58.「お兄ちゃん。起きて、皆が大変なの」
「お兄ちゃん。起きて、皆が大変なの」
オスカーは耳元で囁かれた娘の懇願で覚醒する。
その声は喉を潰された人間に特有の、革と革とを擦り合わせたかのような、およそ呻きでしかなかったが、オスカーは正しく意図を汲み取った。
全身に纏わり付く倦怠と悪寒を無視して、左腕だけを使って上半身を起こす。肘から千切れていた右腕は、かつて同僚だった暗月の女騎士が使った奇跡によって接合だけはしていたが未だ思うように動かない。蟲に血肉を囓られ過ぎたせいか、はたまた半端な奇跡と触媒を用いたせいか――。
オスカーは周囲を観察する。
自分は寝台と呼ぶに呼べない、木箱に筵を敷いただけの寝床に転がっていた。室内は暗い。己と同じく負傷者ばかりが、ゴミクズのように這いつくばっている。開放されたままの戸口から差し込む陽光から察するに、現在が日中であることも。
傍らには痩せて痩けた娘が立っている。半歩後ろには袖無しの陣羽織を纏った巨躯の騎士がでんと控えている。陣羽織の色――鮮やかな紺瑠璃は近衛隊にしか着用を許されない高貴な色である――と騎士の背中から生える、白い翼を象った羽根飾りから察するに。
こいつは『羽の騎士』サマじゃねえか。
ともすれば、このお嬢さんは。
「ああ、これはこれは。王女サマじゃあありませんか。ご無沙汰しております。こんな屍体になりかけばかりの穢い吹き溜まりに何のご用で? あなたのような高貴な方がいてよいところではありませんよ」
敢えてオスカーは慇懃無礼に尋ねる。
お兄ちゃんと呼ばれたことが何となく不快だったので。自分は兄と呼ばれるに相応しくない人間であると知っていて――目を背けていた劣等感を刺激されたがゆえの些細な仕返しのつもりだった。
喋ってから、オスカーは己が覆面と兜を着用していないことに気付くが、取り立て構うことはしなかった。部屋は夜のように暗い。また相対する娘は失明していると言っても差し支えない弱視であることを思い出したのだ。
娘とは知らぬ仲でもなかった。
まだ娘が光と声を失う前に、そして己が人相を隠すための仮面を強制される以前、師と共に謁見したり護衛に就いたりと――それらを機に逢瀬を重ね、手紙の遣り取りをするなど、密やかな交流があったのだ。尤も、数年前に娘から『天使に見えた』と告げられて以来、その細やかな繋がりもぱったりと途絶えて、王都の大書庫の天井牢に鎖されたとか、大量の文書を書き上げて異端信仰の基礎を創り上げたとか――根も葉もない噂が囁かれるようになったものだから、オスカーは娘の存在を今この時まですっかり忘れていたのだが。
「…………」
天使の娘は何事かを言った。やはり、それは吐息に毛が生えた程度の呻きでしかなかった。猫の鼾によく似ていた。何なら、部屋の隅で悪夢に魘されている死に損ない供の方がまだ煩いくらいである。
――城壁が壊されてしまったの。今、副団長が必死で侵攻を食い止めている。あなたも加勢して頂戴。私もすぐに向かうから――。
それでもオスカーは娘の話を理解する。
己が動かなければ拙いであろうことも。
「合点承知。しかしながら王女サマ。あんたまで来る必要はないぜ。近衛隊と俺達に任せて、ご自身は逃げなすった方が宜しいでしょう」
オスカーは仮面と兜を着用して、師から授かった短刀と大剣を装備する。何か言いたげな王女とその護衛を無視して納戸から出たのち、剣戟が響く方向へと駆け出す。見れば、砦の城壁は足許から陥没しているし、低くなった箇所からは帝国の兵士達が次々と城壁を乗り越えては陣地へと着地する。その数はひとりやふたりではない。怒濤のように押し寄せてくる。
それを処理しているのは副官アルフィー率いる魔術部隊と、王都から駆け付けた近衛師団である。人数にすれば前線十人、後方十人、合わせてちょうど二十という寡兵であるが――何も問題ないように思えた。
何せ、地面に飛び降りた雑兵達には数多の『魔術の矢』が。或いは改良調整された『魔力の太い矢』が四方八方から襲い掛かるのだから。直撃しようものなら鎧はひしゃげ、肉は潰え、骨は折れる。運良く転がり抜けて、ひとりの魔術師に肉薄するも、相対するのは『魔術の速剣』や『魔術の大剣』を修めた騎士顔負けの魔術剣士――謂わば武闘派集団である。付け加えるなら、連中の得物が触媒から生み出される刃である以上、損壊の心配が要らないというのも都合が良い。唯一の危険は精神力の枯渇だけだが――。
「右翼は下がれ。後詰めの近衛隊と交代だ。その隙に呼吸を整えろ。左翼、中央はそのまま戦線の意地だ。一歩たりとも退がるな!」
物見台に立ち戦闘を俯瞰するアルフィーが的確な命令を的確な時機に下すため、異常なほどの粘り強さを発揮できるのだ。また司令塔を務めながらも、機を見計らっては『魔術の結晶槍』――攻撃魔術の最高峰のひとつであり、神秘の結晶を撃ち出す魔術の神髄である――を発射して、幾人もの兵士を串刺しにしてしまうのだから器用なものである。
右翼の隙を埋める形で戦場に躍り出た陣羽織の騎士達は、人数差をものともせず、銘々の得物を巧みに操っては暴れ回る。
近衛隊に向かって「暴れ回る」とは粗野な表現であると思わないでもないが――事実としてそうなのだから仕方ない。逆境など知ったことかと言わんばかりに――きっと連中は逆境などと最初から思ってもいないのだろう。正しい判断を下せる現場指揮官が命令した。そして自分達もそれが正しいと理解した。だから鏖殺するだけといった――至極簡潔で明確な、研ぎ澄まされた集中と判断があるのみであった。そしてそれが剣技に顕れるのだろう。
――こういうのを明鏡止水とか言うのかね。
オスカーは師から教わった訓戒を思い出しながら、内心舌を巻く。
直剣と中盾を構えた者が切り込んで戦線を維持する。するとやや後方から大盾と長槍を持った者が重圧をかけ、少しの隙でも見せようものなら遠間から急所を穿ちにかかる。魔術や奇跡といった華やかな技こそ使わないものの――使うとしたら『武器の祝福』或いは『魔力防護』くらいだろう――たった少数でも陣形が機能するのだから個々の武勇に秀でていることは言うまでもない。
苛烈極まる戦い振りに、真っ先に脱落したのは敵兵でも、当の騎士達でもなく、彼らの武具であった。王家の紋章が刻まれた盾は返り血に塗れ、べこべこに凹み、剣や槍に至っては刃毀れどころか折れて使い物にならなくなってしまう。鎧や兜には、数えるのが馬鹿馬鹿しくなるくらいに矢が刺さり、傷だらけもいいところである。
だが、そうなった瞬間には、指揮官が魔術『修理』を施し、新品同様に時間を巻き戻してしまうのだから隙がない。聖女の祖父が齎した魔術である。目立たぬ効果とは裏腹に、光とは時間であり、回帰とは禁断の知恵であろう――。
――しかし、どこかで見た光景だな。
オスカーは足許に伸びた屍体から軽量弩と数本の矢弾を拾うと、腕力のみで弦を引き、城壁を昇りきって油断した兵士の顔面を打ち抜いた。
――ああ、思い出した。
この光景は。
目の前で繰り広げられる地獄絵図は。
横転した自動車の燃料貯蔵庫から漏洩するガソリンを盗もうと、危険を顧みずに群がった結果、案の定爆発炎上してのたうち回る蛮族のようにも。或いは、決死の覚悟で地雷原を踏み越え、国境を隔てる石壁をよじ登って亡命を企てる西洋人のようにも見えるのだ。
尤も、前者は教養の欠如によるものか、それとも、そうと分かっても尚、日銭を稼がねばならぬ貧困がそうさせたのかは分からない。後者は自由や人権を享受することが目的である。こんな惨たらしい侵略戦争ないし宗教戦争などを引き合いに出すこと自体がナンセンスであろう。
城壁を昇る兵士達がいなくなる頃には、屍が土嚢のように積み重ねられていた。流石に向こう側も完全に諦めた訳ではないのだろうが――いつまで待っても城門は開かず、また陥落の合図である狼煙も上がらないことから攻勢の手を緩めざるを得なかったのだろう。
「なんでえ。俺がいなくたってどうにかなったじゃねえか」
あの王女め吹きやがったな畜生が生きてて恥ずかしくねえのかよ――とオスカーが必要以上に悪態を吐きながら弩を放り捨てた時である。
「む? オスカーか。起き上がれるようになったのか」
副官アルフィーが振り返る。その血色の悪い書生顔には汗ひとつ浮いておらず、迚も大量虐殺を遂げた後とは思えぬほどに涼しげであった。
「けっ。王女サマに起こされたんですよ。城壁が破られたから様子を見に行けって、しかしまあ見事なものですな。俺がいなくても良かったワケだ」
「おい待て、帰ろうとするな」
「何です? 言っておきますがね、あの暗月の騎士に半端な奇跡をかけられたせいで絶賛体調不良中ですよ。頭は宿酔いをしたように痛むし、普通の人間なら疾うに月蝕病になっている具合ですよ。戦力外もいいところだ」
「頭痛に慣れているなら却って都合が良いと思え。ここに半分の人間を残す。今のうちに城壁の修繕をしてくれ。夜までにはどうにか使えるようにしてほしい」
「参謀殿、正気ですかい。こいつを治せと?」
無理のある注文に、オスカーは大袈裟に肩を竦める。面頬で素顔を隠している以上、交渉は自然と体様言語に頼るようになった。
「……そう嫌な顔をするなよ。見張りも付けるし、瓦礫を積み重ねるだけでもいい。要は高さがあれば良いのだ。人手と時間があれば誰にでもできる仕事だ」
「その両方がないから困ってるんでしょうが。それに高さだけあっても、雨か雪が降ればお釈迦でしょうに」
「それなら上と側面を布か革で覆えば良い。藁でもいいぞ」
「どちらもないでしょう。ウチは無いない尽くしじゃあありませんか」
「甘えるな。そこにあるだろう」
アルフィーは真顔の儘屍体を指差す。言葉にせずとも語っているのだ。布も革も屍体から剥ぎ取ってしまえと。会話を聞いていた魔術師は当然ながら、百戦錬磨の騎士達も動揺している。
「流石は冷酷な副官殿ですなあ」
動じていないのは当の二人だけであった。
「ふん。何とでも言え。死して晒す屍に何の意味がある。要は城壁を渡れるようにしてくれれば良いのだ。どうしても無理ならば木材を渡して橋にするだけでも構わない。防衛上必要なことだ。任せたぞ」
オスカーはそれ以上反論しなかった。理に叶っているということもあったが、許よりここは軍隊であり命令は絶対である。文句こそいくらでも垂れるが、違反する考えは最初から無い。しかしながら素直に頷くのも釈然としなかったため。
「分かりましたよ。この俺が立派で素敵な、壊すのが勿体ないくらいに美術的な城壁を仕上げてみせましょう。して副官殿はどうするので? もう半分の人間は何に使うのですか」
反抗を込めて尋ねれば。
「この騒ぎに乗じて砦の内部に敵が潜んでいるかも分からない。確認を兼ねた巡回だ。これは、こればかりは、私にしかできぬことだからな」
アルフィーは退屈そうな顔で答えた。
「学院の元暗殺者は言うことが違いますね。蛇の道は蛇だ。いや、餅は餅屋とでも言うべきか」
「うん? なんだそれは。師の教えか」
「まあ、そんなところです。それより、この一大事に我らが団長は一体どこをほっつき歩いてらっしゃるのですか。近衛師団の頭目殿もおられないようですが」
「団長は聖女殿の許だ。金髪の英雄殿には、正門の守護に就いてもらっている」
「なるほどなるほど。確かにあの女が作りあそばされた御守りは格別でしたからなあ。死んでも死なない人間が量産されるワケですからな。それなら俺達も、もしかしたら」
死なずに済むのでしょう――と言おうとすれば。
「そう上手くはいかないだろう」
アルフィーは先んじて答える。
「何か懸案事項がおありで?」
「カイルの件だ」
「……あいつに月蝕病の兆候は出てないはずでは?」
「今のところはな。だが今日生きている者が、明日もそうだとは限らない。先刻の話ではないが奴は月光を浴び過ぎた。常識に則って考えれば既に発症してもおかしくはないのだ。そうなれば――あとは分かるな。その時はお前が頼りだ」
「ええ、分かりましたよ。分かりたくはなかったが」
詰まるところ。
あの明朗闊達で、見込みある『隠密』の使い手が月蝕病を発症して、あの竜のなりそこない――人間性の膿とでも呼ぼうか――に変貌した時は問答無用で殺せという話である。
優秀な士官を一人喪うだけではない。深淵狩りには少なくない労力が必要となる。そうなれば、いくら近衛隊が粒揃いの精鋭とは雖も――ただでさえ劣勢であるこの状況下においては致命的な隙となる。
こと防衛ないし籠城においては戦力の集中が何よりも肝要となる。潜在的な敵が内側にいるこの状況はこの上なく拙い。
――どうする? いっそのこと。
発症する前に殺してしまうか。
オスカーは独り静かに勘案する。
少年を生かした場合における、少年自らが上げるであろう諸々の戦果と、暴走した場合における自軍の甚大な被害を。そこに一切の私情は挟まない。仲間を誰一人として死なせるものかという甘い理想も抱いていなければ、また尊い犠牲は已むなしとする忠義にも酔っていない。深淵狩りがやれ面倒だやれ億劫だといういつもの怠惰はあったが――。
この国の生まれでもなければ、騎士でも農奴でもない。況して商工業の丁稚奉公でもない――境界線上にずっと独り立ち尽くしてきたオスカーにしかできない分析であった。
その冷徹で合理的な思考を以てしても答えは出なかった。天秤は水平を保った儘――計算する要素、影響、条件などをあれこれと追加して再度演算処理しても均衡を崩すことができない。
――はて? 俺もついにヤキが回ったのかね。
己の頭も鈍ったものだと苦笑しながら天秤そのものを解析してみれば――何故か、少年が懇意にしていた聖女の顔が思い浮かんだ。少年は聖女を姉のように慕っていたし、聖女もそれを許していた。きっと少年が死んだら、聖女はまた悲しむだろうと思った。そんな顔をさせたくはないというほんの微かな感傷も。
あれは師と同じ異邦の人間である。死人をきっと覚えているのだろう。それはとても残酷なことだろうなあ――と考えて、漸く天秤は傾いた。
オスカーは、月蝕病が発症した場合に限り少年を殺すことを決める。前もって殺害しては士気が下がる。組織に不和が生じる。何より独断行動は団長が許さぬだろう。あとはもう、なるようにしかならない――否、なれないのだ。人間性が暴走しないことを祈ることしかできない。
賭け金は、己を含めた自軍の生命と国の存続。およそ多大に過ぎるが、もう賽は投げられたのだ。今更尻尾を巻いて逃げることなど。白旗を上げることなど許されない。
――唯一、懸念があるとすれば。
聖女もしくは女騎士が、少年に未熟な回復の奇跡を施して――即ち月光を浴びせることで――最期の一押しをしてしまうことである。
月蝕病は太陽の光を浴びることでしか抑えられない。
月の岩肌で濾過された無機質な光では。
常世の冷気を孕んだ、冥府の光では。
絶対に癒やすことはできないのだ。
そも、本来奇跡とは、太陽から発せられる熱と光を、月と触媒を経ることで初めて発揮されるものである。反面、魔術とは、月が秘める冷たい拒絶の力を相手に叩き込むものである。
オスカーは更に思案する。
聖女も最近になって常識を身につけてくれたようだが、肝心の魔術論理や、信仰が何処から来て何処に向かっていくのかという神学体系を学ぶ様子は見たことがない。
また暗月の騎士も、見てくれこそ一流だが、あれは一介の監視役にしか過ぎない。使う奇跡も所持する触媒も半人前である。事実、右腕を修復してくれたはところまでは良いのだが、月光が含む攻撃的な色を除去できていないため、耐性のある己ですら具合が悪くなってしまったのだ。これならまだ腕がない方がましであった。
「……こりゃ駄目かもしれんね」
オスカーが強い不安を感じた時には、既にアルフィーは仲間の半数を連れ去ってしまった。
残されたのは、脳味噌まで筋肉が詰まっている魔術師達と、返り血に塗れた騎士達であった。下知されるものと律儀に姿勢を正して待っているが、それでいて周囲への警戒も怠っていない。良い兵士達であった。
「全員、傾聴しやがれ。これより城壁の修復作業を行う!」
オスカーは普段出さぬ真面目な声色で作業の段取りを示す。今己にできることは、迅速なる城壁の復旧であった。あとはもう、祈るだけであった。
くぅ疲。
書き溜めが尽きたのでまた眠ります。
おやすみなさい。
次復活する頃にはエルデンのDLC発売がされることを信じて……。
一ヶ月以上音沙汰が無かったらSEKIROにも手を出しているとでも思ってください。
では、また。




