53.「兄さん。急に何を言っているの?」
※物心ついた時から偏頭痛には悩まされてきたが、閃輝暗点が見えるようになったのはごく最近になってからである。激しい頭痛に襲われながらも、おおこれがかの文豪太宰治も見たというギザギザとした光の歯車かと妙な感動と高揚を覚えて、ゲヘラゲヘラと笑っていたものである。おかげさまで、就寝するときは頭まで布団を被る癖がついてしまった。何せロフトの安物件であり、すぐ天井には明かり取りの窓があるのだから。日光浴をしようものならその晩は頭痛が来るものである。だが悪いことではない。こうして小説のネタにもなるのだから。
「兄さん。急に何を言っているの?」
私は堪らずに本を閉じて尋ねた。おそらく兄が初めて私に示した拒絶の意思表示に驚いてしまった。認めたくなかった。
「前々から思っていたことだ。君も弟も気軽に此処に来てくれるだろう? 僕も、君達が顔を出してくれるのは――兄と呼んでくれるのは嬉しい。だが、それはきっと良くないことなんだ」
兄は、道理を知らぬ子供に言い聞かせるかのように静かに説く。だが、私には兄の言うことがまるで理解できなかった。私達姉弟の来訪を歓迎していながらも、それを良くないと言って否定するのは矛盾しているではないかと。何より、生まれて初めて自覚した恋心を、成長させぬ儘、摘み取ってしまうことに我慢ならなかった。残酷だと思った。いくら賢くて、世の様々なことを知っている兄でも、そればかりは横暴でないかと。
私は初めて、兄へ強い反発を抱いた。
――執拗いようではあるが。
後々になって己を分析すれば、兄へ抱いていたのは、男女間に芽生えるような恋愛感情では決してない。寧ろ、家族や友人に抱く清らかな愛情である。もっと言えば、兄がどこかへ消えてしまうのではないかと察知した私の第六感が鳴らす警鐘を、美の神ヴィーナスあるいはその息子キューピッドが鳴らす祝福の音であると盛大に勘違いした一種の幻影である。だから私は。本当の意味で、誰かを好きになったことは未だかつてない。そうなった自分を想像できないというのもあるが、それ以上に――。
私が好きになった途端、その誰かがどこか遠くへ行ってしまいそうで。
自分から積極的に、誰かと親交を深めるつもりにはなれなかったのである。
「良くないって、何が。どういう意味?」
私は生まれて初めて兄を睨む。だが、兄はそんな私を、愛しい者を見るような優しい眼差しでただただ見詰めながら。
「それはもう色々と」
とだけ答える。
玉虫色の返答に、私はまたも苛立ってしまう。
「色々って何? ちゃんと説明してよ」
「あの人は勿論、お師様も、君達が此処に来ることをよく思っていないようだからね」
あの人というのは私達にとっての実母であり、お師様というのは祖父のことである。
どういうわけか、いつからか兄は祖父のことを師と仰ぐようになった。それは、兄特有の謙遜と遠慮を多分に含んだ処世のひとつだったかもしれない。
兄の弁明は続く。
「何より僕自身が堪えられない。合わせる顔がないんだよ。特に弟に対してはね。彼だって僕のことをもう二度と見たくもないだろう。だから僕はもう、会わぬと決めたのだ。贖罪になるとも思えぬが、僕の単車は彼に譲ると伝えてくれないか。もうナンバーは返上したし、面倒な手続きは全て済ませてしまったから、後は彼が免許を取るだけだ。どうか理解してほしい」
「理解って、そんなの」
できるわけないでしょう――と言おうとして。
兄が噎せた。
肺の深い箇所から込み上げてくる、粘膜と粘膜が擦り切れる――萎れた肺胞が潰えるような――酷く湿った咳であった。
私は立ち上がる。病気がちな兄であり、咳をしている姿など今まで飽きるほど目にしてきたが、今度ばかりは違った。とても苦しそうで、見ていられなかったのもあるが。
口許を抑える手指の隙間から、血のような黒い液体が溢れるのを見てしまったからである。
私は兄側に寄り、背中を撫で付ける。
その内に咳は治まり、兄はぜえぜえと喘ぐだけになるが、その頃には、兄の手は墨汁に浸したかのようにどす黒く染まっていた。欅の一枚板で作られた文机の天板も、兄の白い洋襟も、黒い液体で穢れてしまった。
最初は血だと思った。喀血したのだと。胃潰瘍か肺炎などの疾病なのだと。特に上部消化管からの出血は、黒色嘔吐という症状が出ると医学書か何かで目にしたことがあったのを思い出したのだ。
黒く見えるのは、照柿色に輝く夕陽の影になっているからなのだと。
光が増せば、影の黒も増すのは自明の理であるのだと。
だが、違った。
こんな私でも、女性に生まれついた身である。出血というのは、鉄錆のような臭いを伴うものであると身を以て知っている。
ゆえに分かった。
これは血ではないのだと。
更に言えば、胃酸のような酸っぱい臭いもしない。
消化途中の溶解した食物も混ざっていない。
だが、匂いはする。
この時、私の鼻腔は、兄の匂いを嗅ぎ取った。
私は、香道を深くまで嗜んだわけではないけれど――こと香道においては、嗅ぐという表現は無粋とされ、聞く、と表現されるらしい――白檀と麝香を混ぜたような、とても佳いものだと。
甘くなり過ぎないように、苦と鹹で枠と格をつけた、いかにも兄らしい匂いだと思った。それでいて、この世には存在してはならない無機質じみた鉱物のような固い雰囲気も混ざって――。
――まるで。
月の香りのようだと思った。
場違いな空想に陶酔する私を余所に、兄はウェットティッシュを慣れた手付きで二枚引き抜くと、一枚で自身の手と口周りを、残る一枚で自身の胸元と机を丁寧に拭い、屑籠に投げてしまった。
「葉月。もう良いよ。ありがとう」
兄に声を掛けられたことで、私は飽きもせず背中を撫で付けていたことを自覚する。
「兄さん。大丈夫なの。病院に行った方がいいんじゃない」
「僕なら平気だよ。兎に角、話を戻すが――もう僕のことなど忘れてしまいなさい。君は、君だけの人生を歩むべきだ。この部屋にも来てはいけないよ。気に入った本があるならいまのうちに持って行きなさい」
「待ってよ。急にそんなことを言われても納得できないってば」
「できるできないの話じゃないんだ。君がどう思っていようとも、納得してもらう外ないんだよ」
兄は強い口調で述べた。日頃、温厚な態度な兄にしては珍しい強硬な態度であり、私はわけが分からなくなってしまった。
「弟にも、先程の件と併せて伝えてくれ。あとは合鍵だな。持っているなら返してくれ」
「……今日は、持ってきてないの」
「本当かい?」
「だって兄さん、最近いつも部屋にいるから必要ないと思ったんだもの」
「僕が大学に行っていたらどうするつもりだったんだ」
「どうもしないよ。そのまま帰るだけ。お母さんだって食事を作ってくれるもの」
私は嘘を吐いた。本当は、洋服のポケットに入れてあるし、兄が不在であれば、一時間くらいは部屋で勝手に寛ぐつもりであった。
きっと兄は。
賢くて優しい兄のことだから。
私が嘘を吐いたことさえ見抜いたのだろう。
だが、追求はしなかった。仕方ないとでも言いたげに笑いながら、私の髪を静かに撫でてくれた。子供扱いは止してよ、と私が抗議しても、そう言ううちはまだまだ子供だよ、と全く取り合ってくれなかった。
「兄さんが変なことを言い出したのは、さっき吐いたことと関係があるの?」
「まあ、そうだね。そう受け取ってもらって構わない」
兄は否定しなかった。その表情は掌に遮られて見えなかったが、却って都合が良かった。今の動揺した精神では、一睨みでもされたら泣いてしまいそうだったから。
「病気なの? 治らないの?」
「そればかりは僕にも分からない。でも、治すために努力はしている」
兄の声は微かに震えていた。
私には分かってしまった。兄が嘘を吐いていることを。しかし、どこからどこまでが虚偽で、どこからどこまでが真実であるかの判別まではつかなかったが。
「治す努力って?」
病名は聞かなかった。
聞いても意味の無いことのように思われたので。
「こうして日の光を浴びること」
「頭痛はしないの?」
「するよ。今も酷い頭痛がする。光の歯車がちらついているし、左目の奥が抉られるように痛むんだ。でも、そんなのは些細なことなんだよ。人間でいられる事の方が余程大事だからね。僕は、まだ人間でいたい」
人間でいられる事の方が大事?
まだ人間でいたい?
まるで死を目前にした者の台詞であった。
「もしも、僕が人ならぬものになってしまったら。そんな醜い姿を見られたいとは思わないだろう。その人が愛すべき家族なら尚更そう思うよ」
私は、兄に掛ける言葉が見付からなかった。
日光浴が対症療法になる疾病など心当たりもなかったし、想像も付かなかった。だが、自身の頭痛よりも優先させるとなると――当時はまだ群発頭痛という言葉も、閃輝暗点という症状も一般的なものではなかった――きっとこの日光浴は、兄にとって重要な意味を持つのだろうと信じるしかなかった。
「何か、私にできることはないの?」
頑張って絞り出した言葉は、機転の利かない献身であった。
だが、兄は何も言わなかった。
撫でる手を止め、僅かばかり黙った後、唇を真一文字に引き結んだまま静かに首を横に振った。もう喋るのも辛いらしい。
この時、私を包んだのは。
――拒絶された。あの兄が私を拒絶したのだ!
という身勝手な驚愕と自己嫌悪であった。
私は半ば無意識に立ち上がる、此処に私の居場所はないのだと。私がいるだけで、兄に苦痛を与えるのだと思ってしまったから。
「今日は、帰ります。また、明日も様子を見に来るから。合鍵は、その時に返します」
「それは駄目だ。それだけは、いけない」
「またね、兄さん」
私は何とかそれだけを言うと、兄の部屋を後にした。背後から呼び止めるような声がしたような気がしたが――それが、呼び止めて欲しいという私の浅ましい願望が作りだした幻聴だったのかは分からない。もう、確かめようがなくなってしまったため。
翌日、同じ時間。
私が兄の部屋を訪えば。
ロフトの手摺りから垂れる、輪を作る太い麻縄と。
蹴り飛ばされて倒れた文机が。
床一面に拡げられたブルーシートには、あの時兄が吐いたものと同じ液体が広がっていた。ちょうど、人間ひとりを溶かしたくらいの量であった。日光の熱で乾燥したせいか、淵は黒水晶のように結晶化している。
私は、その場に跪き、六角柱の欠片をひとつ拾いあげる。
そして、悟ってしまった。
兄は遠いところに逝ってしまったことを。
もう二度と、兄に出逢うことはないのだろう――と。




