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62.幸せな夢を見ていた。

※3月11日。毎年この日が来る度に憂鬱になる。言わずもがな2011年に起きた東日本大震災を思い出すからだ。私は東北出身であり、当時はまだ岩手県盛岡市にいたのだが直接的な被災者にはならなかった(停電と断水を食らったが、それだけである)。母も愛猫も生きていた。長い長い横揺れに不安を感じながらも、右手に愛猫を、左手に兄貴の飼っていたハムスターのケージを提げて、玄関で揺れが収まるのを待っていた。ゲーム『.hack//GU』のプレイ途中だったが停電でデータが消えてしまったことを何故か鮮明に覚えている。こんなネットの片隅、物書きの最底辺からではあるが、被災者および犠牲者に追悼を捧げる。願わくば死後の世界が安らかであらんことを、どうか。

※母も猫も、もういない。仙台の劇団で出逢った女性も。この悲しみは何時になったら克己できるのやら。

 幸せな夢を見ていた。喫茶の夢である。

 それも、ただ開店するような内容ではない。

 閑古鳥がくような寂しい状況でもない。


 客席は、カウンターからテーブル席に至るまで見知った顔で埋まっている。

 私に最も近い席に座るのはウィリアム様である。その隣には副官のアルフィー様が。更に隣には、資材の仕入れなど様々な面で便宜を取り計らってくれた商会の組合長が。彼女がアルフィー様へ向ける眼差しや会話の内容から窺うに、未だに交際はしていないらしい(アルフィー様が組合長のことをどう思っているのかは分からないが)。


 少し離れた暖炉にほど近いテーブル席にはアリスとオスカーさんが向かい合っている。相変わらずオスカーさんは尖った兜に面頬を付けているが、今日ばかりは詰め襟を緩めて、鼻より下が露わになっている。そのどこかで見たことのあるような口許は、アリスが話題を投げ掛ける度に、ほんの少しだけ笑みの形をつくっているように見えた。それはきっと、彼女と彼女の想い人が仲睦まじくあってほしいという私の願望がもたらした目の錯覚だったのかもしれないが――。


 暖炉の熾火おきびを背景に何やら語らい合う男女の姿は、美術館に飾られる一枚の絵画のように美しく見えた。


 書架近くの大テーブルには医務室の常連だった者達が集い、カップやサンドイッチを片手に、手札カードを使った賭博とばくに興じていた。見たところ、決められた枚数と交換回数で、どれだけ貴重な役を揃えられるかを競うポーカーしくは麻雀マージャンのようなものである。

 賭け事の胴元は無論あの聖騎士――私とアリスは親しみを込めて「お爺ちゃん」と呼ばせてもらっている――であり、また不正が行われていないかのお目付役として、暗月の女性騎士がディーラーを担っている。

 清廉潔白な印象のある彼女だが、嫌な顔ひとつせず、それどころかむしろ嬉しそうに手際よく手札を戦士達に配っていく。

 彼女の視線が時折聖騎士に向けられること、そして聖騎士には、王都で騎士を務めている優秀なお孫さんがいるという話を聞いたことがあり――つまりはそういうことなのだろう。


 家族仲が良いのはとても尊いことである。

 何事にも代え難い宝物であろう。


 私は少しだけ羨ましくなってしまった。

 何せ、私の家族は皆バラバラなのだから。

 仲が険悪とまでは言わないが、父は海外出張でいつも家を空けているし、母とは兄の件で未だに埋められぬ溝がある。祖父と弟に至っては未だに何処どこで何をしているのかすらも分からない。ミケは弟ばかりに懐いて、私は気が向いた時だけしか擦り寄ってこない。


 ――閑話休題。


 忙しい厨房をさばくのは侍女長率いる少数精鋭の侍女隊であり、丸盆片手に厨房と客間を絶え間なく往き来するのは給仕服に身を包んだカイル君である。


 たった一人で回すのは大変でしょうと。

 私にも手伝わせて、と申し出てはみたものの。


「なあに。これくらいへっちゃらですよ。日頃の稽古や丁稚奉公時代に比べればね。それよりも店主は店主らしくカウンターで、どっしりと構えてくださいよ。もしもお手空きなら団長の話し相手でもされてはどうです? 接客も立派な仕事ですし、何よりもお似合いですよ」


 などとさとされてしまったのだ。


 ――話し相手、か。


 お似合いと言われて嬉しくなかったと言えば嘘になる。その真意が、店主らしく在ることか、それとも彼の接客をすることかは分からなかったが。


 しかしながら、彼も私も口数の多い性分ではない。私に至っては最早口下手と言っても良い領域である。無論仕事ならば必要に応じて最低限に喋りはする。そして日頃から会話に慣れておかなければ、いざという時に意思疎通が上手くいかないであろうことも承知しているが――沈黙は金、雄弁は銀ということわざだってあるのだ。


 それに、今日くらいは。


 珈琲の芳香と共に、この店の雰囲気を――私と彼だけが理解し得る確かな沈黙を――味わってもらいたかった。喋るだけが接待ではないのだ。


 弁解いいわけ染みたことを考えながら彼を盗み見れば、きっと彼も私を見ていたのだろう。視線がかち合って――ふっ、と彼が微笑した。

 私は何だか急に照れくさくなってしまい、反射的に目を背けてしまった。急ぎでもないのに、手元にあった、水洗いしたばかりのカップを取り、乾いた布巾で丁寧に水気を拭う。


 幸福しあわせな時間であった。

 満ち足りた瞬間であった。

 だからこそ、私は違和を抱く。


 その疑念という名のひびは徐々に拡がり、やがては世界を崩壊せしめんとする亀裂となり――私は、このような幸せを享受して良い人間ではないのだという慣れ親しんだ自己嫌悪も手伝い――此処ここが現実ではないことに思い至る。


 それからは早かった。


 最初に暖炉の火が消えた。次は、窓から差し込む昼下がりの陽光が青褪めた月光に変わり、しばらく待てば、それすらも通り越して、窓硝子まどガラス乾溜液タールを塗りたくったかのような真っ暗闇になってしまった。


 先刻まであれ程までに賑やかだったのに、皆一様に黙りこくって俯いている。その深い深い静寂の怖ろしさ。得体の知れぬ怪奇現象のおぞましさ。己が闇に呑まれてしまうのではないかというどこまでも根源的で生理的な嫌悪感たるや――。


 光源はカウンターの上部に吊り下げた角灯ランタンひとつだけであり、松脂を糧に揺らめくその頼りない炎は、私とウィリアム様をスポットライトのように照らしてくれる。

 他の者はどうなってしまったのかは分からない。態々(わざわざ)確かめる気にもなれなかった。どうせ、闇に溶けて人ではない何かになってしまったのだろう。そのような取るに足らない者達よりも、私達が今此処ここに、確かに存在していることの方が余程重要に思えてならなかった。


 ウィリアム様は、唇の端に薄い笑みを湛えながら、近傍あたりの異変を少しも気にすることなく私を凝然じっと見詰めている。その表情のまま


「どうされましたか」


 とだけいた。

 私も彼を正面から見詰め返して。


「いえ。皆が消えてしまったものですから、少しばかり驚いてしまっただけです」


 動揺を圧し殺しながら答える。一瞬でも目を逸らしてしまえば、彼が消えてしまいそうな気がして――今度こそ本当に独りになってしまう気がして――怖くなったのだ。


「仕方のないことでしょう。それが戦というものです」

「あなたは。ウィリアム様は消えませんよね」

「どうでしょうか。断言はできません」

「お願いします。約束してはくれませんか」


 仮令たとえ嘘でも構いません、と私が乞えば、守れぬ約束を交わすのは本意ではありません、と彼は譲らない。


「この間は、戦争が終わったらお店に来てくれると仰ってくれたではありませんか。それだけではありません。初めて会った日にも、開店したら来てくださいと。お店の宣伝もお願いしたじゃありませんか」

「それは――そうでしたね。確かに、私はそれを良としました」

「それなら」

「事情が変わりました」


 ご理解ください、と彼は私の反論を遮る。


「事情、ですか」

「そうです。事情です」

「死にに往くつもりですか」

「はい」


 何かを言おうと思った。今、彼を引き留めなければ、間違いなく彼は、彼の望み通りに死んでしまうだろうと思った。だが、彼の水晶よりも透明な、死を覚悟した者に特有の眼差しに射貫かれて私は言葉を失ってしまう。私は、また大切な人を見送ることになるのかという静かで強烈な悲しみばかりがあった。


「それならば」


 己が運命に対する憤懣と悲愴に駆り立てられるが儘、口を動かす。


「私の想いを知ってください」

「何を仰るつもりですか?」


 怪訝そうな彼を無視して。


「好きです、ウィリアム様。私は、あなたを愛しております」


 と言った。

 含羞はなかった。堂々たる誇らしさも同様に。ただただ、どうせ彼が死から逃れられないのならば、今のうちに伝えておこうという――多大な開き直りと些細な義務感に近い感情からの言葉であった。


 それはまるで。

 夜に不足した酒と肴をコンビニまで買いに出掛ける弟へ、ついでにメモ帳と5mmの油性ボールペンを買ってきてとお願いするような――真剣とはほど遠い、むしろ軽薄さすらはらんだものであったが――それでも正真正銘の本音であった。


 驚いたのは彼の方であった。


「まさか、あなたにそう言われる日が来るとは」

「そんなに意外でしたか。我ながら明白あからさまな態度を取り続けたつもりだったのですが」


 一体どこの誰が、好きでもない男性に、特別にこしらえた御守りを渡そうというのか。夫婦めおとのように寄り添い合ったつがいの鶴である。極めつけはその名前――妹背山いもせやまである。


「それで、お返事はいただけないのですか」

「申し訳ありません。先程も言ったように」

「私は。今、返事がほしいのです」


 私が催促すれば、彼は珍しく困惑したような顔をしたのち。


「私が生きて帰ることができたなら、その時にお応え致します」


 と絞り出すように言った。


「そうですか。それは――僥倖ぎょうこうです。あなたをほんの少しでも引き留めることができたなら。ですが、これだけは覚えておいてください。あなたが死んで天に召されるなら、私はきっと酷く悲しむでしょう。そして、今度こそ月を墜としてしまうでしょう。誰に何と言われようとも、私は、私のためだけに、そうやってあなたを生き返らせみせましょう」

「……今度こそ?」

「以前、そういう夢を見てしまっただけです。私に、この世界を壊させないでください」

「分かりました。時に、お手を拝借しても?」

「手、ですか」


 私の手など、どうするつもりだろうかと思いながら、右のてのひらを差し出せば、彼は壊れ物でも扱うような丁寧な手付きで、私の手を取る。

 夢中の私とは異なる、確かに生きている人間の温度ぬくもりと、武人の節くれ立ったはだの固さを感じた瞬間――。


 夢が覚めた。


 私と彼を隔てるカウンターが消えた。

 周囲の常闇とこやみも。


 私は知らない部屋に立っていた。

 窓から差し込む深緋こきひの夕陽が、私と彼を静かに照らしていた。

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