3 邂逅
髪の長い女性は、赤い大きな岩の近くで沈んだ表情をしたまま座っている。ダイチからはかなり距離をとって、右手には剣を握っていた。ダイチが体を動かすたびに、その女性はダイチに警戒の視線を送った。
女性は、藤色の長い髪、透き通るような白い肌、無色透明の瞳、年齢は20歳前後といったところだった。
「・・・それでは、貴方には記憶がないと言うことなのですね」
「ええ、住んでいた場所だけでなく。名さえも思い出せません」
ダイチは、魔物がいて、魔法のあるこの異世界で、この女性と会話が通じていることが不思議であった。
「お気の毒ですね。不安も大きい事でしょう。私も似た様なものです」
「ダイチ様、私は、これからどうすればよろしいでしょうか」
「魔物や魔法のあるこの世界の事は、私も知りません。でも、まずは、生き抜く事だと思います。貴方の記憶は、やがて戻る時があるでしょうから」
「まずは、生き抜く事・・・ですね」
「貴方・・・名がないと呼びづらいですね。仮の名でもあった方が、貴方も安心できるでしょう」
「名・・・何が良いかしら・・・」
「そう言われても・・・」
「名は、自分でつけるものではないと記憶しています。ダイチ様がつけてください」
「え・・・うーん、無色透明の瞳が印象的なので、アイはどうですか」
女性は突然、川辺にある岩を見つめ、走り出した。
ダイチは、驚いて女性の後姿に声をかける。
「あ、あのー、アイが気に入らないなら、他の名を考えます。気を悪くしないでください」
女性は岩に溜まった水に映った自分の瞳を覗き込んだ。
「・・・なるほど、私の瞳は、まるでガラス玉の様に透き通っていたのですね」
女性はにっこりと微笑み、ダイチの下へ戻って来た。
「アイという名前を、気に入りました。これからは、アイと呼んでください」
「あはははは、俺は、てっきり気に入らなくて、怒ったのかと思いました」
「私の体の特徴です。気に入らないわけがありません。ありがとうございます」
ダイチは、やれやれと胸を撫で下ろした。
「お腹がへってはいませんか。魚を取って来ます。アイはここにいて、体を休めていてください」
そう言うと、ダイチは立ち上がった。
ダイチが魚を捕まえ赤い大きな岩に戻ると、アイは赤い大きな岩の脇で寝ていた。
「溺死しそうになったのだ。きっと、怖かったろうに。体も衰弱しているのだろう・・」
ダイチは、スエットの上着をアイに掛けた。
ダイチは、手慣れた手つきで火を起こすと、串に刺した魚を焼いていった。
アイが目を覚まして、スエットを羽織ったままダイチの脇に歩いて来た。
「何をしているのですか」
「取って来た魚を焼いています。少し待っていてください」
「私に出来ることがあったら、何でもおっしゃってください」
「今は寝ていなさい。体力が回復したら、手伝ってもらいます」
「はい、それでは、お言葉に甘えさせていただきます」
アイは、赤い大きな岩にもたれかかると、ダイチの横顔から覗く、真剣な眼差しを眺めていた。程なくして、アイは、寝息を立てていた。
「アイ、これを」
ダイチが、焼けた魚をアイに差し出す。アイは目を開けると、羽織っていたダイチのスエットをたたみダイチに返した。
「ありがとうございます」
アイは串を持って、魚を一口頬張る。
「フーッ、フーッ・・・ハフッ、ハフゥ・・・お、美味しい」
アイの表情が、ぱっと明るくなった。
「それは良かった」
ダイチは、微笑むと串を持って魚の腹の辺りをガブリと食らいつく。はらわたの苦みが口の中に広がる。
「ホフッ、ハフッ、この苦みも最高。この世界は魚が最高に美味い」
「とても美味しい。ダイチ様、骨には気を付けてくださいね」
その日の夜は、2人とも河原の赤い大きな岩に背を預けながら寝ることにした。
ここは昼間に見た熊の魔物やミノタウルスなどの住む世界。さすがに怖くてこのままでは寝られない。河原より高い木の上の方が安全かと考えて、クローに尋ねた。
すると、この場所は魔物に襲われる可能性が極めて低いと回答してきた。何でも魔物が忌み嫌う石がこの河原に散らばっているとのことだ。この河原でよく見かける赤い石のことで龍神赤石と言うそうだ。
昨夜は、偶然にもこの龍神赤石の岩の脇で泣き疲れて寝込んだ。昼間の熊の魔物とミノタウルスの戦いを観たり、熊の魔物と目が合って身を隠したりした岩もこの龍神赤石だ。偶然か本能の成せる業かはどうでもよいことで、結果オーライだった。
だから、今夜も、河原にあるこの大きな龍神赤石の岩に背を預けて寝ることにした。河原に落ちている龍神赤石もいくつか拾って、アイテムケンテイナーに格納しておいた。
「ダイチ様、星がとても綺麗です」
「あぁ、美しい夜空です」
「この星々を綺麗と感じられるのも、ダイチ様が私を助けてくれたお陰です」
「アイ、ダイチ様という呼び方は、止めにしないか」
「え、でも、私の命の恩人です。ダイチ様とお呼びするのは当然です」
「命の恩人と言われても・・・人として当然の事をしただけです」
「その当然のことで、私の命は繋がりました。私に生を与えてくださった両親と同じく、恩人です」
「・・・アイのご両親と同格にまでなるのですか」
「はい。では、こうしましょう。私が受けた御恩は、必ずダイチ様にお返しします。その時までは、ダイチ様と呼ばせてください」
「アイ、恩返しなどを考えずに、自分のために生きてほしい」
「ありがとうございます。でも、命は唯一無二のものですから・・あ、流れ星が・・・」
アイが夜空を指さす。
「この過酷な世界でも、深い夜空には神秘を感じ、流れ星には胸をワクワクさせられる。人間は鈍感なのか、はたまた強いのか・・・感動の心は抑えられない」
ダイチは、岩に背をもたれかかったまま、もう戻ることのできない世界の事をふと思い出す。
胸を締め付けられる様な思いが込み上げて来たが、ダイチは、そのままこの赤い大きな岩の脇で眠りに落ちた。
眩しい朝の光で目が覚めた。昨夜は龍神赤石の岩に背を預けて寝てはみたものの、やはり魔物が気になったり、河原の石で足腰が痛かったりして、何度も目が覚めていた。川の水を頭からかぶって、まだボーっとした頭に喝を入れた。
「アイ、今日は、良い天気になりそうだ。村を探しに下流へ行ってみるか」
「はい、街か街道を見つけられれば、何とかなるかもしれませんね」
「薪が切れたので1時間ほど、薪拾いに行ってきます。アイは、水浴びや洗濯など好きな事をしていてください」
「私も行きます」
「いえ、1人の方が行動しやすいので俺だけで行きます。その赤岩からは離れないように」
ダイチは、小1時間、程薪拾いに出た。勿論エクスティンクションのイメージトレーニングをしながらである。後は恒例の魚捕りから焼き魚。
焼き魚を頬張りながらも、エクスティンクションについて考えていた。
「1点のイメージに違和感があるのだよなー」
焼き魚の味よりも、やはりこちらが気になる。心ここに在らず、串から焼き魚がポロリと河原に落ちる。
「ああ、もったいない。魚の命をいただいているのだから、粗末にはできない」
と言いながら、落とした焼き魚についた砂を手で軽く払ったり、息を吹きかけたりした。それから、手で握ったまま口に入れた。噛むとガリッ、ペッ、ペッ、砂が付いていた。
「うわ、ジャリッとした。砂を奥歯で噛む感覚、これは嫌だ」
などと、渋い表情を浮かべていたが、突然立ち上がり右に左に歩き始めた。
「ダイチ様、大丈夫ですか」
ダイチは、アイの言葉も耳には入らない。
「そうか、エクスティンクションの1点へのイメージで感じていた違和感が、何なのか分かった」
その時であった。
「あんたたちは、誰だ」
と、後ろから太い声がした。
慌てて振り返った。背中に大剣を背負い、精悍な顔立ちと逞しい体躯をした30代後半の男性がそこに立っていた。
声をかけてきた男は身長が180㎝半ばはありそうで、筋肉質のがっしりとした体躯をしていた。左目の横から頬にかけて傷跡があり、その精悍さを一層際立たせていた。黒いつなぎに袖のない茶色の皮ジャケット、足首の上まである頑丈そうな革の黒い紐靴を履いていた。背負っている大剣から手練れの冒険者、若しくは山賊の棟梁を連想させた。
ダイチは咄嗟にアイを背で守った。
「俺は・・・」
いきなりの出来事に言葉が詰まっていると、
「おおぉ! あんたの後ろにある岩は、龍神赤石ではないのか」
と、精悍な顔立ちの男性は岩を指して言った。
「あ、は、はい。そうみたいです」
男性は無言のまま岩の脇まで歩いて行って、
「ほほー、これは見事な龍神赤石だ。俺もここまでの大きさと艶をもった石があることを想像すらしたことがなかった」
岩を両手で撫でながら言った。続けて、
「この岩はあんたが見つけたのか。よかったら少し分けてもらえないか。勿論金は出す」
矢継早の質問に、ダイチはしどろもどろしている。
「私は、ダイチ ノミチ、こちらはアイといいます。この岩を見つけたのは私ですが、この河原にはまだまだ龍神赤石が落ちていますよ」
「なんだと」
男性は辺りを見回し、河原に転がっているいくつもの龍神赤石に目を止めた。
「おおぉ、そこらじゅうにあるじゃねーか・・でも、お前、ダイチが見つけたものだろう。高価な鉱石は、見つけたものに所有権があるのが常識だ。あ、悪い。俺は鍛冶職人のバイカルだ。龍神赤石を見てつい先走った」
ダイチは首を振りながら、
「どうぞ、私はもう十分ですので」
「悪いな」
と、バイカルは片手でダイチを拝むと、足元に降ろしてあったサンドバック型のバックを拾い上げた。
バックの口から小型の弓と数本の矢が見えた。バックに入っていた薪を取り出し、河原にある龍神赤石に詰め替えていった。
「感謝する・・・俺も家族を魔物から守らないといけないからな」
と言いながら、龍神赤石を何個も拾っていた。
俺はまだ出合ったばかりのバイカルさんに半信半疑でいた。魔物のいる森の中で一体何をしていたのかが気になった。逃亡者か山賊の斥候の可能性もある。こっそりとアイテムケンテイナーからクローを手に取って、ボソボソと唱えてからページを読んだ。
氏名:バイカル 年齢:39歳 性別:男性 所持金:1,905,882ダル
種 :ホモ・サピエンス
称号:鋼の逸品を鍛えし者
ジョブ・レベル:冒険者・ レベル 51
騎馬戦士・ レベル 10
鍛冶特級職人・レベル 67
体力 437 物理攻撃力 412
魔力 0 物理防御力 494
俊敏性 183 魔法攻撃力 0
巧緻性 241 魔法防御力 238
カリスマ性 132
ジョブスキル
〇両手剣攻撃力微増
〇焼き入れの妙技
バイカルさんは、精悍さと逞しい体躯だったから、悪人ならどうしようかと警戒していたけどれも、本当に鍛冶職人だったのですね、素直に信じられなくて申し訳ない。などと考えながらクローをアイテムケンテイナーへしまった。
「龍神赤石は、もう十分だ」
ダイチは、大きめの石を椅子替わりに勧め、残っている焼き魚を串ごと渡した。バイカルは、美味そうにさめた焼き魚を頬張った。焼き魚を三口で食べ終わると、骨を河原に投げ捨てて、ダイチを頭の上からつま先まで視線を配る。
「その視線が痛い」
ボソッと呟く。
「俺は上下赤いスエット、踵の破れた靴下のみ。どう考えてもこの格好で、森の中の河原にいること自体に違和感があるでしょうね」
バイカルの服装からもこの世界に赤地に白いラインが入ったスエットなんかあるようには思えなかった。
「ところでダイチとアイは、どうしてこの河原に」
当然そうなるよなと思いつつ、
「俺は、2日前に森からこの河原に落ちて、今になります」
「なに、信じられんな。この河原で2晩もたった2人で生き延びられたのか。この森には夜行性の魔物が・・・ああ、龍神赤石に守られていたのか」
1人で納得していた。待てよ、ということは、2日前にこの河原に来られなければ、夜を迎えたとたんに、夜行性の魔物に食われていたということか・・・ブルッと寒気がした。
バイカルさんには、俺は異国から来たばかりで、気付いた時には多数の魔物と人間たちの戦いから逃げ出すようにしてこの森へ来た。そして、身一つで森を彷徨い、この河原に辿り着いた。記憶にあいまいな点が多く、行き先も帰る当てもないことなどを可能な限り嘘を避けて話した。悪意のある嘘を決してついてはいないが、少し罪悪感があった。アイの素性については伏せておいた。
「それは難儀だったな。この森にたった2人、身一つ。挙句の果てに、行く当ても、帰る当てもなしとは・・・よし、2人とも俺と一緒に来い」
バイカルさんに肩を組まれて背中を押された。ダイチはアイの眼を見た。アイは目で頷き返した。
向かう先はバイカルの炭焼き小屋であった。南へ歩いておよそ1時間半、この森を抜け、その先の林を越えた丘の上だ。
この森に棲む山岳系の魔物は縄張り意識が強く、この森から出ることはほぼない。バイカルは、森を抜けるまでの約1時間は、気を引き締めるように念を押した。
ダイチは、森の中を歩きながら、バイカルに質問した。
「今日は、この下流に向かって、アイと一緒に街を探そうと思っていました」
「むう、昼間にも魔物は出る。水辺は危険な場所もあるぞ」
「そうでしたか。ここがどこかも分からず、他に探しようがなくて」
「この国は、ジパニア大陸の南西に位置するローデン王国。この森はローデン王国の東に位置する国境線と重なるジロジ山脈の南端。
俺の住んでいる街はドリアド。ドリアドは炭焼き小屋から西に位置する。
ジロジ山脈の東側にはオーク蛮国と呼ばれているオークの国がある」
俺は、やはり、あの魔物はオークで、場の草原から見えた山々の峰はジロジ山脈と言うのだと理解できた。
ダイチの後ろを歩くアイが、バイカルに尋ねた。
「バイカルさんはずっと鍛冶屋をしてきたのですか」
「・・・この頬の刀傷が気になるか・・・俺は、元冒険者だ。結婚を機に引退をして、今は製造業の盛んな街ドリアドで鍛冶職人をしている」
「なぜこの様な森の中へいらしたのですか」
「この森と林を抜けたところに炭焼き小屋を持っていてな。そこへ鍛冶で使う木炭を調達に来たのだ。
今朝早くから木炭の原料となる薪の調達でいつもよりも森の奥まで足を踏み入れて来た」
鍛冶屋に興味を持ったダイチが、バイカルに話しかけた。
「バイカルさんの鍛冶屋では、主に何を製造しているのですか」
「俺のところは武器だ。鉱石から質の高いインゴット(塊)を作り、それを焼き叩いて鍛造するのが自慢だ」
「そのインゴット作りと鍛造に木炭が欠かせないのですね」
「あぁ、最近、燃える黒石が見つかり、ドリアドの街で木炭の代わりとして売買しているのを見かけたが、まだ高価で火力の扱いが難しいため木炭が最適だ」
バイカルは、足を止めて泥についた足跡を見ている。
「迂回する。この魔物の足跡はまだ新しい」
バイカルはそう言うと、道から離れ迂回し始めた。
「龍神赤石とは、貴重なものなのですか」
「その通りだ。希少性とその効果の高さから、最高級の鉱石になる。俺は、炭焼き小屋に家族三人を初めて連れて来た。その安全を高めるためだ」
ダイチとアイ、バイカルは、炭焼き小屋までの道で、多くの事について話をした。
アイテムケンテイナーは、1000人に一人は所有していると言われている。収納容量は個人差がある。大まかに言えば、ポーチから部屋サイズまである。正式な規格があるわけではないが、便宜的その容量でアイテムポーチとか、アイテムボックスとか、アイテムルームとかに例えている。ポーチサイズの所持者でもその安全性から重宝がられ、様々な職業で引く手数多であった。
途中の森の中で、バイカルは、足跡を暫く眺め、顎に手を当てて何か考えていることもあった。また、何度か樹の陰に隠れて魔物をやり過ごしたり、1度だけ戦闘をしたりした。戦闘といっても夕食の肉の調達のための狩りだった。
その狩りの様子といえば、
バイカルさんが、無言のまま左の拳を出して俺を制止させた。そして低い藪を指さした。指し示した方向には、葉と葉の間から何かが潜んでいるのが見えた。バイカルさんは龍神赤石の入ったバックを静かに置くと、弓と矢を取り出し、身を屈めながら一人で右に回り込んで行った。俺は唾を飲み込みながら藪の中の何かを見つめていた。次の瞬間、藪の中からギッと声がして藪が揺れた。バイカルさんがその藪に走り寄る。矢の刺さった兎を手に持って戻って来た。
「これはハーフラビットだ。魔物だが臭みはほとんどなく、スープに入れて良し、焼いて良しの美味い肉だ」
この哀れな魔物は兎に姿は似ているが、自分の知っている兎に比べるとかなり大きく、中型犬くらいあった。上半身が黒、下半身が白のツートンカラーで、胴回りからきれいに色分けされていた。それでも魔物だ。耳の上からは闘牛のような二本の角が前に向かって生えていた。
バイカルさんはハーフラビットの胸から矢を抜くと、手早くナイフで首にスーと一本の線を引き血抜きした。腹もススーッと切れ目を入れると内臓を取り出した。取り出した内臓には土をかぶせていた。
「今夜は美味い飯が食えるぞ」
手早く弓をバックに戻すと、左肩にバックを担ぎ、右肩にハーフラビットを背負うと背中の大剣が揺れた。バイカルさんはもう歩き出していた。
俺は、一部始終を眺めていて、その手慣れた動作を逞しく感じていた。生きていくということは、他の命を己の糧としていくこと。スーパーでパックに入った肉を買っていた俺は、その命の摂取について考えなかった。いや、想像する必要もなかった。でも、バイカルさんにとっては、ごく当たり前の日常なのだろう。俺の目的「この世界で逞しく生きる」には、先ずこのようなバイタリティを養う必要があると感じた。
「あれだ」
バイカルが小屋を指した。
林を抜けると針葉樹に囲まれた低い丘の上にいくつかの小屋があった。
小屋をめざして緩やかな丘の斜面を登った。小屋の周りは整地され、ほぼ平らな庭があった。そこから数十メートル離れたところに炭焼き小屋と思われる小屋が3つ併設されていた。そのうち1つの小屋の煙突からは、青い空に真っ直ぐに伸びる白い煙が出ていた。
後から聞いた話だが、その3つの小屋を窯のある上屋、作業をする前屋、道具や炭を置く尻屋と呼んでいるらしい。母屋の前には、荷馬車の荷車があり、厩の外で茶色い毛の馬1頭が草を食んでいた。
外で遊んでいた10歳前後の男の子と5歳前後の女の子が、バイカルを見ると、母屋に向かって何か叫び、手を振りながらこちらに駆け寄って来た。女の子はバイカルに笑顔で抱き着いた。
「ピーター、エマ、だだいま」
「おかえりなさい」
バイカルの息子のピーターと娘のエマは、俺とアイに興味があるのか、ダイチとアイを見つめていた。目が合うと、「こんにちは」と、笑顔で挨拶をしてきた。笑顔で挨拶を返す。子供の笑顔は天使の笑顔に見えた。
アイは、しゃがんでエマの目線に合わせて微笑んでいた。
母屋からは妻らしき女性がゆっくり出て来た。夫バイカルを見つめ、笑顔で出迎える。
「家族っていいなー。夫婦羨ましいー」
ダイチは、心の叫びが、そのまま口に出ていた。バイカルは、あははははと声に出して笑い、出迎えた妻は照れたように微笑んだ。アイも噴き出していた。それにつられたのか、ピーターとエマも笑ていた。
バイカルが、
「ミリア、森で捕れた」
と、ハーフラビットの肉を妻のミリアに手渡すと、子供たちはハーフラビットの肉に近づき何やら声をあげて喜ぶ。
「ピーター、ガリムを呼んできてくれ」
「はーい」
煙の立ち上る小屋へ走り出すペーターの背を、バイカル見送ってから、ダイチとアイを母屋に誘った。
母屋の中は見かけよりも広かった。中央にテーブルと椅子、樽、その右にはちょっとしたスペース、梯子の上には広めのロフトがあった。左には暖炉、その脇の壁にはショートソード、ソード、槍、斧も数本ずつ掛けてあった。
バイカルは部屋に入ると、左肩に担いでいたサンドバック型のバックをテーブルに置いた。ゴトッと音がして相当な重量だったことが窺えた。背中から大剣を外すと、壁に掛っているソードの脇に並べて掛けた。
そこへ息子のペーターと初老の男性が入って来た。初老の男性は60代半ば、頭髪も、顔の輪郭を隠すような立派な髭もほとんどが白かった。身長こそ低いが、がっしりしていて力強そうだ。バイカルと同じような黒いつなぎと革の黒い紐靴を履いていた。初老の男は、炭焼き職人として、春から秋にかけてここの小屋に住み込みで炭を焼いていた。
「ダイチです。森の河原でバイカルさんに助けてもらいました」
「同じくアイです」
と2人が名乗ると、男性は、
「ガリムじゃ。森の河原で2人か、それは難儀じゃったのう」
と、ダイチとアイを交互に見た。
その時、妻のミリアさんが入って来て、2人の前に立った。
「こんにちは、バイカルの妻のミリアです。もし、よろしければこれをお使いください」
と微笑みながら、靴と靴下をダイチに手渡した。先程小屋の前で会った時に、裸足と泥だらけの靴下を見止めていたのだ。アイには、着替えの服を渡した。
よく出来た奥さんですね、羨ましいと、ダイチは心の中で叫んでいた。
「ダイチといいます。バイカルさんに助けていただいた上に、このようなご好意をいただけるとは恐縮です。ありがたく使わせていただきます」
「アイです。私には、服の替えがありませんでした。お心遣いに感謝いたします」
「サイズが合うといいのですが」
ダイチとアイは背筋を伸ばし、お辞儀した。
ダイチは、ミリアがどことなく品を感じる女性なのでついつい改まった口調になっている。ミリアは、20代後半、黒色の瞳と髪、長い髪を後ろで束ねている。服は質素だが上手に着こなしていていた。
ミリアがダイチの眼を見ながら話かけてくるので、ダイチはつい照れていた。ダイチは、外で子供たちと挨拶をした時もこちらの眼をしっかりと見ていたので、母親がよい躾けをしているのだなと感じた。
「あははは、そう硬くなることはない。ペーターもエマもここで自己紹介をしろ」
ペーターはすっと前に出て、2人の眼を見ながら、
「ペーターです。10歳です。初等学校に通っています。得意なことは、物づくりです。僕も父さんみたいな鍛冶職人になりたいと思っています」
と、しっかりとした口調で話した。
ペーターは、アイテムケンテイナーのボックスサイズの持ちで、バイカル家の自慢の息子だった。
妹のエマは、緊張したのか急に母のミリアの後ろに隠れてもじもじしていた。ミリアがその場にしゃがんで、エマの瞳を見て微笑んでからエマの背中を優しく押した。エマは前に出て下を向いていたが、目を上げ、
「エマです。5歳です。歌が好きです」
照れながらもダイチの瞳を見ていた。ダイチの隣で微笑んでいるアイをみて、エマも笑顔になった。
「よし、自己紹介は終わった、ダイチとアイは暫くここにいる。よろしく頼む。外国からこのローデン王国に来て間もないので、困った時には力になってやってくれ。
それじゃ、次はこれを・・・あ、ダイチは靴下と靴を履いてくれ」
と言うと、バイカルはテーブルの上に置いたサンドバック型のバックから龍神赤石を取り出した。
「こりゃー、龍神赤石じゃねえか」
ガリムが驚いて龍神赤石を掴むとしげしげと見つめた。
「間違いねぇ、龍神赤石だ、しかもこの大きさだ。これを一体どこで」
「ダイチとアイだ。河原であの2人が龍神赤石を見つけた」
バイカルはそう言いながら、バックの中に手を入れてガラガラと残りの龍神赤石をテーブルの上に広げた。
「おいおい、こりゃすげー。さすがバイカル親方だ。よくこれだけの量を持ち帰った」
ガリムは龍神赤石を持ったまま振り向いて、靴の紐を結んでいるダイチに目をやり、続けて言った。
「龍神赤石は、魔物を寄せ付けない力があるかならな、その分値が張る。これだけあったら、大きなお屋敷だって建っちまうんじゃねえかぁ。これで坊ちゃん、嬢ちゃんたちも安心だ。ダイチとアイ、大手柄だな。がっははは」
ペーターとエマからも、お兄ちゃん赤いお石をありがとうと、言われてダイチは少し照れていた。
「靴履けました。ありがとうございます」
「よくお似合いですよ。少し大きいでしょう。大丈夫かしら」
ミリアが、心配そうに尋ねる。
「俺のお古だから見栄えは良くないが、よく似あっているぜ」
バイカルは、顎に手をあてながら言った。
「いえ、靴下は清潔だし、靴もしっかりとしています。ご配慮に感謝します」
バイカルから貰った黒い革の紐靴は、炭焼き小屋に置いてあった予備の靴であったらしいが、使用した感じはなかった。鍛冶作業にも使用するための靴なので、厚手の革で作られていて耐熱仕様、硬くて頑丈だった。例えるなら、足首の上まである登山用シューズに近かった。
「お前たちには、これをお守りにあげよう。魔物から守ってもらえるからな」
と、言うとバイカルは、ペーターとエマに子供の拳程の龍神赤石を1つずつ手渡した。
「ありがとう、お父さん」
ペーターとエマは両掌で包み込むように龍神赤石を持ち、じっと見つめていた。
「少し早いが夕食にするか」
バイカルの声に、
「やったー。今日は美味しいお肉が食べられるー」
と、エマは小躍りした。
ミリアは炊事場へ、ガリムは鍛冶場へ、ダイチはバイカルと一緒に小屋の周辺へ魔物除の龍神赤石を置きに行った。
アイもミリアを手伝いに炊事場へ向かった。