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喫煙所

作者: 通りすがり

都内にある大手食品会社の社員である田中。

地方にある支店でトラブルがあり、その対応のため直属の上司である部長と共にその支店へと出張してきていた。

支店は駅前に広がるオフィス街の一角にある雑居ビル内にあり、周囲を同じような雑居ビルに囲まれていた。雑居ビルは6階建てで、その5階に支店がある。

支店に到着するなり、今回のトラブルで迷惑をかけた関係各所への謝罪のため、日中はずっと部長と外回りとなった。

夕方支店に戻ってからは本社とテレビ会議にて今後の対策と方針について話し合っていた。

気がつけばすでに時刻は22時近くになっている。

みな夕食を食べていなかったこともあり、ここで一旦休憩することとなった。

支店の社員が近くのコンビニへ全員の分のお弁当を買い出しに行ってくれている間に、田中はタバコを吸おうと席を立った。

実は田中は時間があればタバコを吸わずにいられないくらいのヘビースモーカーだったが、タバコを吸わない部長とずっと一緒だったこともあり、その間タバコを吸うのを我慢していた。

昨今の分煙という世の流れを受けて、支店内は全面禁煙となっていたため、支店の社員の一人にタバコが吸える場所はないかと尋ねた。

すると、ビルの屋上に喫煙できるスペースが設けられていると教えられる。

ただ、屋上への出入口の扉は夜になると施錠されてしまうので、おそらく屋上へは出られないだろうと言われた。

田中は他にタバコを吸える場所はないかと尋ねたが、ビル内には他には無いらしい。

今は路上喫煙もできないので、そうなると今タバコを吸える場所は他にはどこにもないことになる。

どうしてもタバコが吸いたい田中は一縷の望みを託し、屋上へと行ってみることにした。

屋上へは階段でしか行けないと聞いていたので、階段を2フロア分昇って屋上の入口まで来た。

屋上へ繋がる扉の取っ手を回すと意外なことに手応えもなくスルっと回る。つい「おっ」と期待の籠った喜びの声が出てしまう。

そしてゆっくり扉を押すと、軋む音とともに扉が開いた。

「ラッキー、今日は施錠を忘れているみたいだ」

タバコを吸える喜びで、扉を潜っていそいそと屋上へと出ていく田中。

屋上を見渡すと、扉を出て左端の角のところに金属製の縦置きの灰皿と年季の入ったボロボロのベンチが置いてあるのが見える。あそこが喫煙スペースだろう。

田中はそこに向かいながら待ちきれないとばかりに、ポケットからタバコとライターを取り出すと、歩きながら火を点ける。

田中は煙を肺にいっぱい吸い込み、そして煙を吐き出す。やっとタバコを吸えた喜びに浸りながら 体にニコチンが染み渡っていくのを感じていた。

早々に一本目を吸い終わり、さらにもう一本とタバコを口に咥えて火を点ける。

一本吸って気が落ち着いたのか、二本目のタバコを吸うときには周囲の様子を見る余裕が出てきた。周囲を見るとどのビルも明かりが消えている。もう23時近くだから当然と言えば当然だった。

支店の前には片側一車線の狭い道路が通っているが、その道路を挟んだ反対側にあるビルに何気なく視線を向けたその時、視界の中になにやら動くものが見えたような気がした。

そのビルは全面ガラス張りとなっていて、中は真っ暗だが、よく見ると僅かに人と思わしき影が動いているのが見えた。

田中は、こんな時間に電気も付けずにいったい何をしているのだろうと興味を持ち、さらに目を凝らしよく見てみる。

その影は右に左にと動き回っている。

もしかしたらビルの警備員ではないかと一瞬だけ思ったが、それならば懐中電灯など明かりを持っていないのは不自然だった。

ならば泥棒だろうか。タバコを咥えながら田中はその人らしき影の動きを目で追い続けた。

するとその影は田中の存在に気づいたようで、田中に向かって手を振るような動作を始めた。

いったいどういうことだろうか。何か緊急事態でこちらに助けを求めているのだろうか。

田中はその影を見るのに夢中になり、いつの間にか気づかずに屋上の柵に寄りかかるようにして身を柵の外に乗り出しかけた。

そのとき、静寂を破りけたたましい音をあげて田中のスマホが鳴り始めた。

慌ててポケットからスマホを取り出し画面を確認する。電話は部長からだった。

電話に出ると、弁当を買ってきてくれたから食べに戻るようにとの連絡だった。

食事をしたらまた会議の続きをするから早くするようにとも言われる。

田中は吸っていたタバコを灰皿に押し付けるようにして揉み消し、慌てて屋上から支店のある5階に戻る。

今日は何時にホテルに戻れるのだろうと憂鬱な気持ちで戻っていく田中は、先ほどまで見ていた影のことはすっかり頭の中からは消え失せていた。


翌日も朝から会議や打ち合わせでバタバタしていたが、昼前にはやっとトラブル対応にひと段がついた。そして田中はタバコを吸おうと屋上へと向かう。

屋上に出ると、喫煙所には昨日の夜に弁当を買いに行ってくれた社員がタバコを吸っているのが見える。たしか名前は伊藤さんだったはずだ。

「伊藤さん、お疲れ様です。私もいいですか」と声をかける。

振り向いた伊藤は笑顔で「どうぞ」と言って灰皿の前のスペースを開けてくれた。

田中はポケットからタバコを取り出しながら昨夜弁当を買ってきてくれたことに、あらためてお礼を言った。

そして田中は苦笑を浮かべた。

「今時、喫煙者はどこに行っても大変ですよね」

伊藤は首を傾げてどういうことだろうという表情をしている。

「いや、今はどこも禁煙でタバコが吸える場所を探すのも大変ということですよ」

合点がいったように伊藤は深く頷いた。

「そうですね、このビルもここ以外だとタバコ吸える場所はないですからね」

田中はタバコを口に咥えて火を点けた。

「実は昨日の夜、伊藤さんがお弁当を買いに行ってくれている間にここにタバコを吸いに来たんですよ。夜は屋上への扉は鍵が閉まっていると言われていたからどうしようかと思っていましたが、来てみたら鍵が開いていたから助かりました」

伊藤はそれを聞いてえっと驚いたような反応をした。

もしかしたら夜に屋上に出るのは駄目だったのかと思い、田中は訊いた。

「なにかまずかったですかね」

伊藤はなにか言いづらそうにしながらも話し始めた。

「まずいと言いますか......実は、このビルでは屋上の扉は20時になるとビルの警備員の方が鍵を閉めるのが規則になっています。昨日の夜、鍵が閉まる前にタバコを吸おうと思って20時少し前くらいに僕はタバコを吸いにここに来ました」

そこで伊藤は吸いかけのタバコを灰皿に押し込むようにして消してから、そのまま吸い殻を灰皿に捨てた。

「タバコを吸い終わるのと同時くらいのタイミングで警備員が来たので、私が屋上から出るとすぐに警備員は扉に鍵をかけました。僕はそれを横で見ていました。ですので、昨日は20時以降は屋上に出れなかったはずなんですよ」

今度は田中が驚く番だった。

「でも実際、自分が来たときは鍵は開いていて屋上には出れました。もしかしたら警備員は閉めたつもりで閉め忘れたとかはないですか」

伊藤は首を振ってそれを否定した。

「いや、それはないです。鍵が閉まったのを取手を回して確認しているのを僕も一緒に見ていましたから」

田中はまるで自分が嘘を言っているかのように思われているんじゃないかと焦りの気持ちが湧いてきていた。

「本当に自分は昨日の夜屋上に出てタバコを吸ったんですよ。鍵が閉まっていたのなら自分はどうやって屋上に出られたのか。そうだ、もしかしたら他に誰か合鍵でも持っているのでは」

伊藤は再び首を横に振る。

「このビルは過去にいろいろあって夜には屋上に出れないようにと厳しく管理しているはずですから、合鍵はないように思います」

田中は混乱した頭で、ではなぜ自分は屋上にでることができたのかの理由を必死に考えた。だが、いくら考えても鍵が開いていたという事実だけしかなかった。

そのとき伊藤が突然、何かを思い出したように目を見開いた。

「田中さん、もしかして昨夜屋上で変なものを見ませんでしたか」

突然の問いかけに困惑しながらも、田中は昨夜のことを混乱した頭で必死に思い出そうとした。

「変なもの......うーん。いや、何も見ていないと思いますが」

田中はなぜ伊藤がそんなことを訊くのだろうといぶかしがっていると、伊藤はそんな田中の様子に気付いたようだった。

「実は一つだけ思い出したことがあるんです。半年ほど前にうちを辞めた社員で山本さんという人がいたんです。山本さんはかなりのヘビースモーカーで頻繁にここにタバコを吸いに来ていました」

伊藤はそう言って灰皿を見つめる。

「山本さんがある日残業した際に、20時は過ぎていましたがどうしてもタバコを吸いたくてダメ元で屋上に来たところ鍵が開いていて屋上に出れたことがあったと話していたのを思い出しました」

「それって、自分と同じだ」

伊藤は深く頷いた。

「そうなんです。そしてその際に山本さんは変なものを見たと言っていました」

「変なものってなんなんですか」

田中はその変なものが何なのか気になって仕方がなくなっていた。

伊藤は右手を上げると向かいのビルを指差した。

「道を挟んだこの向かいにあるビル、そのビルの中で動く人影が見えたそうなんです」

田中はそれを聞いて急に昨夜の記憶が蘇ってきた。

「ああ、変なものってそれのことですか。自分もそれなら見ましたよ」

伊藤はそれを聞いて息を呑んだ。だが田中はそんな伊藤の様子に気づかず話を続ける。

「その影はこっちに向かって手を振るような仕草をするんで、何だろうとよく見ようとしたときにちょうど部長から電話がかかってきたんですよ。早く弁当を食べに戻るようにとのことだったので慌てて戻ったんですよ。すっかり忘れてました。たしかに言われれば変なものかもしれないけど、あれはなんだったんでしょう」

伊藤は自分を落ち着かせようとしたのか、そこでタバコを一本取り出すと火をつけ深く煙を吸い込むとゆっくりと吐き出した。

「山本さんもその影が何をしているのかが気になったみたいでしたが、いくら目を凝らして見ても暗くてよく見えなかったようです。それでさらによく見ようと、屋上の柵から身を乗り出すようにして向かいのビルを見たようなんですが、その瞬間に突然背中を強く押されたらしいです」

田中は自分も柵から身を乗り出して見ようとしていたことを思い出してドキリとした。

「山本さんは慌てて柵に捕まったので、柵を乗り越えてビルから落下することは避けられたそうです。自分以外に誰か屋上にいるのかとすぐに見て回ったようですが、屋上には山本さん以外には誰もいなかったみたいです。山本さんは怖くなり、それ以来ここでタバコを吸うことが出来なくなってしまったと言っていました。そしてしばらくして会社も辞めてしまいました」

田中は、もしあのとき部長から電話がなかったら自分も山本さんと同じようになっていたかもしれないと思うと、身体の中から湧き出る恐怖を抑えられなかった。

「実はこのビル、過去に何度か夜に屋上からの飛び降り自殺があったみたいです。そのために本当は屋上に出ることを禁止にしたいみたいですが、他に喫煙スペースが作れないので、仕方がなく日中だけ開放しているようです。」

田中はもはや返す言葉はなくただ伊藤の話に頷くだけだった。

「ただ、山本さんの話で一つだけ気になるところがあるんですよ」

そういうと伊藤は向かいのビルを再び指差した。

「山本さんは向かいのビルの中に人影を見たと言っていましたが、そんなことは絶対にありえないはずなんです」

田中は向かいのビルをあらためて見る。全面ガラス張りのビルには周囲のビルと周辺の景色が映り込んでいる。

「あっ」

田中は伊藤が何を言おうとしているのかが分かった。

「そうなんです。向かいのビルの窓ガラスは中からは外は見えるけど、外からは中は見えないんです」

田中はそのときに寒くもないのに全身に鳥肌が立つのを感じた。

ならば、昨夜あのビルに見えていた人影はガラスに映ったものだったということになる。そしてその影がいたのは......。

今、向かいのビルの窓ガラスには、こちらのビルの屋上に立つ二人の姿がしっかりと映っていた。

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