40.「カイル君。あなたの言うことは確かに正しい」
「カイル君。あなたの言うことは確かに正しい。人の心は決して綺麗なものではないのでしょう。皮を一枚剥いでしまえば、きっと獣とそう変わらない。道理を知らない無垢な子供でさえ、ただの戯れに幾匹もの蟻を踏み潰したり、捕らえた蝶の翅を毟ったりと、とても惨いことをいとも簡単にやってのけてしまう。成長して悪賢くなれば尚更のこと。平気な顔で讒言を吐くことができる。憎い誰かを殺めてしまう人だっている。欲しいものを盗んだり、弱い者を力尽くで犯そうとしたり――悪行を挙げればきりがない。その根本となるものが、醜い人間の自我、後ろ暗い欲求だということも。君達がそれを律したいと思う気持ちもよく分かる。けれど、私は違うと思う」
断言した私を意外に思ったのだろう。
カイル君は僅かに目を見開いた。
「どう、違うというのですか」
「人間は、欲求によって生かされている部分も間違いなくあると思うの。考えてみて。どんな高潔な人物であったとしても、食べること、眠ること、殖えることは避けられない。食欲、睡眠欲、性欲は人が持ちうる三大欲求だからね。それら三つが満たされてから、今度は保障された揺るぎない安全が欲しくなる。分かり易く言えば――良い暮らしをしたいと思うことかな。経済的な安定であったり、健康を維持することであったりすること。そして安全を得た人間は、今度は社会的欲求――愛を求め出すでしょう」
「愛、ですか」
カイル君は妙な顔をする。ここに来て、話が動物的な次元から急に人間らしくなったと思ったのかもしれない。
「うん。自分が社会に必要されている感覚かな。果たすべき社会的役割を持つことだったり、何かの組織に所属することだったり。一度でも人間社会の温もりに触れたら、孤独や追放が怖くなってしまうの。何となく分かるでしょう。私も、騎士団に入れてもらえなかったとしたら。奇跡を使えなかったとしたら。とても寂しかったと思う。もしかしたら喫茶店を開くことすら諦めていたのかもしれない」
「……その次は、人は何を求めるのでしょうか」
「社会的な欲求が満たされたら、次は承認が欲しくなる。自分が共同体から価値ある存在と認められ、尊重されたいと思うことだね。低い次元の話だと、地位や名声、注目や利権に固執するような――どうしても他人軸の感情になってしまうね。でも、これが高い次元になると、自分が主体になって、自分が自分を信頼できるかどうか、その判断材料となる技術や職能の習熟が問題になるの。そしてその次は――」
「お待ちください。次が――次も、あるのですか」
だとしたら人間はやはり欲深い生き物であると思うのですが、とカイル君は苦言を呈する。
「うん。人間というのは絶対に欲求を捨てられないの。自分に適したことをしていない限り、少なからず不満を抱いてしまう。自分の能力や可能性を最大限に発揮して、自分がなりたいと願う、斯くあるべき姿を目指そうとする――してしまうの。これは自己実現の欲求と呼ばれるもの。これを満たすことで初めて、人間は理想的で模範的な姿――自分や他者に対して寛容になることができて、善悪の区別を持ことができて、創造的かつ協働的でいられるの。まあ、私の故郷には、衣食足りて礼節を知る、なんて諺もあるし。長くなってしまったから纏めると――人間の欲求は階層ごとに整理できるんだよっていうただそれだけの話なんだよね。でも、所詮は机上の空論でしかなくて。どんな理屈を並べ立てたところで、人間の欲望は醜くて、穢れていて、どうしようもないものであることは、本当は知っているの。それでも私は人間を信じていたいかな。だから、神様に枷を嵌められるようなものではなくて。人間が越えるべき課題であってほしいと考えているの。より強く、清く、正しく在るために」
「それはつまり――理想による克服ということでしょうか」
カイル君は慎重に言った。頭の回転が速い彼のことである。私の言いたいことを咀嚼して、簡単に嚥下してしまったのだろうが。
私は、理想という言葉があまり好きではない。
寧ろ最も嫌いな単語である。
だから姑息な私は。
「……そうだね。そうかもしれない」
曖昧に濁すことで逃げてしまう。
「でも、ね。今の話は私の実体験からくるものじゃなくて、外国の学者様が言った、ただの受け売りだから、本気にする必要なんてないよ」
言わずもがな、米国の心理学者であり人間性心理学の生みの親アブラハム・マズローの欲求段階説である。精神分析にも行動主義心理学にも属しない第三の勢力として、人間心理を研究した偉大なる人物である。教育理論や経営学などといった近接領域にも彼の名が散見されることからも、彼の広く深い思索は窺い知ることができるだろう。中学や高校の教科書にも載るくらいの超有名人である。
しかしながら、彼の書いた論文の多くは抽象的であり、厳密性に欠け、科学的でもなければ実証的でもない――時代遅れである。西洋的価値観に偏重して、他の文化社会と照らし合わせた場合、一般原理としては通用しない――などといった批判があるのもまた事実である。
だが、それ以上に。
「それに理想にはどうしたって届かないでしょう? 人間に、理想なんて要らないんだよ」
苛立った私は、余計なことまで呟いてしまう。
それを聞き逃さなかったカイル君は。
「そうなんですか?」
と不思議そうに首を傾げる。こういうときだけは素直な少年らしく振る舞うのだから、狡いなあ、と思ってしまう。
「そうだよ。それなら訊かせて頂戴。きみには理想ってある? 私にはあるよ。このお店を開きたい。少なくてもいいから、このお店と、お茶と食事と、雰囲気を大切にしてくれる人に来てもらいたい。ううん、そんなことよりも――早く戦争が終わって、騎士団の皆が無事に帰ってきてくれることが一番だね。もちろん、きみも含めてね」
私が接客用の不自然な笑みを浮かべれば。
「僕は――いえ、私は。団長のように、皆から尊敬される立派な騎士になりたいと思っております。また、副団長のような思慮深い魔術師にもなりたいです」
カイル君は明言する。焦茶色の虹彩は真直ぐな光を湛えて――未だ挫折を知らぬ、どこか危うさを感じさせる少年の眼差しそのものであった。
だからだろうか。
余計なお世話であることを知りながらも、彼を揺さぶることにした。その考え方には瑕疵があると気付いてほしかったから。
「それじゃあ、その次は?」
「え? 次ですか」
「きみが頑張って、ウィリアム様やアルフィー様のようになれたとして。その次はどうなりたいと思う? それとも、現状に満足して変わらないことを選んでしまうのかな」
「いいえ。それは、それだけは決してありません。私はもっと強くなります。聖女様の護衛に相応しい、この国で一番の騎士になってみせます」
「そう。志が高いのは良いことだね。その次は?」
「……次、ですか?」
怪訝そうにカイル君は眉を顰める。まさか尋ねられるとは思っていなかったのだろう。俯いて考え込んでしまう。何かを言わなければならないが、言葉が出ない――そんな表情であった。
「いいよ。無理に答えようとしなくても」
「しかし、僕は――」
「ごめんね、試すようなことを言って。でも、何となく分かったでしょう。人は、理想には追いつけないようにできているの。だって理想なんだもの。なんとか努力して、頑張って頑張って理想に近付いたとしても――その瞬間には。向上心がある限り次の理想が生まれてしまう。それでも努力を重ねて理想に追いつこうとすはるけれど――その人は、一体いつまで頑張ればいいのかな。人間はね。皆が思うよりもずっと弱くて脆いんだよ。いつかは限界が来てしまう。人によって限界の位置は違うけど、挫折に心が折れてしまう。弱い己を認められずに鬱になってしまう。無理に無理を重ねたせいで精神や身体を毀してしまう人だっている。たゆまぬ努力の結晶なんて言えば綺麗に聞こえるけれど――理想は今の自分を否定するだけのものでしかないの。いつか自分の弱さに堪えられなくなる日がきっと来る。自分を追い立て、いつしか命までも奪ってしまう鞭でしかないんだよ」
一瞬、私の脳裏に。
どこか遠い処に旅立ってしまった誰かの顔が浮かび上がるが――首を横に振って、その妄執を振り払う。
「だから、ね。人の生き方に、こうあるべきなんて考えは必要ないと思うの。草原に根を張った樹のように、伸びたいように伸びればいい。"あるべき樹〟を目指して剪定を繰り返すのは、己を拒んで傷付けることにしかならないの。あの時ああすれば良かった、こうすれば良かった――なんて過去の過ちに苛まれて、人生を後悔に塗れたものにしてしまう。つまり私達は、己の生き方に誇りを持って、己の信じた路を肯定してあげなければならない」
此岸のありとあらゆるものに意味などなくて。
全てが平等に無価値である。
他人が定めた目標に囚われることにも意味がない。
だが、失望することなどない。
そのような世であるからこそ、己で価値を見出し、たった独りでも生きていかなければならない。
〝畜群〟になる勿れ。
奴隷特有の〝怨恨感情〟を捨て去るべし。
〝超人〟となるために〝力への意志〟に耳を傾けよ。
そして己が、己だけが運命を愛するのだ――。
虚無主義――。
独国の哲学者フリードリヒ・ニーチェの言葉である。
過去に大切な人を喪った、私の辛い青春を支えてくれた思想である。
しかしながら。
この虚無主義という姿勢も、批判に晒されることが往々にしてある。
善悪の区別にすら価値がないという見方は、時にあらゆる凶行を肯定する過激思想に容易に直結する危険性を孕んでいるためである。国民社会主義ドイツ労働者党において、ヴェルサイユ体勢の打破という政治目的に利用されたことが良い例だろう。
またニーチェが説いた〝永劫回帰〟という世界観――経験が一度限り繰り返される世界ではなく、ある瞬間とまったく同じ瞬間が永遠に繰り返される。始まりも終わりもなく、現在だけがずっと、価値を変えないがゆえに何の変化もせずに横たわっているという途方もない世界観。この絶望の克服こそが虚無主義の命題であると私は考えているが――も現在は否定されている。
社会学的な知見に立てば、人類が蓄積してきた知識や歴史というものは、近代化という不可逆な方向性を持っている。有り体に言えば、時間は誰が何と言おうと進むものだ。変化もなく、現在だけが続くなどありえない。エントロピーは増大するものである。そういう意味では自然科学的――熱力学、カオス理論、量子論――な立場でも簡単に否定できるだろう。
「話が逸れちゃったね。えっと、人間性の話だっけか」
「いいえ、闇術についてです」
「あ、そうだったね。うん。使うべきではないということは分かったよ。これからはなるべく使わないようにするよ。教えてくれてありがとう」
私自身の意思はさて置いて。この国では闇術――と名付けられた異端の魔術体系――が忌避されているのだ。ならば素直に控えた方が懸命である。そもそも、話の本旨は騎士団の皆に配布する御守りについてであったのだ。
一体何をどうしたら欲求階層説や虚無主義の話に飛躍してしまうのか。我ながら会話が下手である。説教染みたことを言ってしまったとも思う。
謝ろうとカイル君を見れば、彼も私を凝然と見ていた。長広舌に対する抗議の眼差しではない。ひどく憐れむようでもあり、いたく悲しむようでもあり――純粋たる少年の、哀切なる顔であった。
――どうしたの。
どうして、きみがそんな悲しそうな顔をしているの。
そんな必要なんてどこにもないんだよ。
私が口を開くよりも先に。
「葉月さん。先程のお話は、欲求のように学士様の理論でしょうか。それとも、あなたの体験談でしょうか」
カイル君が問うた。口調こそ質問の体をとっていたが、確信が込められたものであった。
「もしも体験談であったなら。あなたに辛いことを思い出させてしまったことを心の底からお詫びします。本当に、すみませんでした」
カイル君は椅子から立ち上がり深々と頭を垂れる。
恥ずべきことに私は何も言うことができなかった。
気にしないでいいんだよ、と。
これも偉大な哲学者が仰った、ただの受け売りなんだから、と。
彼を安心させるべきだと知りながらも。
今、何かを言えば、声が上擦ってしまいそうで。
目頭が熱くなり、涙が零れ落ちてしまいそうで。
私ができたのは、手巾で口許を強く覆い、荒くなった呼吸を抑えることだけであった。
それでも無理矢理に口を開いて。
「――私なら、大丈夫だから。でも、少しだけでいいから。落ち着くまで、時間を頂戴」
精一杯に言葉を紡ぐ。
我ながら無様な姿であった。
カイル君の前に横たわる力尽きた筈の折り鶴が、私の慟哭に共鳴するように嬉々として翼を動かす。その様は、溺死寸前で何かを掴もうと藻掻く子供にも、頸を締め付ける麻縄を外そうと必死に足掻く死刑囚のようにも見えて――。
――ああ、やっぱり。
私は過去を捨てられずにいるのだ。
未だ、あの人の死に囚われているのだ。
浅はかにも闇術に手を出した私への天罰なのかもしれない――と私はどこか遠くで考えていた。
書いても書いても終わらない。それどころか話は雪達磨式に膨れ上がるばかり。そも、この話はただの気分転換だった筈なのだ。適当に手癖の儘書き殴って、適度なところで物語を畳んでしまおうと思っていた筈なのに。これに費やす労力を公募の方に費やせば、長編二本くらい書けたのではないかと後悔する今日この頃。その場のノリで見切り発車は絶対に駄目という教訓になった。せめて起承転結という最低限の骨子を組んで、締切と枚数を設けなければ、まあそうなるわな。反省。それはそうとしてフロム様エルデンリングのDLC早くして。せめて続報ちょうだい。




