと目を細めた。
7:30ーいつもならまつの用意した朝食が食卓に乗っている頃なのだが。
「それが……」
まつと名乗った家政婦は、電話の向こうで困り果てたようにため息をついた。
「ゆうべ、嫁いでおります娘から電話が入りまして…2才になります下の孫が、アパートの階段から落ちたそうなんでございます」
「そりゃあ…」
「いえね、幸い怪我の方は大した事はないそうなんでございますけども、頭を打っているといけないので今日一日は入院させて様子を見ましょうとお医者様がおっしゃられたそうで、私が上の孫の面倒をー」
「わかった、まつさん。ゆっくりお孫さんの面倒を見てあげて。父様には俺から言っておくからさ」
黙って聞いていると永遠に続きそうなまつの話を、雪臣は素早く結論付けた。
普通18才の少年がこういう手段に出ると、若い者は礼儀がなってない、人の話には耳を貸さないなど非難の嵐を食らうのが落ちだが松平雪臣の場合、その美貌と憎めない口調が相まってどういうわけだか反感を買うということは滅多になかった。
「ーではお言葉に甘えさせていただきます、坊ちゃま。今朝のお食事の下ごしらえは冷蔵庫の中の段に入っておりますので…10時になりましたら律子さんが来るかと思いますが…」
「うん…うん、大丈夫だからまつさん。心配しないでよ。こっちはテキトーにやるからさ」
ふいに込み上げてくるあくびを噛み殺した時、電話の向こうで火のついたような子供の泣き声が響いた。どうやらすでに娘の家にいるらしい。
「あっ、ほらお孫さん泣き出しちゃったよ。じゃ、ね…」
電話を切って今更のように部屋の中を見回す。
簡素なベットと作り付けのクローゼット。ライティングデスクの上には薄いノートパソコンが置かれているのみ。自室と呼ぶにはどこかよそよそしい雰囲気だ。ホテルの一室とでも言えば一番ぴったりの表現かもしれない。
事実、雪臣はそのつもりで使っていたのだ。時が経てばこの部屋から出ていくつもりだった。遅くても夏の終わりまでには。
ここは世田谷区成城。閑静な住宅街の中でも一層閑静な一角に建つ、現国家公安委員長、松平桂之介の自宅である。
桂之介の一人息子である雪臣は15の年にこの家を出て以来、代官山のマンションで暮らしていたが、2ヶ月前の夏の初めに起きたある事件によって、彼の生活環境は否応なく一変する羽目になった。
ある事件ー元首相、山内と彼の第一秘書伊達賢章の汚職発覚ー世間への表向きはそうなっていたが、実際の所は山内の政敵である桂之介を倒さんが為に、松平家の内紛を利用され、雪臣は危うく殺される寸前だった。彼らは継子と折り合いの悪かった松平夫人に罪を着せ、雪臣と共に汚職の資料を炎で葬り去ろうとして失敗したのである。
幸い無事事なきを得、命だけは取り止めたものの、心臓病の持病のある雪臣は発作を起こし、しばらくの間入院を余儀なくされたのだった。
それを見た桂之介が黙っているはずもない。元々、周りが恥ずかしくなるほどの息子への溺愛ぶりなのである。妻が出ていったのをいいことに退院した息子をさっそく手許に呼び寄せて、嫌がる反応にもめげず、"せめて夏休みの間だけでも"と拝み倒して同居の許可を取り付けた。
ところが今はもう9月も半ばーさすが口が商売道具の政治家である。夏休みが終わって半月も経つのに、雪臣は桂之介の巧みな口車に乗せられて未だ代官山に帰れずにいた。
「おはよう、カイザー食事だぞ!」
ドックフードの入った皿を片手にグルカショーツとタンクトップの上からデニムシャツを羽織った雪臣は、庭に大人しくうずくまっていたゴールデンレトリバーに呼びかけた。
"ワンッ"嬉しげに答えた犬は一目散に華奢な雪臣に飛びかかってきた。
「わかったから、カイザー…そう飛びかかるなよ。おいってばー俺はドックフードじゃ…ないぞ…少し静かにしろってば。父様と恭四郎が起きちゃうだろ…がー」
「私が…何です?」
「ー恭四郎…?」
「おはようございます、雪臣様。まつさんはどうしたんです?さっき母屋の方で電話が鳴っていたようですが」
鳴き納めと言わんばかりにうるさい蝉の大合唱を背に立っていたのは但馬恭四郎。休日の朝で普段よりは幾分カジュアルな格好をしているとはいえ、相変わらず隙のない鷹のような目をした男を見て、雪臣は朱い唇からかすかな吐息を漏らした。
「恭四郎、ちょっと醤油を取ってくれーあ、そっちの右側の方…違うだろーそれはソースだよ…だぁぁーッ!もういい。お前あっち行って皿でも並べてろよ」
「でも雪臣様ー」
「お前がいると邪魔なの!"己の成すべきことを成す"!!お前の口癖だろ?学校への送り迎えをしないでいいって言った俺に、お前確かそう言って強引にくっついてきたよなぁ?確か」
恭四郎は目の前に突きつけられた菜箸と、透き通るほどに白い雪臣の貌を交互に見比べ、その涼やかな双眸に薄い笑みを滲ませた。
「ーわかりました…じゃ、よろしくお願いします」
鷹揚に頷いた雪臣は満足そうに、出て行く恭四郎の背を見送った。台所に立っていると単なる木偶の坊にしか見えないが、この男の有能さは誰よりも雪臣が一番知っていた。
但馬恭四郎ー雪臣の父、桂之介の秘書見習い兼、雪臣の保護者代理、そしてボディーガードでもある。
彼と雪臣の共同生活は雪臣が代官山のマンションに移った時に始まった。当時大学を出たばかりだった彼は以来3年間、仕事と雪臣の後見を見事に両立させ、桂之介に絶大な信頼を寄せられていた。
去年、心臓病で雪臣が倒れた時、そしてこの夏の一連の汚職事件で横浜港の倉庫に軟禁された時、雪臣を看病し救ったのはこの男だった。いざとなると頼りになる性格に加えて、長身白皙の美丈夫である。さぞかしもてるだろうと思いきや、浮名一つ流す様子もない恭四郎に雪臣も最初は首を傾げたが、やがて仕事が多忙なのだろうとなんとなく納得していた。
コポコポとコーヒーメーカーから香りのいい湯気が立ち上っている。完全に湯が切れたのを確認した雪臣は芳ばしく薫る液体をカップに注いでダイニングテーブルに置いた。
「ほら、恭四郎ー」
一日の始まりと終わりのブルーマウンテンのブラックーそれが恭四郎の嗜好品に於ける唯一のこだわりだった。
「雪臣様の入れて下さったコーヒーはやっぱりおいしいですねー」
しみじみとした恭四郎の口調に、味噌を溶かしていた雪臣様の手がカクンと止まった。
「…くだらない事言ってないでさっさと飲んじゃえよ!親父が起きてきたらすぐに朝食だぞ」
ダイニングに差し込む秋の白い陽差しの中で、恭四郎は雪臣の背に微笑を投げかけた。




