前輪の向こう側
トラックに撥ねられると、異世界に転生できる――そんな噂が、やがて世界を覆い尽くす現実となったのは、わずか数年前のことだった。
いつからか、SNSには「異世界で第二の人生を!」と豪語する投稿が溢れ、街角の掲示板には「トラックの走行予定表」が貼られるようになった。政府は大混乱に陥り、やむを得ず「異世界転生撲滅対策本部」なる組織を立ち上げたが、すでに多くの人がトラックへ身を投げていた。
僕は、そんな世界でトラックの運転手をしている。
事故死した人間が異世界に行くというのなら、僕が轢いてしまった数百の人間は皆、あの世ではなく別の世界で生きているのだろうか。
そう思えば、幾らか救いも感じるが、同時に無力感に苛まれる。
僕が轢くたびに、その人はどこかへ旅立ち、僕だけがこちら側に残される。
そんな世界に、僕は心底疲れ果てていた。
路肩に立つ若者の目は、希望に燃えている。
「お兄さん、もうちょっとスピード出して!」
笑顔で言うその姿は、死を恐れるどころか、むしろ生き生きとしていた。
僕は唇を噛み締め、アクセルを踏み込む。
ミラーに映る若者の顔が小さくなると同時に、心の奥で何かが鈍く壊れる音がした。
それでも、僕は止まれない。
この世界の誰かが言った。
「このままじゃ、トラックは死の門であり、同時に救いの扉だ」と。
転生を望む人々は、死を軽んじているのではない。
この世界で生きることを、諦めてしまったのだ。
夢を見られないこの世界から、夢が叶う世界へ――その想いが、死を超える衝動となって、道路に立つ。
僕自身も、そんな世界に馴染んでしまった。
毎日ハンドルを握りながら思う。
異世界に行けるのは、轢かれる者だけなのか。
運転する僕には、その権利すらないのか。
もしこのトラックごと異世界へ行けたなら――。
そんな妄想を、いつか真剣に願う日が来るのかもしれない。
その日も、空は青かった。
若者は手を広げて、まるで飛び立つ鳥のように笑った。
僕はまた、アクセルを踏む。
これが救いか破滅かも分からないままに。
世界は、加速をやめられなかった。
トラックは今日も走り続ける。
命を運ぶでもなく、夢を運ぶでもなく、ただ空虚を轢き続ける。