ワタ婆様の家まであと少しだ
また車に乗って先に進んでいく。いつもの一車線が続くが、やがて今度は下り坂に。林の中を突き抜けると、ごくわずかだが古い民家が見えてきた。村役場周辺は近代的な建物もそこそこあったのに、ここら辺はまるで何十年も前から時間が止まっているかのようだ。
板野さんは平屋建ての家の敷地に乗り入れた。
「ここがワタ婆さんの住まいですか?」
「いや、もう少し奥の方だ。車は通れないからここから歩きになる」
板野さんはエンジンを止めた。あたし達が車を降りると、家から一人の男がひょこっと出てきた。ダルマみたいな顔とクマみたいな体型をしているその男を見たあたしは飛び上がりそうになった。
「ま……マダガスカルなまこ!?」
特徴的な容貌を見間違えるはずがない。かつて迷惑系Ytuberとして悪名を轟かせていた「マダガスカルなまこ(本名不詳)」がなぜここにいるんだ!? あたしが星花に入る直前に突然行方不明になって死亡説まで出ていたのに……。
「マダガスカル、車停めさせてもらうぞ」
板野さん、普通に話しかけてるし!?
「ワタ婆様のところにお参りですか?」
マダガスカルなまこは仏様のような微笑みを浮かべた。世の中のありとあらゆるものに憎悪を向けているような目つきがすっかり消えている……。
「おや、見かけない子がいますけど」
完全に毒気が抜かれた目であたしを見てきた。
「朝水の友達だ。ワタ婆様が話をしたいらしい」
「ワタ婆様が……何か起きなければいいのですが……」
プルプルと震えだすマダガスカルなまこ。怯える子犬みたいだがまったくかわいくない。
「まあ長くかからないとは思うが」
「わかりました。気をつけて行ってらっしゃいませ」
マダガスカルなまこは丁寧に頭を下げた。あたし達は奥の林に入り、獣道を進んでいく。ある程度進んだところであたしはアサたちに聞いた。
「何でマダガスカルなまこが村にいるんだ!?」
アサが答える。
「あの人は四年前にふらりと村にやってきた。岡山の因習村の正体を暴くという名目で村人たちにつきまとったり、川越商店で万引きをしたりと、とにかく無茶苦茶やっていた。ボクの同級生もつきまといの被害にあった」
「うわ、やっぱり最低なヤローじゃねえか……」
過去には民家にロケット花火を打ち込んだり、魚を救うための動物愛護運動と称して釣り客をに暴力を振るうなど傍若無人な振る舞いをしていた。犯罪スレスレどころではなく、何度も逮捕されている前科者なのである。だからそんな最低野郎がワタ婆さんに怯えているのがまったく信じられなかった。
「極めつけは、村の南に神社があるんだが、聖水で清めると称して賽銭箱に放尿した。それでとうとう怒り心頭に達した村人に捕まって難波さんとこの土蔵にぶちこまれた」
「うげ……」
あたしは顔をしかめた。
「当然だな。難波さんが誰か知らんが……しかし土蔵ってところがまたいかにも田舎って感じだな」
「だが、マダガスカルの狼藉ぶりはワタ婆様の耳にも届いていた。婆様がわざわざ難波さんとこに出向いてきて、マダガスカルを見てこうおっしゃった。この男にはキツネが憑いてると」
「き、キツネ?」
「そう。それから三日三晩にかけてワタ婆様によるキツネ落としが始まった。土蔵からはいつも悲鳴が聞こえてきてな、ボクはつい怖いもの見たさで土蔵の中を覗いてしまった。そしたらワタ婆様が……いや、もう口にするのもおぞましいからやめておこう」
「おい、気になるじゃねえか……」
「ともかく、それからはワタ婆様が身元を引き受けて世話係みたいなことをやらせている」
普通なら胡散臭いオカルト話だと一蹴していただろう。しかしあの前科者が仏様みたいになってしまったのを見ると、ワタ婆さんの力は本物じゃないかと思うようになってきて身震いした。
時々ピーッ、という鳴き声が聞こえる。不安感がいっそう強くなってきた。
「冬だけど、クマとか出ねえだろうな……最近あちこちで出てるからよ」
「幸いクマはいない。今のはシカの鳴き声だな。イノシシも時々出てくるから注意したまえよ」
そういや去年の梅雨どきだったか、空の宮市内でイノシシが出て何人かケガしていた事件が起きていたのを思い出した。あの鬼の風紀委員長が傘で頭をカチ割って駆除したという噂も流れていたが真実かどうか定かではない。
「あれだ」
林を抜けたところに小さな湖が見えたが、その側にポツンと一軒家が建っていた。茅葺き屋根の、まるで「日本昔ばなし」に出てきてもおかしくないような古い家だった。
「小倉君、くれぐれも失礼のないようにな」
玄関前には木の板と木槌が吊り下げられている。板野さんは緊張した面持ちで、木槌で木の板を三度叩いた。
すぐに戸が開いた。
「いらっしゃいませ、神城様」
あたしは面食らった。出てきたのはしわくちゃ顔のワタ婆さんじゃなく、おかっぱ頭の、なぜかメイド服姿の若い女性だったからだ。しかし板野さんはまたもやさも当然といった感じで話しかける。
「婆様の言いつけで小倉明日香という女の子を連れてきた。取り次ぎを願いたい」
「小倉様がお見えになられたのですね。承知いたしました」
メイドさんは奥に引っ込んでいった。
「アサ……あたし、全然理解が追いついてないんだけど」
「まあ、僻地の古民家に若いメイドがいるなんて誰も思わんだろう。彼女はヤチヨさんといってな、マダガスカルなまこと一緒にワタ婆様の身の回りの世話をしている。彼女にも複雑な事情があるが……それは後々話そう」
ヤチヨさんがすぐに戻ってきた。
「お婆様は小倉様だけとお話をされたいそうです。圭人様と朝水様は、申し訳ありませんが外でお待ち下さいませ」
「そういうことらしい。明日香、しばしのお別れだ」
「マジで……?」
あたしが二の足を踏んでいたら、アサは「行ってこい」と、背中を押してきやがった。土間に踏み入ってしまった途端、ヤチヨさんが素早く戸を閉めてしまった。
「小倉様、どうぞお上がりください」
ヤチヨさんは日本人形のように無表情で不気味だった。もう覚悟決めていくしかない。