神城朝水の故郷にやってきた
『長らくのご乗車お疲れさまでした、間もなく終点岡山駅西口です。車内にお忘れ物がございませんよう荷物棚、座席を今一度お確かめください……』
アナウンスが聞こえて、ようやく我に返ったが、その間寝ているのか寝ていないのかまったくわからなかった。
「ん~……よく寝た。おはよう明日香」
「……はよ」
「何かすごくいい夢を見た気がするんだがあいにく覚えておらん。君はどうだい?」
「全然寝れなかった」
てめえのせいだぞ、と問い詰める気力もない。
「お疲れのところ悪いが、すぐに乗り換えだ」
アサは本当に自分がやらかしたことを全く覚えてないらしい。あたしの耳にはまだアサにハムハムされた感触がこびりついている。普段の奇行と違って夢の中、無意識が起こした行動なのがなおさらタチが悪い。ここは犬に噛まれたと思うしかないか……。
バス停に着いて降りたら、朝焼けの空が目に飛び込んできた。ピリッとした寒さがほんの少しだけ眠気を取り払ってくれた。
「こっちだ」
アサの後をついていったところは、一般車用のロータリーだった。シルバーのワゴン車の横で、あたし達に向かって手を振っている若い女性がいる。
「朝水、お帰り!」
「ワタ婆様の言いつけ通り友達を連れてきた。急にすまないね」
「しょうがねえ、婆様の言うことは絶対じゃけえな」
あたしてっきり、この人は姉かなと思っていたのだが。
「紹介しよう。ボクの母親、朝歌だ」
「……えっ!?」
ウソだろ。見た目まだ二十代だぞ。
「わ、若いっスね……」
「やだあ~! これでももう少しでアラフォーじゃが!」
恥ずかしがる朝歌さん。若い母親であることには違いない。
「寒い中で立ち話も何やけん、車ん中に入られ」
朝歌さんに勧められて車に乗り込む。つい遅れてしまったが、あたしもここで自己紹介した。
「小倉さん、本当に急な話ですまんねえ、遠いところから来てもろうて。お腹すいたじゃろうけど、ご飯用意しとるけんもう少し堪えてつかあさい」
「大竹村までここからどんぐらいかかるんです?」
「一時間もかからん。日曜でまだ朝早いし交通量も少ねえけんもうちょい早う着くかもしれんわ」
道の左右には大きな建物が並んでいて、さすがこの辺は空の宮より栄えているなと感じたが、一番栄えているのは駅の東口方面だと朝歌さんは言った。そっちには日本三名園のひとつ、岡山後楽園もあるとのことだが、あいにくあたしは庭園についてはよくわからない。
少し走ったところで、たちまち緑豊かなのどかな光景に変わった。大きな川を遡っていくが民家とか工場とかがポツポツと見えるだけで、それでも朝歌さんが言うにはこの辺はまだ岡山市内らしい。同じ市内でも駅前とは別世界だ。
やがて車は山あいの道へと入っていった。左右は木だらけだったが、しばらくすると大竹村の方角を示す標識が立っているのを見た。道路は広くきちんと舗装されているとはいえ、本当にこの先人が住んでいるのかと不安になってきた。
「ここをくぐったらもうすぐじゃけえの」
見覚えのあるトンネルがでてきた。入学式の日にハッシーから見せられた、開通式でアサが演奏している動画の光景と全く同じだった。トンネル入り口には『おいでんせぇ大竹村』の看板が掲げられている。全長1キロ少しと下道のトンネルにしちゃ長い方だったが、そこをくぐった先、右手の丘陵地に真っ白な大きい建物が見えた。
「あれが天寿の化粧品工場だ」
と、アサが指さした。星花女子学園の経営母体、天寿は様々な事業を手掛けているが、その中でも天星堂という会社を通じて化粧品を製造している。大竹村に大きい化粧品工場を建てたというのはちらっと聞いていたが、この何もない地域にドンと建っているから余計に目立っている。
「地元の人間もようけここで働いとるんじゃ。給料いいけん、仕事を求めて村から出ていった若ぇもんも戻ってきてみんな天寿様々じゃあ言うとる」
あたしの口からほえー、と間抜けな声が飛び出た。
「すごいな、天寿……」
「これも大きな道路やトンネルができて交通の便がようなったおかげじゃな。昔は曲がりくねった狭い峠道を使わんと村に出入りできんかったけんな」
「要はボクのグランパが凄いのさ!」
フフン、とアサは得意げに笑った。道路を整備して、村民の雇用を生み出した村長は凄いと褒められて然るべきだ。やるな。
ついに集落が見え、その中に入っていった。途中、アサの家で見たビデオの撮影場所と同じところを通ったが、古い建物がいくつか建て替えられていた。
「お、川越さんの店が新しくなってるな」
「村が補助金を出してくれたんよ。品揃えもようなったが」
コンビニを少し大きくしたぐらいの平屋の建物は「川越商店」という店舗で、何の店かとアサに尋ねたらスーパーだと返ってきた。村にただひとつの食料品店だが、その他衣服や文房具などの生活必需品も売っているとのこと。大きな買い物をするにはさすがに村の外へ出る必要があるらしいが、最低限生活に必要なものは村で全部揃えられる、とアサは言った。
「さて、ここを曲がればボクの実家だ」
ようやくだ。朝焼けの空はすっかり青空に変わっていた。
ログハウスが見えたが、「喫茶軽食 エン」の看板が掲げられている。朝歌さんは車をそこの敷地内に向けた。
「お前ん家、カフェやってんのか」
「パパが定住を決めた際に開いたのさ。『峠茶屋』のようなスイーツは出ないが、美味しい食事はできる」
「板野圭人さんの店か……」
引退して大竹村に移住して以降、音楽活動は続けてはいるもののほとんど表に出ることはなくなっている。だけど喫茶店やっているのは初耳だった。
あたし、今からその板野圭人と会うんだよな。「東洋科学技研」の元キーボーディストと。少し緊張してきた。
「パパ、かえったよー!」
学校では聞かせたことがない甲高い声と、見せたことがない無邪気な笑顔で店内に入っていった。
「おかえり」
出迎えたのはまさに、板野圭人本人だった。白髪交じりになってヒゲを生やしているとはいえ、本人の面影がくっきりと残っている。
「君が朝水の友達かね?」
いきなり話しかけられた。
「は、はい。小倉明日香です。軽音楽部でドラムやってます」
「君も音楽をやっているのか。ふむ、確かにドラムという感じだな」
あたしのどこを見てそう感じたのか全くわからない。
「いきなり連れてこられて不本意なことだろうが、とりあえず朝食を食べたまえ」
あたし達は席に案内された。店内はそれほど広くはなくテーブル席が三つ、カウンター席は五つほどしか無い。
板野さんの現役時代の写真とか、元メンバーのサインとか壁に飾ってないかなと探したものの、飾ってあるのは油絵や神社の初詣の案内ポスターぐらいなもので、あとは観葉植物やカウンターテーブル上の人工クラゲぐらいしか目立つインテリアが無く、素朴な印象を受ける。
「どうぞ」
板野さんが出してきたのは、ご飯と卵一つ。それにシャケと味噌汁という、ザ・日本の朝ご飯といった感じのものだった。卵は生卵っぽい。
「お、卵かけご飯ですか?」
「そうだ。村に大きな養鶏場があってな、そこから仕入れている」
「じゃあ、頂きます」
あたしは卵を割ってご飯にかけた。黄身は色鮮やかで、箸でつまみ上げることができるぐらいプリッとしている。家で卵かけご飯を食べるときはかき混ぜるのだが、敢えてちょっとだけ黄身を潰しながら食べることにした。おっと、醤油も忘れずに。
「うっ……美味い!」
醤油をちょろっとしかかけてないのにこの濃厚な味……味噌汁はどうだ? 一口すすってみる。
「おお……出汁が効いてる……」
「うむ、気に入ってもらえたようで何よりだ。朝水はどうだ?」
「いつも朝はパン一枚しか食べないからとてつもなく美味しく感じるよ」
「何!? それだけしか食べておらんのか?」
「以前は食べてもなかったさ。だけどある日学校で目まいを起こして倒れてね。保健の先生に叱られてから食べるようになったよ」
「アサ、そんな話初めて聞いたぞ」
「その日は体育祭の代休で君はお休みしてたからね。ボクは勘違いして登校してしまったが」
保健の先生がいなかったら詰んでたぞ。
「……とにかく、朝ご飯抜きはいかんぞ。炭水化物だけではなくタンパク質とビタミンもちゃんと摂るのだ。忙しいというなら簡単に作れる料理のレシピをやろう」
「料理は不得手なんだが……一応もらっておくよ」
「パパも40半ばで料理を覚えて店を出すまでになったのだ。朝水ならちょっと頑張ればできるようになる」
板野さんは親の笑顔を見せた。
「さて急かすわけではないが、朝食を摂ったらすぐにワタ婆様のところに行くぞ」
「あの、ワタ婆さんっていったいどんな人なんです?」
「道すがら話そう」
板野さんの顔が険しくなった。