ハイウェイ
ハイウェイラジオに切り替えます。
カーナビから機械音声が流れた。
音声を聞いてはじめて、私はとっくに車内が静寂に包まれていたことを知った。
子どもたちの夏休みももうすぐ終わる時分だ。仕事が忙しく家族サービスをしてやれていなかった引け目もあって、車を出した。ハンドルを握るのが随分久しぶりに感じる。運転というのは、一度覚えてしまえばそうそう忘れないらしく、すぐに勘を取り戻すことができた。
中央分離帯で仕切られただけの対面通行の高速道路を行く。かつての単身赴任先への道と同じ道で、見慣れた景色であるはずなのに、皆目知らない道のように思えてしまう。ついさっき通り過ぎた気がしたパーキングエリアも、チラリと見たナビによればどうやら遥か後方にある。
休日の夕方だと言うのに、走行する車の数はまばらだった。
「車が少ないな」
私は助手席に座る妻に話しかけた。
頬杖をついて流れていく山々の稜線を見るともなしに見ていた妻は、顔を窓の外に向けたまま、
「そうね」
と言った。
快活な妻にしては落ち込んだ声色だった。疲れたのかと私は妻をちらりと横目で見、それからルームミラーで後部座席の子どもたちを窺った。
後部座席では、息子と娘がそれぞれ顔を寄せ合うようにして眠っていた。寝息ひとつたてず、音もなく寝静まっている。焼き溶かすような紅い斜陽がリアウィンドウ越しに目に飛び込んできた。私はアクセルを少し緩めた。
「このまま帰るんでいいんだよな」
「ええ、もう充分。思い残すことはないわ」
妻はちらりと後ろを振り返った。顔を寄せ合うように眠る子どもたちを見て翳り微笑んだ。
「三週間前に落盤事故があったでしょう」
妻に声をかけられ、私は暫時返事ができなかった。不意を突かれ、自分に声をかけられたと認識が追いつかなかったのだ。
「あ、ああ」
漸く返事をする。
妻は呆っと流れ行く景色に目をやっていた。
「それってこの先のトンネルよね」
「そうだっけか」
「そうよ。笹団子トンネル。あなたと違って、わたしは普段から車に乗るから、その手のニュースは気にかかるのよ」
営業職の妻は、しばしば社用車を飛ばして工場と会社を行き来することがあるらしい。運転には私よりも慣れているはずなのだが、「休みの日にまでハンドルを握りたくない」と言うのである。その心情は理解できるので、家族での行楽に際しては、私はさして好きではない運転役に務めている。
「やめろよ。縁起でもない」
車内に静寂が訪れ、微かにタイヤの回転する音だけがしていた。非難するように私は続けた。
「そもそも、高速に乗ろうって提案したのはお前だろう?」
「……そうだけど、だからなに?」
投げやりな返答が癇に障り、私はこめかみをひくつかせた。
「いいじゃない。下道よりも速いんだし」
「…………」
してみると、事故云々には特に含意がなかったのか。ただ不快感だけを撫で起こして妻は素知らぬ顔をしていた。
再び静寂が車内を覆った。
ふとカーナビを見る。画面は白く、車のアイコンが何もない場所を走っているように映っていた。
私は目を疑った。ハンドルから左手を離し、適当にボタンを弄る。適当に合わせたFMからはザップ音が断続して鳴っていた。
「壊れたのかな」
妻が気怠そうに顔を起こした。
「カーナビ」
顎でしゃくると、妻はさして関心なさげに指を伸ばした。
「本当ね。動かないみたい」
ついに映像は真っ白に変わり、今どこにいるのかが示されなくなっていた。
「トンネルに入ったのに、自動で暗くならないな」
ライトをつけてもトンネルの中は仄暗かった。オレンジ色の間接照明が弱々しかった。
「今日は楽しかったわね」
囁くような声で妻は言った。
「水族館って真っ暗じゃない。なんだか神秘的よね」
「そういえばそうだな。いままで考えたこともなかったけど」
真っ暗な空間に水槽が並んでいた。深海魚、クラゲ、ナマズやアシカ。間接照明の青白い光を思い出す。水族館に行くのは結婚して以来初めてだった。
「死後の世界って、あんな感じなのかしら」
「…………」
「現世は水槽みたいに見えていたりして」
妻は相変わらず窓の外を見ている。私に語りかけたのか、ただのひとりごとなのかよく分からない。
「魚をみつめている時、魚もまたこちらをみつめているのだ」
「どうしたの?」
「──いや、ひとりごとだ。気にしないでくれ」
それきり、車内には再び静寂が訪れた。
ほぼ同時に視界が開けた。トンネルとトンネルの切れ目だ。夕焼けが毒々しいほどに赤かった。緩やかに曲がる道に沿ってハンドルを傾ける。また目の前に山が迫ってくる。
「靖子、例のトンネルに入るぞ」
笹団子トンネルの文字が風雨に晒されて掠れていた。山肌に開いた暗い隧道が、遥か冥府にまで続いているかにも思えた。ヘッドライトが頼りなさげに前方を照らしている。カーナビは相変わらず止まったままだった。
単調な道で、自然と眠気が襲い来る。誤魔化すように妻と会話を続けた。話題は、この頃息子に買ってやったキッズ向けの携帯電話についてになった。
「龍也はずっと携帯電話を触ってるの。買わなかった方が良かったかしら」
「小学生で携帯を持つのはもう当たり前な時代だと思っていたんだけどな」
「勉強しなくなったり、友達と遊ばなくなったりしたら困るわ」
「いまどきは携帯電話を使ってゲームをしたりするものさ。にしても、お前は案外古風な考えをするんだな」
車は笹団子トンネルを進む。事故があったのはトンネルのちょうど中程だ。遠く、退避用のスペースに献花台が設けられている。いつだったか、会社の同僚が献花に訪れていた。
車の僅かな揺れに覚まされたのかもしれない。ふと泡沫のように弾けそうな声がした。
「あれ、おとうさんは?」
息子の龍也が起き出してきて、寝惚け眼を擦っていた。「おとうさんならここにいるじゃないか」と語りかけるよりはやく、龍也は車の中を見回して、それから呟いた。
「なんだぁ、夢か……」
心なしか涙声に聞こえた。
「おとうさんを見たの?」
「夢の中でね」
龍也は小学三年生になる。歳の割にはしっかりしていて、親としては将来に期待を抱かざるを得ず、鼻が高い。私たちと違って、未来ある子どもだ。
不意に妻が質問した。
「龍也、おとうさんは好き?」
「うん、好きだったよ」
即答。妻は押し黙った。
龍也は妻のただならぬ雰囲気を感じ取ってか、訝し気に呼びかけた。
「おかあさん?」
妻はやっと消え入りそうなほど微かな声で呟いた。
「…………ごめんね」
妻は憑き物を祓うように首を振った。髪が左右に靡いた。
「龍也、ねえ、おとうさんのところに行こう?」
龍也はきょとんとした。
「おとうさんのところにって……だって、おとうさんは、死んじゃったんだよ? トンネルの中で……」
「そうよ。ちょうどこのあたりだったかしら」
見えなくとも、龍也が胡乱な目を妻に向けるのが分かった。「何言ってるの?」と呆れたように言って、ふと続けようとした言葉を切る。息を呑んだ音が聞こえた。
何かに気づいたようだ。弾かれたように窓の外を見る。変わりないトンネルの中の景色。しかし、確かに景色は流れていた。橙色の間接照明が過ぎてはまた現れる。後頭部に視線を感じた。
「ねえ。この車、誰が運転しているの?」
私は心を痛めた。龍也は私を認識できていないようだ。路側帯に車を止める。ちょうど献花台が置かれている。盆ということもあってか、供えられた花束は新鮮なように見受けられた。
「やっぱり子どもはいいんじゃないかな」
「…………そうね。親のエゴかもしれないわね」
妻と話している傍らで、ほとんど悲鳴のように龍也が叫んでいた。
「おかあさん、誰かと喋っているの?」
「誰って、おとうさんよ」
妻が車を降りる。後ろのドアを開けて娘を抱えて車から下ろし、息子も引きずるように下ろす。龍也の顔は驚愕と恐怖に染まっていた。
「元気でね」
助手席に乗り込み、妻は窓の外に手を振った。聖母のように穏やかな表情をしていた。呆気に取られる息子と、ようやく眠りから醒めやんとする娘。まだ幼い娘の、焦点の定まっていない目がわたしたちを捉えていた。
「出すぞ」
私はアクセルを踏みこんだ。
「──そのあと、母は帰ってきませんでした。知っての通り、その日トンネルで事故なんて起こっていません。前を走っていた車の中に、母が乗っていたはずの車を見たって人はいませんでした。それどころか、高速道路に設置されたカメラにも、車は映っていなかったんです。
奇妙なことですが、妹はあの日、父と母と一緒に遊んだというんです。一緒に水族館に行ったと。記憶違いじゃないかと思ったんですが、でも実は、親に水族館に連れて行ってもらった記憶は無いんですよ」
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