52.懐かしい夢を見ていた。
※自分のくだらぬ文章を鼻をほじりながら推敲していれば(喩えでもなく実際に。深追いし過ぎて鼻血が出てしまった超いてえ)ひとつ気付いたことがる。どうにも主人公と青年が、ヒーローとヒロインという役柄を割り振られているにも関わらず、どうにも動きが足りない。綺麗過ぎるのだ。他人の顔色を窺ってばかりだというのは。立場を弁えているのは現実らしいとも言えなくはないが、これは娯楽小説のハズ。どうせなら勢いに任せてベッドインしてくれても構わないのだ。それを制御するだけの詭弁と筆力はあるつもりなのだが――ともすれば、これまた作者の思想が影響しているのかもしれない。私は優生学な遺伝的な意味で子供を作るべきではない人間なのだ(あくまで消極的な意味で。断じて積極的ではない)。一体どこに重い頭痛と脆い精神を、子供に託したいと思う馬鹿がいるのか。それが愛しい女との子供なら尚更であろう。
※エ ル デ ン リ ン グ の ア プ デ が 来 て て 草 。そ れ は そ う と D L C は ま だ で す か ?
懐かしい夢を見ていた。
私と兄は、七年ばかり年が離れた血の繋がらない兄妹であった。
物心ついた時から、仕事で国内外を問わず忙しなく飛び回る父母に代わって私達姉弟の面倒を嫌な顔ひとつせず見てくれたのだが、私はそれをずっと不思議に思っていた。どうして、この人はこんなにも私達によくしてくれるのだろうかと。どうして、この人はいつも寂しそうにしているのだろうか。どうして、母と祖父は、兄に対して余所余所しい態度なのだろうかと。どうして、家族なのに私や弟、母や祖父と似ていないのだろうかと。
それらが長年に渡る大きな疑問であった。
直接口に出して問い糾したことは一度もなかったけれど。
面と向かって尋ねなかったことには当然理由がある。
兄は、都合が悪いことを訊かれると――兄本人にとって、ではない。私や弟にとって、というところが重要である――口許にそっと微笑を忍ばせ、私の髪を撫でるように梳るのだ。
兄の膚は雪のように白くて、とても冷たそうだったけれど。その掌ばかりは何とも温かくて、幼い私は蕩けるように眠くなってしまうのだ。何も言えなくなってしまうのだ。私が睡魔に負けて船を漕ぎ出すと、兄は私を寝室まで運んで毛布をかけてくれた。
そんなことが繰り返され、私は兄に訊くべきではないことがあるのだと学習した。余計な手間をかけさせたくなかったのもあるが、何より、あの悲しそうな顔を見たくなかったのだ。
私と弟は、それぞれ己の部屋を持っていたけれど、兄の自室がなかったことに当時の私には気付くことはできなかった。
母が、私達姉弟と兄に、血の繋りがないこと――父の連れ子であったことを告げたのは、兄が大学へ進学を決めて、実家を出て行くと決まった時だった。その時、私は小学六年生だったが特別驚きはしなかった。自分でも意想外なくらいに。寧ろ、嗚呼なるほど――という、今に至るまで積み重ねてきた諸々の疑問が氷解していく納得の方が強かったのかもしれない。
兄が、私を含めた家族の全員から距離を保っていたことも。東京の大学という、実家からも通学できる距離にも関わらず独り暮らしという選択をしたことも。仕送りも不要だと断ったことも。母も祖父も、反対はおろか心配すらしていないことも(何なら、寧ろ歓迎すらしていたのかもしれない)。私と弟にだけは、いつだって優しかったことも。
その優しさが、兄妹愛というよりも、まるで赤の他人に向けるような――血縁や家族という薄っぺらい言葉では決して埋めることのできない――平等的で、半ば自己犠牲を伴った博愛的なものであることに。
私や弟に、顔の造形が似ていないことも。
精神的、性格的な部分ですらもそうだった。
臆病で内向的な私と、活発で自由奔放な弟と、足して二で割ればちょうど良い案配になるであろう私達姉弟に反して、兄は雲のように掴み所がない人であった。
正直、私は今でも、兄がどんな人であったかを言い表すことができない。どんな難関大学の入試問題よりも、深く込み入った謎であると思う。
優しいようで。近くにいてくれるようで。その実遠いところにいて。誰にも気を許さず、寡黙ではあった。明朗ではない。なのに大切な道理を説く時は、真剣かつ丁寧に、噛んで含めるように教えてくれる。
私と似て孤独と読書を好む性質でありながら、弟と同じく同性からも異性からも人気があり、社交的で活動的な一面も持ち合わせて――万事を器用に熟せるだけの知恵と技術を持ち合わせていた。
因果が逆なのだ。
兄が私達に似ているのではなくて。
きっと私達が兄の影響を大いに受けてしまったのだ。
兄は私にとっての憧れであった。
そこに血の繋がりの有無などは最初から関係なかった。
そんな兄がいることを、私は心の底から誇らしかった。
尤も、それを知人友人に自慢したことはない。連絡先を教えてくれと執拗くせがまれることが目に見えているからだ。兄も、私の面目を慮って、ぞんざいに扱うことこそしないが、内心迷惑に思うだろうことが分かっているから。
だが、そんな兄でも完璧超人という訳ではない。生来体が弱いらしく、季節を問わず風邪を引いていることが多かったように思う。そんな兄を看病するのが。お見舞いに何を持って行こうかなどと相談するのが私達姉弟の密かな愉しみですらあった。兄にはとても悪いが。
兄の良いところばかり見ていたからなのか。
私は、兄の苦悩を見抜くことができなかった。
何をどれだけ深く悩み、そしてこの世を去ることしたのか、今でも分からぬ儘である。
明瞭に覚えているのは。
最後の一日――兄の縊死体を発見する前日。
ごく短い遣り取りであった。
忘れもしない中学三年生、春のこと。
週末の黄昏、その日は夕陽が綺麗であった。
台所で夕飯の仕度をしている母に、兄の住むアパートに行くため、先に弟と食べるように伝えれば――母はあまり良い顔をしなかった。それは既に調理を済ませたばかりなのか、それとも私と兄の距離が近いことを不審に思ったからなのかは分からない(後者であれば、私は母を侮蔑する)。当然ながら、いくら兄が私の憧れとは雖も、流石にそういう対象にはなり得ない。幼い時分から一緒にいるのだから。
私はただ、兄の部屋に行って、兄が行きつけの古書肆から買い漁ったどこか黴臭い本を読み耽るのが好きだった。三日もあげずに行くものだから、とうとう見かねた兄から合鍵まで渡される始末であった。下手をすれば、互いに一言も交わさず儘、勝手に入室して、勝手に戸棚を漁り、勝手に帰る日すらあったように思う。
兄も、私を気にする素振りも見せず、それでいて私好みの詩集や随筆をしっかり揃えてくれるものだから憎いものである。
けれど。
その日は違った。夕陽がいつもより綺麗に見えたのもそうだが――何かが、おかしかった。具体的に、何がどう妙だったのかは分からない。だが些細な点を挙げればきりがない。
本棚を始めとする部屋が整理されていた。いつもは灰皿には吸い殻が転がっているのに一本の煙草もない。清掃が行き届いていたどころの話ではなく冷蔵庫や洗濯機、桐箪笥や長持といった家具や家電が無くなっていた。
兄自身も妙に落ち着き払っていた。物腰はいつも以上に穏やかであったし、何より私を見詰める視線が水晶のように透明で。瞳孔は私の心の奥底までを見透かすような真っ黒で。今にも消えてしまいそうなほどに儚く見えて――。
そんな兄が、広くも狭くも無い和室の奥、窓を背景に文机に向かい、愛用の万年筆をさらさらと走らせているものだから――その姿は、仏法を修めんがために写経に努める修行僧宛らで。或いは己が死期を悟り、遺書を認める末期医療施設のいち患者のようでもあり――私は部屋に足を踏み入れた途端、立ち竦んでしまった。
兄に視線を奪われ、何も言うことができなかった。私が無遠慮に何かを言った途端、兄が霞のように消えてしまうような気がしたのだ。声を掛けることすら躊躇されるほどの、ある種の神々しさを目の当たりにして――。
私の胸に底知れぬ不安が襲い掛かってきた。唐突な眩暈と動悸に、私は柱に寄りかかり、立っているのが精一杯になってしまった。
尤も、私は兄の異変の理由と、私自身の異常の原因を正しく理解するだけの経験がなくて。ともすれば、この落ち着かぬ心が、恋に落ちるという感情なのだろうか――というひとり幸福な勘違いに翻弄されていた。
(私の人生において。この時点においては、まだ己にも失望していなかったし、男性全般に対する恐怖も嫌悪も然程抱いていなかった。恋愛というものに憧れを抱く恋に恋する乙女であった)
「いらっしゃい。そろそろ来る頃だと思っていたよ」
兄の表情は窓から差し込む西日のせいで明瞭としない。同じく、ノートに何を書き込んでいるのかすらも。だが、声と雰囲気から察するに、いつもと変わらぬ笑みを浮かべていたのだと信じたい。
私は、この時なんと返事をしたのか。まともな返事をできたのかすらも覚えていない。ただ、偏頭痛持ちの兄が眩い日光を浴びることが珍しいと疑問に思ったことだけは、なぜだか覚えている。
「そんなところに突っ立ってどうしたんだい。いつもの席に座るといい。今、お茶を淹れてくるから。それとも珈琲の方が良いだろうか」
兄はそう言うと、ノートをぱたりと閉じて立ち上がる。万年筆の軸先をキャップに収め、ノートを抽斗にしまう。ごく自然な動作であった。
私は促されるままに、和室に調和する近代的な意匠の座椅子に背を預け、前日から読みかけてであった本を開く。普段であれば、ものの数秒で没頭してしまえるのだが、今日ばかりはそれができなかった。
私が、己の体と精神の据わりの悪さを感じていれば、湯気の立つカップを持ってきた兄がやって来る。カップの中身は紅茶であった。目の前の座卓に置かれ、陶器が木製の天板を叩く音が静かな部屋に響いた。
「悪いね。珈琲はもう処分してしまったから紅茶しか出せない」
捨ててしまった?
兄の些細な言動ひとつひとつに違和を抱きながらも、私は礼を述べる。そして。
「ねえ、兄さん。何か、あったの?」
ようやく、訊きたかったことを言うが。
「何もないよ。どうしてそんなことを訊くんだい?」
文机の前に座った兄は、にこやかに空惚ける。
「だって――」
「だって、なんだい?」
兄は、私を見遣る。
その眼は鉱物のような光を帯びていた。
「だって、兄さんがどこかに行ってしまいそうだったから」
急に寂しくなったの。なんだろうね――と私が勇気を出して、今一歩踏み込めば。
「葉月。君は、君達は。そろそろ兄離れをした方がいいだろう。迚も言いにくいことだが、僕のことなど忘れた方が良いだろう」
そして君は、君だけの人生を歩むべきだ――と兄は言った。




