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こころ

作者: 楽園

 先生の手紙を読み終えた僕は、心が急くのを感じた。間に合わないとは分かっている。先生の性格から言って、きっとこの世に留まっていることはないであろう。先生はこの書留を郵便局から送ってから、きっとあの部屋の奥で一人、孤独に死んだのだ。

 僕が感じた先生への憧憬は、先生の後悔から始まったことだと初めて知った。先生がずっと心の中に抱いていた苦しみは、僕にはその一割も理解できていないかった。僕が不用心に発した台詞が先生をこれほどまでに傷つけていたなんて全く知らなかった。それでも、先生が約束通り僕だけに最期の時に心のうちを見せてくれたことが僕を慰めた。

 もしあの日、電報を見た時に先生のところへ向かっていれば、先生は死ぬことを思いとどまっていたかもしれない。先生は僕に話すことにより、心が少しでも救われたかも知れなかった。先生がKの自殺を止められなかったように、僕もまた先生の自殺を止められなかったのだ。

 父親が病気でなかったら、僕は何の迷いもなく先生のところへ行っただろう。なぜ、僕は先生の悩みに気づくことができなかったのか。その事実が僕の心を傷つける。


 東京行きの汽車は、先生の手紙を読んでいる間に、少なくない距離を走っていた。

 今、僕の心の中には二つの気持ちが強く浮かんでくる。一つは里元に置いて来た父親のことだ。死の淵にある父親はいつ死んでもおかしくなかった。あの様子では今から帰ったとしても間に合わないかもしれない。先生の手紙を読み慌てて飛び乗っては見たが、親の死に目に会えないことが僕を少し後悔させた。

 もう一つは、これから会うであろう先生であった亡骸と先生の奥さんだ。先生を頼りにこれまで生きて来た奥さんと出会うことになる。何と声を掛ければいいのか。きっと僕にはその時の言葉を持ち合わせていないに違いない。それでも、僕が東京に今向かっていることは間違っていないように感じた。先生の死と言う事実を知るために汽車に飛び乗ったことは先ほど言ったように事実である。

 でも、一人残された奥さんのことが気にはなった。先生は手紙の内容を奥さんに知られることを恐れていた。自殺のきっかけになった先生の嫉妬。強い嫉妬が先生を大きく動かし、Kの気持ちを無視して、娘さんをくださいと伝える事になった。

 もう少し用心していれば避けられたことであっただろう。奥さんのKに対する無意識な振る舞いが先生を狂わせたのであれば、その罪を奥さんも感じるに違いなかった、

 道徳観念とかそんなものではなく、若い男女に起こった勘違いが起こした不幸な事故だっただろう。

 それだけに先生はこの真実を伝えることなく、死んだ今でも胸のうちにしまっているのだ。

 僕は汽車の中で何度も言うべきか言わざるべきかを議論した。先生の唯一の遺言であるこれを破ることは間違っているとも感じた。

 奥さんが事実を知れば傷つくかも知れない。だが、知らないまま不安に過ごして来た十五年も傷ついてなかった訳ではないのだ。

 売店の売り子が弁当を売りに来たが僕には全く食欲がわかないことに気がついた。今は先生のことと奥さんのことが気になって仕方がなかったのだ。

 寝る間も惜しんで先生の手紙を何度か読んでる間に汽車は東京駅についた。ここから先生のところまで僅かの距離だ。手紙には先生の奥さんが出かけている間に自殺すると書かれていた。

 もしかしたら奥さんもまだ先生の死に目にあっていないかもしれない。僕はそのまま先生の家に向かった。

 先生の家は静けさに包まれていた。ことりとも音がせず人の気配が感じられなかった。僕が先生の家の玄関から部屋に入ると薄暗い部屋に人がいるのに気がついた。

 亡くなった先生とその傍に座り込む先生の奥さん。奥さんの顔には正気がなく、震えている事に気がついた。

 僕が入って来たのを気づいた奥さんは濡れている瞳をこちらに向けた。

「あの人は亡くなられました」

 誰に向けられて話したのかも分からない独り言のような言葉だった。

「おひとりでお帰りになったのですか?」

 里に帰っている時に起こったことだと知っていた僕は思わず聞いた。

「いえ、女中は帰ってもらいました」

 部屋が暗かったので気がつかなかったが、奥さんが小さな短刀を持っていることに気がついた。

「早まってはいけない」

 僕は思わず奥さんの短刀を奪い取った。相当の覚悟がなければ死ねるものではない。奥さんは短刀を取られるとそのままその場に崩れた。

「とりあえず、警察を呼びましょう」

 そこからは警察やら医師やらが来て小さな騒動になった。先生の死因は毒薬によるショック死だった。先生が手紙に書かれていたように部屋は汚れすらなく綺麗なままだった。

 先生の遺体はKの墓の隣に手厚く埋葬され、その後部屋を清掃した。

 慌ただしい時間が終わると空虚な気持ちになった。先生は手紙に書かれていたように亡くなってしまわれた。手紙を読んだ今となっても先生の起こした罪がそれほど深いとは思わない。自殺するなんて分かっていたら、先生もあんな方法で無理やり奪うようなことはしなかっただろう。

 もっと別のやり方があったはずなのだ。

「先生から僕に手紙が送られて来ました。だから、ここに来たのです」

 僕は先生の意に反して奥さんに真相を話すことにした。先生は僕を憎むかも知れないが、事実を知ることなく十五年もの時を一緒に暮らして来たのだ。もう知ってもいいだろう。

 手紙を奥さんの手に渡して、かいつまんで先生の死の原因を話すと奥さんはそうでしたか、とだけ答えた。なんとなく分かっていたのだろう。先生の奥さんに知られたくないと言う気持ちに気づかないわけがなかった。

「いつか、話してくれる時が来ると思っていました。先生のためにとしたことが結局Kさんを死なせてしまい。先生も……」

 唇をかみしめて悔しそうな表情をした。

「僕は今から一度父親のところに戻ります。必ず戻って来ますので、その時にお話しできますか」

 奥さんが少し落ち着いたのを見た僕は父親の元に帰ってから、ここに戻ってくる約束をした。先生のことをもっと話したかったし、遺された奥さんのことが気がかりだった。

 

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