80.私が意識を取り戻したのは三日後の早朝――全てが終わってからであった。
※最終話。
私が意識を取り戻したのは三日後の早朝――全てが終わってからであった。
その間、護衛をしてくれたアリス曰く、三日三晩死んだように眠っていたらしい。
一時は呼吸も弱まり、本当に死んでしまうものだと誰もが覚悟したとのこと。
とは雖も、だ。
事実として私は運良く生きている。飢えと渇きを覚えこそすれ――というより私を覚醒せしめたのは酷い飢餓感であった。起き抜けの第一声が「お腹が空いた」だった程度には――奇跡的に後遺症らしきものはない。
要するに。
何が起きたかといえば、文字通り私が起きただけである。
それだけだというのに、砦中、祭りかと思うくらいに皆が沸きだって――私の復帰を、これほどに喜んでくれるなど、寧ろ私の方が申し訳ない気分になってしまった。水を差すのも悪いと思い、敢えてその心中を口にすることはしなかったが。
折角起きたのがこんな私でごめんなさい。お風呂に入りたいし化粧だってちゃんとしたいのに――というどこか拗ねたような、素直になれない気持ちばかりがあった。
はて、どうして私はこんなにも擽ったいような焦れったいような気分なのだろうかと自省すれば、答えはすぐに見付かった。
私は。
自分が聖女なんかではないのだと。
皆が思うほど立派な人物ではないのだと。
ちゃんと分かっているのだ。
それなのに、場の雰囲気を慮るが故に言い出せず、不満を募らせているのだ。
結局のところ、私は何もしていない――とは言い過ぎなのかもしれないが――畢竟、ウィリアム様を救ったのは私でも弟でもなく、あの天女の如し女性――私のお婆様であるのだ。
悲しい哉、情けない哉。
私はあの時、何もできなかった。
泣くことしかできなかった。
その涙に免じてお婆様が来てくれたものの、それは所詮結果論でしかない。
そのような無力感が心の奥底にこびり付いて。
もっと言えば、ウィリアム様に失望されたらどうしようという恐怖にも似た感情も相まって。
私は何とも落ち着かぬ気分になってしまう。
少なくとも、皆から聖女だ何だと煽てられ、崇められても、素直に喜べるような心境には到底なれなかった(無論、犠牲者が出ていないと聞かされた時はとても安心したが)。
「葉月ったら。どうしてそんなに怖い顔をしているの?」
気を利かせてくれたアリスが持ってきてくれた手拭いと湯涌で、汗と泥に塗れた身体を清拭していると、そのアリスが不思議そうに小首を傾げる。
「…………」
素直に答えても良いものか私は迷ってしまう。
これは弱音のようなものだから。
言っただけで困らせてしまうだけだから。
逡巡の後、私はあの日あの時に起きた出来事を――そして自分が何も為し得なかったことを――どこまでも素直に述べることにした。
自分でも、どうして喋るに至ったのかは分からない。今迄であれば、聖女たらんことを求められているからと。皆の期待に応えなければならないと。理屈を捏ねて自分を律していただろう。
自らの願望を口に出すことが、必ずしも悪いことではないことに気付けたからなのか。この小さくて、とても大きい私の友人ならば、私の感情を受けて止めてくれると思ったからなのか。あの時、散々に泣いたことで、私を守っていた殻まで溶けていったためなのか。
いずれにせよ。
アリスは。私の大切な友人は。
私の話を最後まで、余計な口を挟まずに聞いてくれた。
「――だからね。喜んでくれる皆には悪いけれど、ウィリアム様を助けてくれたのはお婆ちゃんで、私は何もできなかったの。それなのに褒めらるものだから、却って居心地悪く感じちゃって。それが表情に出ていたのかもしれない」
私が言えば、そっかそうだったのね――とアリスは言ったのち。
「お疲れ様。ありがとう。私の大切な家族を守ってくれて。助けてくれて。無事に帰ってきてくれて」
と私を労ってくれる。
「……ねえ、私の話、聞いていた?」
「失礼ね。ちゃんと聞いていたわ」
それならどうしてそんな感想が出てくるのか。
視線で抗議すれば。
「葉月は謙虚過ぎるのよ。あなたが罪悪感を抱える必要なんてどこにもないわ」
と諭しにかかる。
「でも、事実私は何もしていない。だから結果論だよ」
「それならそれでいいじゃない」
「え?」
「オスカーから〝終わり良ければ全てよし〟っていう格言があるって聞いたことがあるわ。団長も葉月も無事に帰ってきてくれた。お隣さんとも和平交渉が上手くいきそうだっていう話でしょう。これ以上ないくらいの成果だと思わない?」
「それは確かにそうだけど」
「けど、じゃないのよ。そういうものとして受け容れなきゃ疲れちゃうわ。だから私は何度だって言うわ。無事でいてくれてありがとう。そしてお疲れ様」
「…………」
私は何かを言おうと思った。
けれども、敢えて何も言わぬことにした。
言葉にすれば、大切な何かが零れ落ちてしまいそうだったから。
アリスも、それ以上何も言いはしなかった。
私を見て、にこにこと笑うだけであった。
「――あ、そうそう。オスカーのことなんだけどね」
思い出したようにアリスは口を開く。
「オスカーさんがどうしたの?」
オスカーさんは、あの後、単身で王都まで向かい、法皇様に――私の祖父に――事の次第を余すことなく伝えたそうだ。その甲斐あってなのか、はたまた伝令隊が先着していたこともあってか、法皇こと祖父は独自の伝手ないし経路を用いて即刻和平の交渉を始めたという。また相手国も素直に応じてくれて――あっさり過ぎるほどあっさりと戦争は終結してしまった。
詰まる所、見事アルフィー参謀長の思惑通りに事が進んだという訳である。尚、オスカーさんは王都に留まり、祖父の護衛を務めるため暫くは帰れないとのことである。
「団長から聞いたわ。あいつ、葉月の弟なんですって? あとは昔、月を墜とそうとした極悪人だってことも」
「それは、うん、そうだね。私も知ったのはほんとつい最近。戦いの最中」
そこまで喋ってから私は思い出す。
アリスは、弟が起こした事件のせいで住居と母親を喪ったことを。
そんな弟を好いていることを。
彼女の心境たるや如何ばかりかと思うが、彼女は私の心配を察知したのか、あなたがそんな顔をする必要なんてないわ昔の話なんですもの――と言って笑うだけであった。
その微笑みが。その言葉が。
本心かどうなのかは鈍い私には分からなかった。
「今度、あいつが王都から帰った時にでも、ちゃんと紹介してくれない? あのけったいな兜も仮面も外してさ。オスカーというのも偽名なんでしょう? 尋問の場所は――そうね、あなたの喫茶店でいいかしら。予約しちゃうわ」
「うん、分かった。でも期待はしないでね。弟は素直じゃないし猫みたいに気紛れだから、来てくれるかは分からないよ」
「そんなの知っているわ。何て言ったって長い付き合いなんですもの」
場合によってはあなたのことを義姉さまと呼ぶことになるのかしら――と言って、アリスは冗談めかして笑った。今度は、鈍感な私でもそうと感じ取れる本心からの笑顔であった。
* * *
私の回復を祝う宴も、月の都への凱旋も終わり、皆に見送られながら喫茶店に帰ってきて――私は漸く人心地ついた気分になった。
暫く店を空けていたせいか、店内には薄らと埃が積もり、空気も底冷えしているように感じられたが――暖炉の灰と珈琲の匂いが染みついた雰囲気に懐かしさすら抱いた。
私は日常を取り戻すことができたのだと。
帰ってきたのだと。
全身が溶けていくような安堵を覚えた。
でも、これで終わりじゃない。
これから、この店を切り盛りしていくのだ。
ここからが本番である。
そう思えば、疲れている筈なのに活力が湧いてくるものだから、不思議というか現金というか――何ともまあ自分らしいと思う。
気の向く儘に、掃除や片付け、郵便物の確認などをしようとも思ったが――やはり疲れていることに変わりはないのだと思い直し、玄関の把手に吊り下げられた標示が「閉店」になっていることを確認してから、ひとまずは日本に帰ることにした。
……………………。
…………。
蔵から出ると、空が真っ黒なことに驚いて――私はそこで、あちらとこちらでは昼夜が逆転していることを思い出す。
夏の蒸す夜であった。
高い塀越しに見る街灯には、名前も知らない羽虫達が何度も躰を擦りつけている。門は閉ざされていたが、玄関の戸口は空いていた。男物の革靴が――ライダーブーツというものだろうか――三和土に行儀良く並んでいる事から察するに、また弟が勝手に上がり込んでいるのだろう。
案の定、弟はいた。
居間の座布団にどかりと座り。
膝には猫を乗せて。
いつものビデオゲームに勤しんでいた。
テーブルの天板には、七面鳥が描かれた洋酒の瓶と、胴の太い硝子の杯が置かれている。
見ているこちらの方が夢ではないかと思うくらいの、ありふれた光景であった。
敷居を跨いだ私に、真っ先に気付いたのはミケだった。ぱっと顔を上げると「みゃおん」と一鳴きして、尻尾をぴんと立てながら私の足許に擦り寄ってくる。ご飯の催促かとも思ったが、どうやら違うらしい。本当にただの挨拶であるらしい。
「姉貴じゃん。お帰り」
弟も声を上げるが、視線はテレビ画面に向けられた儘である。
「うん、ただいま」
私も調子を合わせて返事をする。
ミケを抱き上げようと手を伸ばしたところで、するりと逃げられてしまった。ミケはまたも弟の膝に戻ると、鞠のように丸くなって、一分も経たないうちに寝息を立て始める。
「…………」
どこにでもある日常の一コマである。こうして見ていれば、誰も私達が世界を行き来して、戦争を経験してきたなど思いもしないだろう。敢えてその雰囲気を乱すのも悪いと思い、シャワーでも浴びようと居間を出ようとしたところで。
「あ、待ってよ姉貴」
弟に呼び止められる。
振り返れば、今度は目が合った。尤も、瞳の焦点は曖昧で、その呂律が怪しいことから察するに、既に大分酔っているらしい。
画面には『YOU DIED』の赤文字が。
「爺様から手紙を預かって来たんだよ。あとは報酬も」
弟は懐から一枚の封筒と、こぶし程度の革袋を取り出してテーブルに載せる。よく見れば、鎖帷子に革の胴着という向こう側の戦装束であった。弟も帰ってきたばかりなのかもしれない。
「手紙は分かるけど、報酬?」
私はまず袋を手に取ってみる。
小さいのにずしりと重い。
紐を解いて口を下に向ければ、大きな金貨が三枚も転がり出てくる。
「そ。一枚が爺様から、二枚目が騎士団から。そんで三枚目が俺からの贈与。これだけあれば喫茶店だろうが居酒屋だろうが開けるだろうよ」
「ちょっと待って。理解が追いつかない。どうして私が報酬を貰う話になっているの?」
「どうしてって――そんなの当然だろ。戦場に立って功績を上げたんだ。しかもお陰様で俺達は一人も死なずに済んだんだ。俺から言わせりゃその方が余程奇跡だよ。それとも姉貴は遠慮してる感じ?」
「そういう訳じゃないけど」
「なら良いじゃん。貰っときなよ。金銭でしか騎士団は対価を払えないんだぜ。貰ってやるのが礼儀ってもんだぜ」
「それなら、お爺ちゃんやあんたから貰う理由もないと思うけど」
「あー。爺様については、多分小遣いか迷惑料のつもりなんだと思う。俺については、まあ、その、何だろうね。仲間を救ってくれた感謝の印? ちょうど賭けで払った分も戻ってきたし」
どこか言いにくそうに弟は言った。
「賭け?」
「あれ、聞いてない? 俺というかオスカーとかいう人間の替え玉説」
「それはアリスから聞いた。でもあんた肯定したんでしょ。それなのに貰ったの?」
「胴元の爺様が気を利かせてね。今回の収益は参戦した者への支払いに充てると言い出したんだよ。俺も、払った分が戻ってきたんだよ」
「それならこれはあなたのお金でしょう。私はいいから、自分のために使いなさいよ」
「いや、俺はいいよ」
弟は首を横に振ってから洋酒を呷る。
「どうして?」
「俺はあまり役に立たなかったからね。貰ったところで教会に寄付するしか使い途がないし。それに大金貨は確かに珍しいけど、両替やら何やらで面倒だからね。だったら姉貴に使ってもらった方が何倍も良いだろ多分」
「そこまで言うのなら。ありがとう」
「へへへ、どういたしまして」
弟は照れくさそうに笑うと、ミケを撫で回してからゲームに戻る。
「手紙については? 何か聞いていないの」
私は封筒を手に取る。
あちら側で使われている何の変哲もないものであり、折り口には封蝋が施されている。
「特には何も」
「そっか。あんた今、鋏とかある?」
「あるよ。ほい」
弟は、革帯に下げた投擲用の短剣を、刃を掴んで私に向ける。
私も受け取って、封筒を切り開いた後、同じように返却する。
「……その格好で外に出ちゃ駄目だからね。銃刀法違反で捕まるよ」
「分かってるよ。着替えるのが面倒だったんだよ。どうせ向こうにもすぐ戻るつもりだし」
「え、すぐ?」
「戦後の処理で色々忙しいんだよ。破壊された城壁の修理やら清掃やら事務処理やら決済やら。姉貴もさ。疲れているところ悪いけど、余裕があったら顔を出してくれない? 何人か、傷は治ったけど後遺症とか感染症とかで、思うように手脚を動かせないヤツがいるんだよ」
「うん、分かった。急いだ方が良い?」
「いやいや。余裕があればの話だから」
弟はそう言うとゲームの電源を切り、ミケを脇に退けてから立ち上がる。
「んじゃ、俺は行くよ」
「もう?」
「姉貴にそれを渡すのが目的だったし。あ、ミケの様子を見るのもか。あとは――そうそう。俺、近々騎士団を脱退するから、そんときは給仕でも用心棒でもいいから雇ってよ」
「え、ちょっと――」
弟は、私の返事を聞く前に、酒瓶と杯を放置して(!)立ち去ってしまった。
……………………。
…………。
『冠省 事の次第は弟から聞いた。後の事は私達に任せて、お前はお前の目標に向かって邁進すれば良い。だが、先ずは躰と心の休息に充てるべきであろう。
却説、此度は戦という血腥い世界に巻き込んで本当に済まなかった。怖い思いもさせてしまった事であろう。詫びになるとも思わないが、弟に金貨を持たせた。好きに使ってほしい。
また、御礼を述べなければならない。お前達が見た月からの使者は、間違いなく私の妻だった女性である。私はあれに会う為に、月に近付かんと法皇にまでなったが、よもやお前達に先を越されるとは思わなんだ。この年になっても人生とは儘ならないものである。
件の喫茶店、開店の日取りが決まったら文をくれ。お前の淹れた珈琲を飲みながら、あれの話を聞かせてほしい。草草』
……………………。
…………。
結局、祖父の便箋を受け取ってから開店までに一週間あまりの時間がかかってしまった。
騎士団の仕事が慌ただしかったこともあるが、それ以上に、資材の流通が滞ったり、それゆえ仕入れ費用が想定以上に嵩んだりなどといった諸々の事情が重なってしまったことの方が大きい。
今日は待ちに待った開店日である。
とはいうものの、宣伝らしい宣伝は全くしてこなかった。
私ひとりで捌けないくらいの来客があった場合、接客の質が低下するのを避けたかったためである。せいぜいが、いつもお世話になっている運び屋の男性を始め、騎士団ではウィリアム様にアルフィー様、アリスにカイル君程度である。
ちなみに。
オスカーさんこと、あの愚弟であるが。
脱退が受理されなかったらしく、未だに雑務全般に追われているのだとか。その弟に、祖父へ開店の日時を伝えるように頼んだが、そもそも本当に伝えてくれたのかさえ怪しいところである。
私は自分用に淹れた珈琲を楽しみながら――濾過紙による抽出である。最近本格的に練習始めたのだ――読みかけの文庫本に手を伸ばしたとき。
――からん、と。
玄関の扉に取り付けた呼鈴が鳴った。
見れば、ウィリアム様が立っていた。
いつもの甲冑姿ではない。
紳士帽に外套、首には飾布を巻いた、此方側の礼装である。
「いらっしゃい。一名様ですか」
お好きな席にどうぞ――と言いながら、彼の帽子と上着を受け取り、入口側の帽子掛けに引っ掛ける。
彼は迷うことなく暖炉側の席に座った。
私がお手拭きとお冷やを差し出せば。
「葉月殿。開店おめでとうございます。もしや私が一番乗りですか」
と尋ねる。
「ええ。あんまり賑やかになっても喫茶店の雰囲気が壊れると思って、実は宣伝や広告をしなかったんです。それはそれで寂しいものがありますが――とりあえずはそういう訳ですから、ウィリアム様が今日初めてのお客様です」
「それは光栄ですね。確かにこの店の雰囲気は独り占めしたくなるものがありますね」
「ありがとうございます。献立はそちらにありますので、お決まりましたらお声がけください」
「注文は既に決めております。温かい珈琲と焼き菓子をお願いします」
献立を一瞥もせず、ウィリアム様は言った。
「珈琲とお菓子ですか?」
その注文が意外で、私は聞き返してしまう。
今はお昼時である。そして彼のように鍛えている男性ならば、もっとしっかりとした食事を頼むであろうという先入観があったのだ。
「意外ですか?」
「ええ。少しだけ」
「この店に客として来る事ができたなら、最初からこれにすると決めていたのですよ」
「それは――どうしてでしょうか」
「あの日、頂戴した焼き菓子と珈琲がとても美味しかったからです」
そう言う彼は至って真面目な顔をしていて――お世辞やご機嫌取りの類ではないとすぐに分かった。まさか、目分量で大量に作って余らせたクッキーをそこまで気に入ってもらえるとは思わず、私は妙な照れ臭さを感じてしまった。
「それと、仲間の為に持ち帰りたいのですが、包んでもらえますか」
「はい、お菓子は作り置きしているので大丈夫ですよ」
「お願い致します」
それからは、あの日と同じだった。
小皿に盛り付けたクッキーに祝福をかけて、珈琲と共に提供する。
一口一口を噛み締めるように味わう彼をカウンターからそっと見守る。
そこに、味の感想だとか、つまらぬ世間話などといった無粋な言葉はなかった。
互いが互いの存在を確かに認めつつも、敢えて雰囲気を乱すまいとする人間らしい厳かで暖かな静けさばかりがあった。
――そうだ。
これでいいのだ。
これがいいのだ。
随分と遠回りをしてしまったけれども。
私と彼は、根本的なところでは何も変わっていないのだろう。
「――ああ、そうです」
不意に彼が顔を上げた。
「お店の名前は決まりましたか」
「ええ。考えて、ようやく決めることができました」
「何というのですか」
「〝満月〟にしようかなと考えております」
「成る程、満月ですか」
彼は、何かを思い出すようにそっと目を伏せた。
どうして、とは聞かれなかった。
答えは用意していたのだが。
――貴方と出会った日の月が、とても綺麗だったからです――。
彼は感慨深そうに頷いてから。
「とても良い名前ですね」
と褒めてくれた。
それからは、二人揃って口を閉ざしてしまう。
私は将来について思いを馳せる。
彼に対する慕情は今もある。関係が進展するのだろうか。店は賑わってくれるだろうか。何事もなければ良いのだが。一月後には大学だって始まってしまう。その時にも続けていけるのだろうか――。
一度考え出せば悩みは尽きない。
けれども、今だけは。
この暖かで幸せな沈黙が続いてくれると良いな――と思った。
※特に述べることもありません。お付き合いくださいまして真にありがとうございました。




