79.私の心を占めていたのは強烈な怒りであった。
私の心を占めていたのは強烈な怒りであった。お前達がウィリアム様を殺したんだという怨嗟であった。沸々と肚の底から込み上げてくる、どす黒い色をした感情であった。
不思議と、悲しみはまるで感じなかった。それは、私の本能が安全装置を稼働させたがゆえなのか。或いは、月を墜とせば彼が蘇るものと本気で信じているためなのかは判然としなかった。
ただひとつ理解していたのは。
私にとって彼の死は到底受け容れ難いことであり、理性が現実を拒んだこと。今後の祈りに、醜い自我を混ぜてはならぬという自戒だけであった。
傷だらけの躰を引き摺るようにしてやってきた弟が、私の両肩を掴んで何かを言っているが、情報の受容と処理を拒んだ鼓膜と脳髄のせいで内容は理解できなかった。それどころか、目の前に立っている弟の姿すらも、いつの間にかぼやけて輪郭を失い、黒い靄にしか見えなくなってしまった。
そこで初めて、私は自分が泣いていることに気付く。
涙を拭っても、溢れ出す雫は止まる気配がなくて。
本当は分かっているのだ。一度死んだ人間が生き返るなどありえないことだと。それでも尚、奇跡に縋ることしかできない自分があんまりにも惨めに感じられたものだから。
膝から崩れ落ちてしまうのを堪えるので精一杯であった。だが、こうしている間にも、刻一刻と月は迫り、凹凸ばかりの奇怪な岩肌が、空一面を占領したとき。
――その涙に免じて――。
――貴女の願い、聞き届けてあげましょう――。
誰かの声が聞こえた。
丸い響きを帯びた、柔らかな女性の声音であった。
いつの間にか俯いていた顔を上げれば。
私のすぐ目の前に。
いつかの夢で出会った女性が、宙空に浮いていた。
まるで満月から生み出されたかのように。
最初からそこに存在していたかのように。
私とよく似た顔立ちであることも、純白の外套で身を覆っていることも、豪奢な杖を持っていることも、あの日の悪夢と変わらない。
ただひとつだけ違うのは。
私達を見て、心から嬉しそうな笑みを湛えていることである。
その声と同じく、穏やかな微笑は。眼差しは。肉親に向けるそれであり――私は、胸の奥、本能と呼ばれる領域から、安堵と懐かしさが滲み出てくるのを感じた。最前までの悲しみが嘘だったかのように。
弟に至っては目の前の光景が余程信じられないらしく、面頬を外して、詰め襟まで緩めて、何度も目を擦った後、本当かよ夢じゃないんだな――と最後に呟いた。
彼女が、杖をさっと前方に掲げれば。
杖の先端から横溢した、赤橙色をした光の奔流が――奇跡『太陽の光の癒し』と同系統の色である――私と弟、そしてウィリアム様を包み込む。
暖かな光が消え去った時には、女性の姿も足許から薄れ始めていた。
――可愛い孫娘のお願いも叶えたことだから、これでお暇させてもらうわ――。
――でも、良いこと? 確かに私は、いついかなるときでもあなた達を見守ってはいるけれど、あてにしちゃ駄目だからね。宜しくて?――。
私は何かを言おうと思った。
彼女が消える前に、何かを告げなくてはならないと。
だが、月光に満ち満ちた、この静謐でありながら騒々しい空間を、私ごときの発言で乱すのも、なんだか申し訳ない気分になって――私は終ぞ、一言も発することができなかった。せめて感謝だけは示そうと『丁寧な一礼』をすれば、隣の弟も、ぺこりとお辞儀をする(猫がくしゃみを我慢したかのような、まるで様にならぬ姿であった)。
――二人とも。ちゃんと月を戻すのよ――。
――それじゃあ、あの人にも宜しく伝えて頂戴――。
最後にそう言って、女性は溶けるように消えていった。
夢のようだと思った。
だが、夢ではないことは、今でも降り注ぐ隕石群が、無表情の満月が、これでもかという程に激しく主張している。
そして何よりも。
「葉月殿? オスカー? 私は、一体――」
戸惑いながらも身を起こすウィリアム様が(!)。
あの女性の奇跡のお蔭か、彼の傷は治っている。
私は、今度は違う意味で泣きそうになってしまった。
彼に今すぐ飛びつきたい衝動を宥め賺していれば。
「月が……!」
ウィリアム様は驚愕したように言った。
それも当然だろう。
深い眠りから覚めたと思ったら、月面がすぐ側まで近付いていたのだから。
「あー。それについては、こちらに御座します当代の聖女であり救国の才媛である葉月猊下がやりやがった次第にございます」
いつの間にか面頬を着用した弟が――今はオスカーさんと呼ぶべきだろうか――敢えて慇懃無礼に述べる。
「ちなみに団長。あんたは確かに一度死んだ。だがその命をこちら側に引っ張ったのはここの聖女さまだけじゃなくて、先代聖女サマのご協力があってこそだ」
「先代聖女の?」
「月から出張ってきて俺達に奇跡をかけてくれたんだ。それはそうと――立てますかい? 月と星にビビって連中は尻尾巻いて撤退しましたが、ここは敵陣のど真ん中だ。速やかなる撤退を進言しますよ僭越ながら」
「それは――そうだな。そうしよう」
答えたウィリアム様は、多少ふらつきながらも立ち上がる。
私が手を貸そうとしたところで、杖をオスカーさんにひったくられる。
「な、何を――」
「いや、なに。月を元の位置に押し戻すだけですよ」
「……できるの?」
私が小声で尋ねれば。
「月を墜とそうとした人間だぜ俺は」
これくらい訳ねえよ――とオスカーさんも小声で答える。
事実、彼が杖を空に向けた途端、全ての天体が静止した。そして、暫くその儘でいたかと思えば、悍ましい顔をした月が次第に遠ざかり――元々の大きさにまで引き下がってしまった。
「――ふぅ。今の精神と信仰じゃあこれくらいが限界だ。ほらよ、杖、返すぜ」
口調とは裏腹に、丁寧な手付きでオスカーさんは杖を私に差し出した。
「待て、オスカー。お前、生きていたのか?」
「あー、そういえば団長には報告していませんでしたっけ。なあに、副団長と一緒になって、火遊びをしていたんですよ、あの通り」
そう言いながらオスカーさんは遠くの空をくい、と指差す。見れば、遠くの山際が燃えているように見えるが――否、あれは朝焼けなどではなく、実際に燃えているのだ。
「そうか。火計は成功したのか」
「まあ部隊が帰還していない以上断言はできませんが、敵さんに損害を与えたことは確かでしょう。それで、『見えない体』を使える俺だけが敵本人を突っ切って、本隊に合流しようとした訳です」
「成る程。お前も無茶をするな」
「団長ほどではありませんよ。というか俺がいなかったらお二人は死んでいたことをお忘れなく」
「ああ、感謝する。無事に帰ったら報酬は弾むことを約束しよう」
「無事に帰れたら、ですがね」
「オスカー、お前は殿につけ。先頭は私だ。葉月殿は、ゆっくりで構いませんので、私の後に続いてください」
「最後まで気を抜かないことだな。どこに敵が潜んでいるか分かったものじゃねえ。そもそも帰る先の砦が陥落していないとも言い切れないんだ。ほら、よく言うだろ。遠足は帰るまでが遠足だってな」
そう言ったオスカーさんであったが、その心配は杞憂に終わった。
私達三人は会敵することなく敵陣を切り抜け、その先の原生林で小休止を挟んだ後、無事に第一の砦に辿り着くことができた。
その砦も夜襲を受けたようであったが、先に退却していたカイル君達が挟撃する形となり、防衛することができたという。また、敵の兵糧庫を焼き討ちしていた工作部隊も帰ってきて、互いが互いに報告を済ませ、万事終えたな――と感じた時には、東の空から太陽が顔を覗かせていた。
……………………。
…………。
体力の限界に達し、今にも倒れそうな聖女を城館の寝室まで運んだウィリアムを待っていたのは、アルフィーとオスカー、そしてカイルであった。全員が、木箱か手頃な瓦礫に腰掛け、中央に灯した篝火を眺めている。
この集会はウィリアムが指示したものではない。騎士団において、作戦後、自主的或いは成り行きで開かれる情報共有ないし反省の場であった。ゆえに参加者は固定していない。勤勉な者は出たがるし、出ない者は一度も出ない。そういう自由な気風であった。
ウィリアムも空いた道具箱に着座する。
自然と嘆息が漏れ出た。
まだ戦いは終わっていない。だが、ひとつの山場は乗り越えることができたのだ。しかも一人の落伍者も出さずに。後は、此度の戦果を王都にまで送る伝令を走らせ、和睦に至るまで、此処で持ちこたえるだけであった。
「珍しいな、オスカー。お前がここに残るとは」
「いえ、なに。伝令に立候補しようと思いましてね。あとは簡単な腹ごしらえですよ」
でなきゃこんなところに残りませんわ――と答えたオスカーは、『太い獣骨』に巻き付けた『削ぎ肉』と『獣肉の塊』を篝火で炙っている。憎まれ口を叩きながらも人数分用意しているところを見るに、根は真面目な人間なのだとウィリアムは思う。
「どういう風の吹き回しだ?」
「俺が法皇サマに取り次いだ方が話が早く進むと思っただけですよ。その前に、ひとつ確認させてもらっても?」
「何だ。言ってみろ」
「団長はどうして生きているので? ――あ、いや。悪口じゃないですよ。呪いの指輪である『法皇の右目』や『法皇の左目』を贈られた外征騎士は、皆狂った獣になってそのままおっ死んでしまうじゃありませんか。生還したとなれば、それだけの理由を報告せにゃならんのです」
「――ふむ、理由か」
ウィリアムは考える。
己が獣に成り果てることは想定していた。
聖女が獣の言葉を理解できるかもしれないことも。
その聖女に己の補佐を任せようと思ったことも。
だが、それまでである。
己は討ち死にするか、狂った戦士として仲間に殺されるものとばかり思っていた。そうと腹を括っていたのだが――だが、己は生きている。生きて此処にいる。それも人間の形を保って。
肉に含まれた油分が爆ぜて、ぱち、と音がした。空腹に耐えかねたカイルが手を伸ばせば、生焼けだ腹を壊すぞ馬鹿野郎――とオスカーが止める。
「……分からんな。葉月殿が奇跡を掛けてくれたお蔭なのかもしれない」
「奇跡という言葉があまりにも都合が良すぎて釈然としませんが、まあそういうことにしておきましょうか」
「私からもいいか」
「うん? 何です」
「どうしてお前は伝令に立候補した? どうしてお前が月を止めることができた?」
「あー。まあ、気になるわな」
オスカーは逡巡した後、仮面と兜を脱ぎ捨てて素顔を露わにした。
幼さの残る青年の顔には。
その真っ黒な眼には見覚えがあった。
「オスカー。お前、まさかあの時の」
「団長。ガキの時は迷惑を掛けてすいませんでした。しかしまあ、そんなワケだから、爺様のことは俺に任せてください。どうにかして説得するんで。あとは――そうだ」
表面の焦げた『勇者の肉塊』を片手にオスカーは立ち上がると。
「姉貴のことも頼みます。あの女、多分団長に惚れているんで」
そう放言したオスカーは肉塊に齧り付いて――うげ、生焼じゃねえかこれ――と言って即座に吐き捨てた。
暢気な様子を見てウィリアムは肩の荷が下りるのを感じた。
※書き溜めが尽きたので充電期間に入ります。くぅ疲。
※あと一章と後日談的な話で完結にする予定です。それまで、もう少々ばかりお付き合いください。




