56.カウンター席に座りながら静かに珈琲を傾ける彼の姿は……。
カウンター席に座りながら静かに珈琲を傾ける彼の姿は大層様になっていた。
明かり取りの窓に嵌められた曇り硝子を透過する穏やかな光の筋が彼の横顔を静かに照らしている。新雪の如し月白の髪がきらきらと輝いて、世界から際立って見えるのは、きっと目の錯覚ではないのだろう。事実、そう思える程度には彼の造形は優れているのだから。美術館で石膏像を眺めてでもいれば、どちらが美術品かが判らなくなってしまいそうである。
私が見惚れていたことは否定しない。彼を被写体に鉛筆画でも彫刻でも作れば、秀逸な作品になるだろうと思ったのは確かである。捨てたはずの芸術心がじりじりと燻る。だが、それ以上に私を釘付けにした要因は。
――兄に、似ている。
この一点であった。どこが、という部分的な話ではない。ありとあらゆる総てが、兄の面影に重複して見えるのだ。違うのは髪と瞳の色くらいである。あとは――膚が青白いことも、筋肉質ながらも骨格自体は細身であることも、腮が角張って鋭いところも、くっきりとした目許も、高く通った鼻梁も、すらりと伸びた五指も、爪が短く切り揃えられているところも。
そして何より向上心が。気高さが。ゆるゆると腐敗していく己を赦せないところが。それゆえ死地に赴く憂き身を一切厭わぬところまでも。
頭では、彼と兄を重ねて見るなど、どちらに対しても失礼であるとは理解していた。また彼の含有する客観的かつ普遍的な美と違い、私が抱く兄と似ている云々という感想はあくまで主観でしかない。しかも記憶の奥底に大事にしまい続けたせいで、感傷やら美化やらが大いに混じり、迚も正しい認知とは言えないだろう。
事実、私は兄と暮らしていた時に、その才能に圧倒されたことは多々あれども、異性としての魅力――所謂格好良いという憧憬や、付き合いたいといった願望――浮ついた感情を抱いたことは只の一度もなかった。
せいぜいが、最後の一日である。
あの儚い雰囲気に中てられて、胸が高鳴ったことはあるが――あれは緊張や動悸に近しい。悲しい哉、とても色艶めいたものではない。
才能に関して言えば。
兄は、私達姉弟などとは比較にならぬほどに優れたものを持っていた。私は許より、あの万事一切を器用に熟す弟ですら叶わないと言わしめたほどである。書道では硬筆毛筆ともにあっさり八段を取ってしまうし、書写書道コンクールでは毎年表彰の盾を貰うことが普通であった。音楽分野でも、ピアノは譜面をパラパラと捲っただけで弾いてしまうし、弟曰く、ギターやベース、ドラムなども然程苦労せずに身に着けてしまったらしい。絵も当然上手くて、風景画を描かせれば、たったの一時間で、精緻でいながらも鬼気迫る一枚を仕上げてしまう。それが写実的であるか、印象派に属するかは、その時の兄の気分によってまちまちなのだが。何を隠そう、私に読書の愉しみを教え込んだのも兄である。何が良い文章で、何が悪文なのかを。その味わい方を、文章を大切にする者の在り方を――。
――だから。
これは錯覚なのだ。
否、錯覚と思わなくてはならない。
兄の夢を見てしまったから、ウィリアム様が兄に似ているように見えるだけである。
ただ、それだけ。
それ以上の意味など決してない――筈である。
私もいつかは兄の死を受け容れなくてはならない。今まで散々逃避をしてきたけれど、罪悪感を振り切って、私は、私だけの人生を歩んでいかなければならない。まあ、すぐにとはいかないのかもしれないが――。
「……そのように見詰められると、その、居心地が悪いのですが」
どこか申し訳なさそうに青年は言った。私はそこで、自分が他人様の顔を、何の遠慮もなくじろじろと観察していたことに気付く。
「ああ、これはすみません」
私が素直に謝罪すれば。
「つかぬことをお伺いしても?」
と青年は控え目に切り出す。
「私は、それほどに、あなたの兄上殿に似ているのですか?」
「それは――」
最初は、否定しようと思った。
否定するべきだと思った。
だが、嘘は吐けなかった。
そんなまさか。ちっとも似ておりませんよ――と言おうとしたが。
唇が、舌が、声帯が、発声を拒絶した。
だから私は仕方なく。
「ほんの少しだけ、雰囲気が」
と答えるに留める。
「それもきっと兄の夢を見てしまったことに起因する、ただの思い込みでしょう。どうかお忘れください」
私が接客用の微笑を浮かべれば、意図を汲んだ彼は素直に引き下がってくれた。その表情に、不快とも不安ともつかぬ影が過ったように見えたのは気のせいだろう。
「ああ、そうです。姉弟といえば」
彼に聞かねばならぬことがあったことを思い出す。
「ウィリアム様は、金髪の英雄と呼ばれる御方をご存じでしょうか」
「……ええ、知っておりますとも。この度、援軍として王都から派遣された、戦力としては頼もしい味方です。彼奴がどうされたのですか?」
言葉に少々の含みを持たせながら彼は答える。やはり、カイル君の言うようにあまり評判のよろしくない人物なのかもしれない。
「いえ、どのような人物であるのかなと、ふと気になったものですから。英雄と呼ばれるということは、何か事を成し遂げた一角の御方なのでしょう。お会いすることはできないのでしょうか」
流石に。
金髪の英雄その人が、私の弟であるかもしれないのです――とは訊けなかった。
彼はすぐに答えなかった。
飲みさしのカップを置き、私をじっと見詰めてから。
「あなたには知る必要の無いことです」
とだけ言った。
その冷たい声と眼差しに、私は萎縮して何も言えなくなってしまった。普段見かけぬ態度であったこともそうだが――何よりそれが私に向けられたことの方がショックであった。無論、それが私を戦争から遠ざけようとする彼なりの優しさだった可能性もあるのかもしれないが――。
私が閉口する形で店内に沈黙が訪れるが、気まずい空気でしかなかった。弟を捜しているのだと弁明することすらできぬ張り詰めた雰囲気であった。
「葉月殿。この鶴に奇跡をかけていただけますか」
彼がカウンターの上にぼろぼろの鶴を静かに載せる。先刻、新しいものを作ると申し出たのだが、彼はこれが良いのだと。戦場を共にした仲間を手放したくないと断られてしまった。
私は二羽の鶴を受け取り、傍らに立て掛けていた大杖を持ち、今にも千切れてしまいそうな千代紙に奇跡を――仮初めの意思を宿す。戦場に立つことのできぬ私の代わりに彼を護ってくれるように。彼に迫る、ありとあらゆる危殆を撃墜してしまえるように。
その感情は。
どろりと湿っていて。
冷たくて。
質量があって――。
敢えて言葉にするなれば、愛や羨望などと表現されるものだろうが――宗教や信仰によっては禁忌とされる種類の感情だろう――私は構わない。醜い自我が混ざらぬよう細心の注意を払いながら、ふたつの奇跡『惜別の涙』と『神の怒り』を込める。
鶴の夫婦は、黒と白の薄ぼんやりとした光を撒き散らしながら、一生懸命に羽搏いて、彼の前に半ば墜ちるように着地する。その必死な様子は、人間に飼い慣らされた結果、自力で飛ぶことのできなくなった蚕蛾宛らで――或いは行燈に飛び込み、翅を焦がされながら悶え苦しむ夜盗蛾のようにも見えて――私達の行く末を暗示しているようで。私達の未来が、そう明るいものではないように思えてならなかった。
だから、だろうか。
鶴を見詰める彼の顔が、ほんの一瞬、兄の生白い顔と重なって見えた。彼がどこか遠くへ行ってしまいそうで。それきり、二度と帰ってくることができないような気がして。
酷い胸騒ぎを覚えた。
かつて、幼い私が恋情と履き違えた胸の高鳴り――死の予感であった。
――この子達だけで。
折り紙にかけた奇跡だけで。
本当に彼を守ることができるのだろうか。
兄が死んで以来、罪悪感で満ち満ちた自分の裡に問うたが返答はなかった。疑問が空虚で深閑とした私の内部を反響するばかりで、却って不安を煽られる。
「話に聞いておりましたが、実際に目にするとなると違いますね。まさかこれ程までとは思いませんでした。ありがとうございます。これで私は戦うことができます」
折り鶴を腰袋に収めた彼は立ち上がる。
やはりその顔は兄と似ていて。
あまりにも似過ぎているために。
――お待ちください。
私は彼を引き留めることができなかった。
一度その感情を肯定してしまえば、本当に彼が死んでしまうような気がして。カウンターを隔てているだけなのに。その距離は那由他の道程にも感じられて。私は彼を見詰めることしかできなかった。
案山子の如し棒立ちとなった私の代わりに彼を引き留めたのは、玄関の扉を叩く、控え目で規則的な音であった。私が出ようとすれば「ここは私が」 と彼が制止する。
「何者だ、如何なる用件か」
彼が誰何すれば。
「こちらに、第一騎士団長のウィリアム殿がいると聞いて来訪した次第です」
扉越しに返ってきたのは、凜然とした女性の声であった。
「葉月殿。どうやら来客は私の知人のようです。明けても宜しいですか」
私が許可すれば、入ってきたのは白と基調とした戦装束の女性であった。頭部は白絹と銀の冠で飾り、身体は銀と思しき鎧に身を包んでいる。その印象が女性的に見えるのは、きつく巻かれたコルセットのせいか、装飾性に富んだ意匠のせいか。左腰には、真っ直ぐ伸びた長い刺剣が下げられている。
「私は――いえ、明日あるとも分からぬ身。名乗るのは止しておきましょう。私は名も無き月に使える騎士です。店主殿、唐突なる来訪、ご容赦ください」
女性は、私に目礼だけするとウィリアム様に向き直る。
「ウィリアム殿。団長ともあろう御方が戦場に立たずに何をしているのです。迎えに来ましたよ」
「ふむ。しかし、私が此処にいると誰に聞いた。口止めを頼んでおいたのだが」
「あの仮面をつけた――オスカー殿ですよ」
「……そうか。ということは、奴はもう起きて動けるようになったのか」
「ええ。私が奇跡を使って治しました」
「では、カイルの方はどうだ。青い襟巻をした子供だ」
「私が見た時は眠っておりました。特別重症というようには見えませんでしたが、何故彼ばかりを隔離しているのです?」
「知らないなら私から話すことはない。いずれにしても感謝する」
「感謝するではありませんよ。さあ、早く行きますよ。どのような用件があったのかは聞きませんが、もう済んだのでしょう?」
女性はウィリアム様を急かす。
「待て、そこまでは聞いていなかったのだな」
「聞く、何をです?」
「こちらにおられるのは葉月殿だ。この店の主にして、我々を影ながら支援してくれる聖女様だ。騎士団の創設者である慶一郎殿と先代聖女殿の血統である」
そこで女性は私を見遣る。
そして。
「法皇の――」
と何かを呟いた。
その目には確かな敵愾心が宿っていた。




