44.「しかし、どうしてこのスクロールが先代聖女様のものだと分かったんです?」
※私はもう酒も煙草もできなくなりました。一滴でも飲めば頭痛の発作で夜に飛び起きてしまうので。しかしながら酒精が齎す酩酊の心地よさと、煙草の芳香が己の意思と輪郭をより確かなものにしてくれることを未だ忘れられずにおります(それは錯覚でしょうが)。好きなお酒は『グレンリベット』『シーバスリーガル』『ズブロッカ』『ターキー』などといった初心者向けの安くて癖がないもの。愛飲していた煙草は、フィルター無しの『ピース』、バニラ味の『アークロイヤル』など。作者の趣味趣向は作品に、どうしても滲み出てしまいますね。それはそうと、お酒の入ったチョコレート『バッカス』が減量したことに驚きを禁じ得ません。高校時代は12個だったのに、今食べてみたら10個だった。これも世の流れでしょうか。そして今夜は頭痛がするのか怖くなりますね。
「しかし、どうしてこのスクロールが先代聖女様のものだと分かったんです? 誰が書いたかなんて、どこにも載っておりませんよ」
そう言いながら、カイル君は羊皮紙を持ち上げて裏側を覗き込む。
最初はごまかそうと思った。
筆跡が似ているだとか、生前に遺していたことを思い出したとか、それらしい理由で取り繕ってしまおうと。祖父が、どのような形であれ件の法王と繋がる事実を認めたくはなかったのだ。
けれども。
「お爺ちゃんの手紙が挟まれていて、そこに書いてあったんだ。その巻物はお婆ちゃんが書いたものだから大事にするんだよって。あとは戦争の援軍として近衛隊を派遣させるということも。この件、ウィリアム様にも伝えてくれる?」
私は正直に述べることにした。
援軍云々については元より伝えるべき重要な内容である。しかしそれ以上に、私は嘘を吐き続けることに罪悪感を覚えたのだ。良心の呵責に耐えられなかったと言うべきか。
私は既に、この素直で純朴な少年に多くを偽っている。裏庭で、本来秘すべきであることと知りながらも己がこの世界の人間ではないと漏らしてしまったのは、忌避感の発露であったのかもしれない。
具体的に言えば。
私が聖女などと呼ばれるのが最たるものであろう。
少なくとも私は自身が聖女と呼ばれるに値しない人間であると知っている。そうと知りながらも敢えて聖女らしく振る舞おうとしている。裡に眠る信仰を掘り起こそうと、今更躍起になって聖典を読み始めたのだ。皆の期待に応えたいと思い始めたことであるが――浅ましいことには変わらない。
聖女という称号は、本来神聖なる事績を成し遂げた女性を形容する宗教的な言葉である。そうでなくてはならない。旧教等においては、聖アグネスや聖フィディスなどといった殉教者が有名だろう。前者は純潔、少女、性暴力被害者、庭師の守護聖人であり、後者は巡礼者、囚人、兵士の守護聖人である。
強い信仰心ゆえに死んでいった彼女達と比べれば、私など、ただ奇跡が使えるだけの小娘でしかない。何なら人間である必要すらもない。道具であっても、きっと誰も構いやしないのだ。しかも、存在意義であるその力すらも祖父と祖母から譲られたものでしかない。いつかの悪夢では力に溺れ、弁えずに増長した結果、本物の聖女然とした女性に窘められたのだから救いようがない話である。俗物もいいところである。
――俗物といえば。
カイル君がよく口にする、大聖堂にいるお酒好きな大主教さまとなら、色々と拗らせた私でも仲良くなれるだろう。奇跡を使えるという理由だけで周囲から担ぎ上げられるのは負担にしかならぬだろうから。当人にしか理解できぬ苦悩というものが確かにあるのだ。
お酒はあまり得意ではないけれど。雰囲気のいいお店で、互いに静かに、それでいて湿っぽくならないように。一方的にもならないように。互いに同じ分だけ悩みを分かち合いたいものである。
――この店を、夜は酒場として営業するのも悪くない。
毎日は無理だから、実行する場合は事前に日取りを決めないといけないが。私はちらりと、壁際高い位置に取り付けられた戸棚を見遣る。
誰が置いたものかは分からないし、南京錠で施錠されているため開けたことは一度もない。
窓越しには、琥珀色の液体が詰められた瓶がずらりと肩を並べている。どれも豪華な商標が貼られ、一目でそれなりの価値があることだけは分かるのだが――所詮それなりでしかない。
電燈や蛍光灯といった無粋な灯具もないため、店内は昼夜を問わず薄暗い。また私自身お酒には然程興味がないため、初めて見るものばかり。ゆえに正確な価値は全く以て不明。錠前を毀すわけにもいかず、また勝手に手を付けるわけにもいかず、持て余していたのだ。
――高貴な方をもてなすためならば、きっと赦してくれるだろう。
酒というのは飲んで酔うためにあるのだから。自嘲の笑みを浮かべる私に抗議するかのように、角瓶に貼られた濃紺の紙片がきらりと光った――ような気がした。
「近衛隊の派兵ですか。確かに団長が随分と前から要請しておりましたが、ようやくですか。腰が重いにもほどがある。その前に僕らが潰走しないとも限らないのに」
愚痴を零しながらも、カイル君は巻子本を収めてカウンターに戻す。話半分で聞ける内容ではないと察したのだろう。
「知っていたんだね」
「これでも副官殿の許について話ばかりは聞いておりますから」
「それなら、金髪の英雄って人は知ってる?」
私が訊けば、カイル君は意外そうに頷いた。
「ええ、もちろんです。近衛隊の指揮官にして、剣技と奇跡の扱いに長けた――おそらく誰に問うても国一番の騎士であると答えるでしょう。そちらも援軍に?」
「うん。いつ来るかという正確な時期までは書いてなかったけど」
「そうですか――」
カイル君は静かにカップを傾ける。
珈琲は適温になったらしく、もう熱がりはしなかった。
「ねえ。金髪の英雄って、どんな人なの」
「どんな人、と言いますと」
「見た目とか性格とか。英雄なんて呼ばれ方をするくらいだから、何か凄いことを為した人なんでしょう」
金髪の英雄その人が弟であるかもしれない、とは訊けなかった。
いくらこの世に疎い私でも、剣術に秀でて、その上奇跡まで行使できるなど、中々いない逸材であることは流石に分かる。況して近衛隊の筆頭になるなど、本人の素質も然ることながら、容姿や家柄まで問われてしまうだろう。
日本で喩えれば、戦前なら近衛師団、現代であれば皇宮護衛官がそれに該当するだろう。後者は国家が直営する唯一の警察組織であり、生え抜きもいいところである。戦前まで遡るなら、鳳輦供奉と禁闕守護の任を果たす最精鋭にして最古参の軍隊と尚更である。
悲しい哉、この世界の基準では。
あの愚弟はどちらも満たしている。
しかしながらウィリアム様だって魔術と奇跡の違いこそあれど似たようなものだろう。侍女の間では、彼を目にする度に黄色い悲鳴か憂いを帯びた溜息が聞こえるなど、およそ偶像崇拝の域に達しているが――しかし彼は英雄などと呼ばれてはいない。仮に呼ばれたところで、あの穏やかな青年は困ったように目を伏せてから、自分はそのような柄ではないため以後呼ばないように――などと説き伏せてしまうのだろうが。
「そうですねえ」
私の思考を余所に、カイル君は何とも言いにくそうに口篭もってしまう。
「もしかして軍事機密だから言えないのかな」
「いえ、そういうわけではありません。葉月さんを不快にさせずに、それでいて、あの野郎のことを正確に伝えるには、果たしてどんな表現が相応しいか――そもそもそんな言葉が果たして存在するのかと――そんなことを考えておりました。なにぶん僕自身があいつのことを大いに嫌っているので」
「え、そうなの?」
「聞き苦しくなって申し訳ありませんが、あの野郎のことを考えただけで反吐が出ます」
カイル君は断じてみせる。彼がこうして自らの感情を表に出すなど珍しいことである。私の知る彼ならば、仮令良く思っていないにしても、もっと婉曲的に表現するか、玉虫色の言い方をして煙に巻いてしまうかのどちらかだと思っていた。
「きみがそう思うのは、どうして?」
「やっかみがないとは言いませんが。一言で言えば、あの野郎が僕と同じ王都の出身であるくせに、あいつだけには人形が下賜されたんです」
人形というのは、法王が惜しむ者だけに与えるという結界を超える鍵のことであろう。
「あとは人間性も最悪ですよ。剣技と奇跡に関しては――それはいいでしょう。奴なりに努力しているらしいので。ですがそれを帳消しにして余りあるほどに――嫌味で、低俗で、未熟で、愚昧で――ありとあらゆるすべてが指揮官には向いておりません。立派なのは外側だけです。内面は悲しいくらいに絶望的です。僕が近衛隊の一員だとしたら、あんな奴に従うなんてまっぴらごめんですね。ああ、そうです。奴が来るなら葉月さんも気を付けた方がいいでしょう」
「気を付けるって、何を?」
「奴は大変な女好きでして。見境がないとのもっぱらの噂なんです。これは義賊気取りの盗人から聞いた話なんですが――奴は良いところのご令嬢に手を出しただけではなく、二叉三股は当たり前という倫理に欠如した生活を送っているそうで――醜聞を吹聴して回るのが仕事の印刷屋ですら、奴の話は聞き飽きたと断るそうで。まあ安心してください。葉月さんに手を出そうものなら叩き潰してやりますよ。きっと団長も目を光らすことでしょう」
「心配してくれてありがとう。でも私なら大丈夫だよ。女性慣れしている人が、わざわざ私に構うとは思えないもの」
今の話だけでは判断材料に欠けてしまう。
金髪の英雄と弟が、どうにも結びつかない。
だが明確に否定することもできない。
武芸に優れること、奇跡を扱うことについては、あの何事も卒なくこなす弟なら、できてしまえるだろう。祖父が送った最初の手紙に、弟を頼れ、様々なことを仕込んだ――という内容とも矛盾しない。王都が出自であることは、戸籍という概念が爵位ある上流階級にしか浸透していないこの世界ならば、いくらでも偽造が可能である。女性との交遊が軟派に過ぎるところは、異世界に飛び込み、ついつい調子に乗ってしまった子供らしい結果と思えば納得できないこともない――だろうか。
――俺にはもう好きな人がいて、いや、いたのよ――。
ついこの間、喋ったばかりの弟が過る。
あの時、寂しそうに零した独白は真実であろう。
弟は、凡愚で鈍感な私とは違って繊細なのだ。何より弁えているのだ。拗れれば面倒だと私でも分かる男女関係において失態を犯したりはしないだろう。それでも自棄になっていなければ、という前提がついてしまうが。
――へへ、そうだよそうだよ。姉貴よく分かってんじゃん――。
――この俺様が、二又なんてダサい真似なんかするかよ。もしもするなら、バレるようなヘマなんてするワケがないんだよな。なぁミケ。お前もそう思うだろう――。
――みゃおん――。
ああ、もう。うるさいなあ。
変な電波を受信してしまった。
姉としては、弟はそんな不埒な人間ではないと主張してやりたいが――いかんせん普段の行いと容貌が良くないため断言できないのが辛いところである。結局この問題については、どれだけ考え込んだところで想像の域を出ない。実際に面会しなければ分からないだろう。
「ところで、どうして祖父君の手紙が法王様のスクロールに入っているんです? まさかとは思いますが――」
そこで、何かに気付いたかのようにカイル君は口を噤んでしまう。
そのまさかを悟った瞬間、表情は一瞬にして真青になってしまった。
それも当然であろう。いくら伝聞の体をとっていたとしても法王の批判を口にしてしまったのだから。しかもこの場合、祖父が騎士団の創設に携わっていたというのも彼にとっては非常に具合が悪いだろう。
だが、祖父即ち法王であるというのも、また憶測でしかないのだ。法王の知己であるか、臣下か相談役などといった可能性だって十分あるだろう。それでも法王と近しい関係であることは否定できないし、近衛隊を一部とは雖も動かせるだけの権勢があることは最早疑いようもないのだが――。
「カイル君。落ち着いて。大丈夫だよ、大丈夫だから」
「僕は、何と言うことを」
「だから大丈夫だってば。きみが想像していることは書かれていなかったから。もし、それが本当だったとしても、私は何も気にしないしお爺ちゃんだって同じだと思うよ。きみが不利になるようなことは絶対にしないし、させないから。安心して。ね?」
「……はい。いざというときは、お願いします」
青い唇でカイル君は頷いた。
今まで、あまり意識したことはなかったけれど。この世界における身分や階級の格差は、私が思う以上のものらしい。こと宗教が関われば余計に。労働だけを切り取って見れば、侍女や奉公人への扱いはそう悪いものでもないのだが。
事実、隣に建つパン屋の女将さんは祖父を街の守護者と呼んでいたし、私が祖父のことを知らないと正直に言えば、周囲の反感を買ってしまうからと公言するべきではないと教えてくれた。ウィリアム様だって、騎士という爵位がある筈なのに祖父をいたく敬っていた。カイル君の反応は言わずもがなである。
私も、今一度、己の振る舞いには気を遣った方がいいだろう。偉大なる祖父と祖母がいるお蔭で赦されていることだってきっとあるだろう。やはり、私はまだまだこの世界を知らないのだ。
「カイル君。私のお婆ちゃんのことなんだけど」
「はい。どうぞ、なんなりとお聞きください」
「とても言いにくいことなんだけど。私は、お婆ちゃんのことを全くと言っていいほど知らないの。顔も、名前も、何をした人なのかも。私が生まれたときには亡くなっていたからね。お爺ちゃんも、寂しそうな顔をするものだから聞くこともできなかったの。どんな人だったのかな」
一体、何をすれば聖女だなんて大仰に呼ばれてしまうのだろうか。そして何の権利があって、死して尚、祖父を縛り付けているのだろうか。胸に宿った小さな燻りを無視して尋ねれば。
「それは無理もないことかと思います。葉月さんが尋ねていたとしても、祖父君はお答えにならなかったでしょう」
カイル君は遠慮がちに言った。
「それは――どういう意味かな」
何らかの事情があって箝口令が敷かれているのかと思い、再び尋ねれば。
「死者は――月に昇っていった者達は名前と事績を喪失してしまうんです。つまり祖父君は、葉月さんに言わなかったのではなく。伝えられなかったのではないでしょうか」
「え?」
名前と事績を喪失する?
「えっと、ごめん。ちょっと待って。理解が追いつかない」
私の背筋から脳幹にかけて――中枢神経を、悍ましい閃きが駆け抜ける。今から、何かとても怖ろしいことが告げられるのではないかと思い、カイル君を見詰めれば。
「本当に分からないのですか?」
カイル君は、困惑する私に困惑するかのような態度をみせる。私は沈黙を以て肯定する。
「つまり――誰も死者を覚えていることなんてできないんです。生者から死者になった瞬間、その人物の名前も、功績も、抱いていた感情すらも――全て綺麗さっぱり忘れてしまうんです。まあ続柄くらいの最低限必要な関係程度は覚えているようですがね」
カイル君は、とんでもないことを、さも当然であるかのように言ってのけた。とても嘘を吐いているように見えなかった。
「だからこそ僕らは、事前に自分の墓標を用意して、自分がどんな名前で、どこで生まれて、いつから騎士団にいて、何を為して、何を為せなかったか――などといった諸々の情報を、生前のうちに、これでもかというほどに彫り込むのです。武器を突き立て、兜や甲冑を置くのです。それが僕達における弔いの作法なんです。それが聖職者であるならば――墓標が立てられるのもそうですが、きっと聖書の一端に伝記として書き込まれでもするのでしょう。そういうわけですから、僕は先代聖女様のことをお伝えすることができません。無論、知識としてはありますが、お隠れになったのは僕が生まれる前ですし、ごく浅いものでしかありません。ですので、官舎近くの教会に行くことをお勧めします」
「……教会?」
「はい、あそこは先代聖女様ゆかりの場所ですから記録もきっと残っていることでしょう。司祭も修道女も、面倒を見ている餓鬼達も、葉月さんが来たら喜ぶでしょう。まあ、星々が墜落してきた事件の爆心地ですから、今も崩れそうなくらいぼろぼろなのが玉に瑕ですがね」
カイル君は笑った。
私は、もう、何がなんだか分からなくなりそうだった。
やっべ頭いてえ(自業自得)。この世から頭痛消えてくれねえかなあ。この苦しみも遺伝かと思えば(死んだ母も酷い頭痛もちであった)やはり私は子孫を残すべき人間ではないのだろう。別に私は反出生主義というワケでもないけれど。どこから人生間違えたのかねえ。




