39.「そんなに難しい顔をして、どうしたのですか」
「そんなに難しい顔をして、どうしたのですか」
カイル君の声で私は我に返る。彼は立ち上がって私を心配そうに見ているし、硝子容器の水は既にぐつぐつと沸騰している。
「あ、ごめんね。今から抽出するから、ちょっとだけ待っていて」
器具が倒れないよう支軸を手で抑えながら漏斗の窄んだ先端を硝子容器に差し込めば。重力に逆らうように容器の水が漏斗に吸い込まれていく。熱湯は布製の濾過器をするりと経由して、堆積した珈琲豆を持ち上げながら浸潤していく。
この時点においても尚アルコールランプで熱している都合上、抽出温度は凡そ95℃前後と、薬缶からお湯を注ぐような抽出方法と比較して高くなるため香り高い味わいになりやすい。また淹れ手によって味の違いが出にくい――技術に依存しないというのも確かな利点だろう。
バイト時代に店主からの指導を受けたり、各種民間企業が主催する講習こそ受けたりしたことはあるものの、指導者や鑑定士などといったバリスタ――こと珈琲に関する知識と技術を持ち、茶房などで珈琲を提供する職業のことである。伊語で"barista"と書くらしい――資格を持たぬ私にとっては有り難い抽出方法である。
手元の砂時計を逆さまにして一分間を計測すると同時に竹べらを用いて一回目の攪拌を始める。浮き上がった粉と熱湯を掻き混ぜるように竹べらを前後に動かす。
人によっては、一度目の攪拌ならば一分も不要、せいぜい四十秒で十分と説く者もいることは知っている。知ってはいるのだが――自分で何度か試してみたが、悔しいことに私には違いが分からなかった――手持ちの砂時計がちょうど一分間だったという都合もある。
砂時計の砂が落ちきったのを見てから、アルコールランプの灯芯に蓋を被せて鎮火する。
そして二回目の攪拌。熱湯を冷ますように竹べらをぐるぐると掻き混ぜれば、真空状態になった下部の容器に抽出後の液体が吸い込まれていく。時間にしておよそ一分弱――抽出が完全に終わり、茶褐色の泡と珈琲の滓ばかりが濾過器の上に取り残される。
珈琲の滓を紙袋に包んで捨て、濾過器と漏斗を洗い場に置く。
事前に温めていたカップに珈琲を注ぐ。
その後、厨房の冷凍庫から、日本から持参したアイスクリームを取り出して硝子の器に盛り付ける。チョコソースをさっとかけて、彩りのために刻んだ苺と薄荷の葉を一枚添える。
売り物にするつもりはない。ここ数日、私とお店のために、身を粉にして働いてくれたカイル君に対するささやかな御礼のつもりであった。
無論、バニラビーンズのような香料があればアイスを始めとするデザートの自作も可能になるのだが。是非とも献立に加えたいと思い、いつも店に来てくれる運び屋の男性にその旨を尋ねたところ、戦争の影響で物流が滞り、入手するにしても時間と費用がかかってしまうとのことで断念せざるを得なかった。
尚、余談ではあるが。
圧縮機もなければ冷媒配管も通っていない摩訶不思議な冷蔵兼冷凍庫をカイル君に見てもらったところ、何でも魔術応用型の氷室であるらしい。曰く、内部の小箱に収められた輝石が触媒となっており『瞬間冷凍』なる魔術を発揮してくれるらしい。輝石は消耗品ではあるものの、耐用年数も長く、また安価であるため今後の使用についても問題はないとのこと。
私が珈琲とアイスを差し出して、代わりに完食してくれた空の食器を下げれば、カイル君は所在なさそうに小さく頭を下げる。
「やっぱり慣れませんねえ。こうして葉月さんに給仕してもらうのって」
こういうのを役得と言うんでしょうか、とカイル君は人懐っこい笑みを浮かべる。
「そう? 喫茶店なんだから別に普通でしょう」
「いやいや。我が隊の救世主たる聖女様にここまでしてもらうなんて本当に感謝してもしきれませんよ。美味しい食事に異国の氷菓子までいただけるなんて」
「調子がいいんだから。色々してもらってるのは私の方だよ。それに試食も兼ねているんだから。それで料理はどうだった。お口に合ったかな。忌憚ない意見を聞かせて頂戴」
「んー。そうですねえ」
カイル君はアイスを一口、それはもう美味しそうに頬張ってから腕を組む。
「味自体はまったく問題ないと思います。トマトの酸味が少しばかり強いような気もしましたが、まあ許容範囲でしょう。お米も具材も、添え物のサラダもドレッシングも全部バランスが取れていて――はい、とても美味しかったです。王都でもお金を取れる水準ですよ。少なくとも官舎の飯炊き婆さんが作る朝飯なんかよりも断然美味い。ああ、でもひとつだけ。ちょっと量が多いかなと感じました」
「え、量?」
そんなに多くしたつもりはなかったが。
「はい。このメニューって気軽につまめる軽食というよりは主食――昼食もしくは夜食を想定しているんですよね。そして狙っている客層も、特別男性を意識しているわけでもないと」
「うん、そうだね。そういう意図はまったくないよ」
メモ帳を開き『量が多いかも?』とペンを走らせる。
「それならもっと量を減らしてもいいでしょう。あの量ですと世間一般のご婦人方は食べきれずに残してしまうでしょう」
「え、そうなの?」
「それなら逆に訊きますが、葉月さんはあの量をお一人で食べきれるんです?」
「……それを言われると確かにそうかも」
過去を振り返れば、思い当たる節はある。
喫茶店でバイトをしていた頃の話である。オムライスやスパゲティを頼むお客様の殆どが、がっつり食べたい学生さんか成人男性であり、それも量を把握していた常連さんばかりだった。家族連れのお子様やデート中と思しき女性が注文した場合もあったが、結局食べ切れずに父親か連れの男性が代わりに食べていたように思う。
私自身の認識としても、基本的に料理をするのは弟がふらりと断りなくやって来た時くらいであり、その弟がこれまた健啖家であるのだ。成長期ゆえなのか、酒精が食欲に作用した結果なのかまでは知らないが。自分でも気付かぬうちに、私の認識には大いなずれが生じていたのかもしれない。
――それにしても、だ。
あれだけ好き勝ってに飲み食いして、縁側で猫と一緒に日向ぼっこをして、「はい余裕ぅ」「高山ッ!」「壺投げ上手男と申します」「彼または彼女」などと意味の分からぬ独り言をぶつぶつと呟きながらゲームに没頭して――学校に行くのは考査か模試がある時だけ。部活動に所属しているわけでもなければ、運動が趣味という話も聞かない。凡そ自堕落と言っても過言ではない生活を送っているのに体型の維持に困った様子もないのだから不思議なものである。私など、少しでも気を抜けばすぐ体重が増えてしまうというのに。
閑話休題、思考が逸れてしまった。
あんなやつのことなんてどうでもいい。
「葉月さん? どうしたんです。そんなに怖い顔をされて」
「ううん、何でもないの。身内に猫好きの馬鹿がいただけのことだから」
「はい? 猫、ですか」
カイル君は不思議そうな顔をするが、私に答える気がないことを察すると、素直に頷いてくれた。一応フォローをすれば、猫好きの馬鹿とは、私の中では一応は褒め言葉のつもりである。あくまで一応は。本当に、少しだけ。
「話を戻すけど、それなら量を減らせばいいのかな」
「そうですね。この量で喜ぶのは、常に腹を空かせているウチの連中か、身体が資本の肉体労働者だけでしょう。本音を言うと僕でもぎりぎりでした。良い所のご婦人や御嬢さま方では苦しいでしょう。下手をすれば難癖を付けられるかもしれませんよ」
「それは流石に困るなあ。具体的にはどれくらい減らせばいいと思う?」
「四割――だとやり過ぎか。せいぜい二割程度でよろしいかと。この間の大衆食堂でも、だいたいそれくらいの盛り付けかと思いますよ」
大衆食堂――五番街にあり、カイル君が腕を怪我して帰ってきた事件があった店である。
そう言えば、去り際に『心折れた戦士』と名乗ったあの鎖帷子の男性にまだお礼を伝えていなかった。忘れないうちに、あとで時間を作って何かを持って行くとしよう。迷惑にならないと良いのだが。
「最初から分量を客側に決めてもらうのも一つの手段でしょう。少なめ、普通、多め、どれに致しましょう――なんて具合に。もし多めだったら割増料金をブン取れますしね。ああ、でも混雑の具合によっては、却って厨房との連携が煩雑になるかもしれませんが」
「それについてはしっかり対策を練ることにするよ。とういか、どうせ私ひとりでお店を回すつもりだし、正直忙しくなるなんて想像してないんだよね」
「そうなんですか? 誰かを雇った方が良いと思いますよ」
「今のところは、そんなつもりはないかな」
「……まあ葉月さんがそう思うなら結構ですが」
カイル君は何かを言おうとしたが、結局言わないことに決めたようだ。ごまかすように銀製のスプーンでアイスを切り崩しにかかる。
彼が言わんとしていることは何となく分かる。私ひとりでは捌けないくらい混雑したらどうするつもりなのか、見通しが甘いのではないかと。そういう旨のことを考えてくれたのだろう。
確かにそれは一理ある。祝福を料理に施すような店など、カイル君曰く前代未聞も良いところらしい。噂が広まりでもすれば簡単に賑わってしまうのかもしれない。
けれど、そうはいってもだ。
こちらはまだ開店すらしていない。
誰かを雇うとなると、当然労働の対価として賃金を払わなければならない。契約が生じてしまうのだ。しかし現状、それだけの売り上げが出るかは未知数である。取らぬ狸の皮算用とはよく言ったものである。
儲けるために開店するのではなくて。
ただただ好きだから。
どうしようもないくらい憧れてしまったから。
大学生になっても尚夢を捨てきれなかったから。
祖父と祖母が機会を与えてくれたから。
そして何より、お客さんになってほしいと思う人に出逢うことができたから――私は世界を跨いでも開店する勇気を持つことができたのだ。
私の場合、きっと順序があべこべなのだろう。そういう私の夢見がちな部分が、商家出身のカイル君にはきっと心配に見えるのかもしれない。
だが、誰かを雇いたくない理由は他にもある。
率直に言えば、接客にせよ調理にせよ経営の手腕にせよ――喫茶における、ありとあらゆる分野において、私は他人に何かを教えられるほど熟達していないのだ。自分が足りぬことをよく知っている。そんな人間が誰かを雇おうなど、一手販売権の連鎖店契約ではないのだ。上手く言語化できないが、虫が良い話ではないかと思う。況して私は異邦の人間である。たかが喫茶の雇用契約とは雖も、他人の人生の責任など負えるわけもない。
今は騎士団の皆々様の好意に甘える形で、カイル君にあれやこれやと手伝ってもらってはいるものの、本来ならば彼はここにいていい人間ではないのだ。
「ああ、そうだ。あの料理の名前、オムライスって言うんでしたっけ?」
思い出したようにカイル君は顔を上げて、珈琲が注がれたカップに手を伸ばす。
私もつられるように珈琲を静かに傾ける。事前にカップを温めていたからか、それともサイフォン式で淹れたからか、まだまだ熱い。それゆえ口当たりは固くて苦いが、適温になれば飲みやすくなってくれるだろう。抽出は上手くいったようである。この感覚を忘れないようにしなければ――。
「そうだけど、それがどうしたの?」
「それなんですけど、どうにも馴染みがなくて。メニューにオムライスなる料理が書かれていても、一見さんは誰も頼もうとしないでしょう。端的に言えば、名前が問題になるかと」
名前が問題になる?
「それは――ごめん、意味がちょっとよく分からない」
私の中で、何かが引っ掛かった。
名前。名前――?
胸の騒響は収まらない。
「オムライスは、この世界に存在しないの?」
「いやいや、そういうわけではありません。似たようなモノはありますよ。潰したトマトを基礎に、肉と野菜を刻んで米と卵と一緒に炒めたものなんて、船着場の野郎共が作りたがる料理です。十八番です。もっとも連中の場合、使う具材はもっぱら陸ダコやら陸ホヤの白削ぎ肉などといった海の幸でしょうし、使う野菜も手で千切っただけのクズばかりで、料理未満の大雑把なモノですがね。葉月さんのように卵で包むなんて上品な真似など、連中は思いつきもしないでしょう。まあ、いずれにしても――」
カイル君はスプーンで掬った苺を口に放り込むと、ああ美味い野苺なんて久々に食べましたよ子供の頃を思い出すなあ、と言った。
「オムライスだなんて呼ばれ方はしませんね。強いて言えば、トマトソースと鶏肉と刻み野菜の卵とじ、なんて名前になりますかねえ。港の野郎共に言わせれば、炒めご飯と言えばこれしかないらしいですが」
「つまり、名前が悪いから、お客様は警戒して注文しないかもしれないってこと?」
「まあ、警戒と言うと少々過剰ですがね。折角良い店に来たんですから、下手に冒険をして失敗したくないという心理が働く可能性は大いにあるでしょう」
「なるほど。そういう考えはまったくなかったよ。参考になったよ。ありがとう」
献立に書くなり口頭で伝えるなりすれば、祖母が作り祖父が授けてくれた指輪の効果で、何もかもが伝わってくれると思い込んでいた。しかし改めて考えれば無理もないことである。
オムライスというのは、洋食ではあるが日本発祥という曖昧な料理である。言語を繙けば、確かに英語で"Omelet"、米は"rice"であり、和製英語であるが――無理に直訳すれば「包みご飯」にでもなるのだろうか――港や河川の労働者達が既に他の名称で呼んでいるならば意味が通じないのも頷ける。ともすれば固有名詞には指輪の効力が及ばないのかもしれない。
それならば喫茶店の定番であるナポリタンも怪しいだろう。名前こそ南イタリアの都市を指しているが、本場ナポリで供されるスパゲティ・アラ・ナポレターナとは全くの別物であるらしい。ならば何故日本ではナポリタンと呼ばれるようになったのか、いかなる紆余曲折があったのかは諸説あり、私もそこまで把握しているわけではないのだが――いずれにしても、本国の方々にしてみれば、まるで悪夢ような料理であるらしい。
「それなら、名前を変えてしまえばいいのかな」
「はい。もしくは、鶏肉と野菜を云々――という補足を付けておくか、画家か版画職人にでも依頼して、視覚的にも分かりやすい絵を一枚掲載するのが確実かと思います。しかしこの時期だと依頼を受けてくれるかはかなり難しいところでしょうが」
いや待てよ商業組合の伝手があればいけるか、しかしそうなるとあの女が副団長に近付く口実を与えることになるな――とカイル君は思案顔で呟く。事情は知らないし、敢えて踏み込むつもりもないが。カイル君の言うあの女とは商業組合の組合長――私に便宜を取り計らってくれたあの婦人のことであろう。
「時期が悪いって、どういうこと?」
私が訊けば、カイル君は苦笑いを浮かべてから。
「一応、今は戦争中ですからね」
とだけ言った。そしてカップを手にした儘、椅子の座部をくるりと回して日光が差し込む窓辺へ身体を向けてしまう。戦争というものを知らぬ暢気な私に呆れてしまったのかもしれない。
彼の横顔はウィリアム様ほどではないが精悍であり――飢えと死を間近に感じながらも、決して人間に媚びてなるものかと意地を張りながら縄張りを闊歩する野良猫によく似ていて――彼のような年頃の少年がしていい顔ではないなと思った。
尤も、それは平和な日本でぬくぬくと育った私が抱く一方的な感想でしかない。命の危機を感じたことのない私と、生まれこそ王都の裕福な家庭らしいが、幼い頃から騎士団に入り、数多の人間を殺し、或いは殺されそうになったことのある彼とでは、悲しい哉、比較にもならない。
ただでさえ私の我儘に優秀な団員である彼を――ただの一兵卒ではない。勲章である青い襟巻をした将来有望な幹部候補生である――付き合わせてしまっているのだ。きっと現場では、く思っていない方もいるだろう。これ以上甘えることはできない。
だから私は。
「ねえ、カイル君。私、皆に御守りを渡そうと思っているの」
今まで、考えるだけで言い出せなかった支援を申し出る。ここ数日、負傷者の治療やその他の諸々の雑務に忙殺されて、相談相手を捕まえることができなかったのだ。
「どうしたんです、急に」
戸惑ったかのように彼は聞き返す。本当に戸惑っているのか、そのようなふりを装っているのかは、鳶色の瞳を覗き込んでも鈍感な私には分からない。
「献立については十分参考になったし、私の方でなんとかできると思ったからね。だから今度は私の番。実用性のある御守りがあれば皆も助かるかなって思ったの。見てて、こんなふうに」
カウンター裏の抽斗から、文具店で購入した正方形の千代紙を取り出し一羽の鶴を折る。一分もかからない。合わせ目に寸分の狂いもない緻密な出来映えである。
その後、鶴に奇跡――『生命湧き』を吹き込む。
携帯する者の生命力を癒やし続けるように。騎士団の皆が不倒の戦いをこなせるように。無事に故郷へ帰ってくることができるように。自我を超越した、純真かつ清浄な祈りである。
私は、自身が迚も不器用な性質であることは薄々ながらも自覚している。
だが、こと折り紙に限れば話は別である。
物心ついた時から内気だった私は、ひとりでいることが苦と感じない性分も相まって、自分から友達を作りにかかる積極性も持てず、また皆の輪に割って入るほどの鉄面皮にもなれず。他者との協調性も、その必要性も理解できずにいた所謂困った子供であった。幼稚園でも小学校でも齧り付くように本を読んで、飽くか疲れでもしたら気分転換と言わんばかりに黙々と折り紙を作り、長きに渡る孤独と無聊を凌いでいた。
理由を考えれば何とも情けないが、それでも種類と品質には自信がある。経歴は伊達ではないのだ。江戸室町からの伝統折り紙――代表どころでは幽霊や菖蒲、蝸牛や蛙、宝船や折羽鶴、極めつけは鳳凰だろうか――は今でも手順を覚えているし、目を瞑っていても作ることができる。五指が覚えているのだ。
カイル君に見えるように、鶴をカウンターに載せてから。
――『追う者たち』。
私の人格の一部を。
愛と羨望を。
仮初めの意思を与えれば。
暗く湿った闇を取り込んだ折り鶴は、白い光を放ちなが浮き上がる。そのまま、鶴はするりと宙空を辷るようにカイル君の前に着地すると、自己主張するように翼をぱたぱたと動かしてみせる。
私は此処にいるよ。
どうか私を見捨てないで、とでも言いたげに。
奇跡の依り代に折り紙を選んだのに、特別これといった理由はない。海外の方――正確には世界を隔てた外つ国なのだろうが――に喜ばれるのではないかという安易な発想。そして量産が容易であり携帯性に優れること。日本人として培った霊魂は紙に宿るという無意識な信仰――様々な事情を鑑みた結果の消去法である。他に優れた方法があるならそれはそれで良い。折り紙に拘泥するつもりはなかった。
「これは――」
見れば、カイル君は絶句している。
その狼狽ぶりが尋常ではないため、見ている私の方が焦ってしまう。
「どうしたの? そんなにおかしなことだったかな」
「い、いえ。おかしくはないのですが――いや、やっぱりおかしいですよ。どうして、そんなことができるのですか」
「えっと、どういうこと?」
私が尋ねれば。
「今のは闇術ですよね。だとしたら禁呪ですよ」
カイル君は険しい顔で答える。
何をそんなに大袈裟な――と言うことが憚られてしまうほどに真剣な態度であった。
物品に人間性を分け与えることは、聖典『DARK SOULS』から着想を得たことである。
確かに、聖典においては、人間性なるものは闇そのもののように描かれ、またそれらに関わる術は禁忌とされていた。だが、当の主人公である不死の英雄達は、そんなことなどお構いなしに使うものだから――神の都を守護する銀騎士に向けて『ソウルの大澱』を放ち一方的に蹂躙せしめる魔術師がいた。踊り子が操る双魔剣を掻い潜り、彼女の臀部に『黒炎』を浴びせ続けた呪術士がいた。古竜の同盟者たる無名の王へ、深みに潜む蟲の大群を召喚する、狂った教導師の奇跡『ドーリスの蝕み』を連発して、遂には失血死せしめた聖職者がいた。不死人が不死人たるを貴び、心を亡くさぬ為に始めた名誉ある闘技において、互いに闇の力を秘めた『湿った手鎌』を握り締め、素早い回避で相手を攪乱し、じわじわと相手の生命力を削りとらんと繰り広げられる名誉なき泥仕合――それらあまりの節操のなさゆえに、私自身も禁忌云々に関しては、あくまで冒険譚を彩る些細な設定としか考えていなかった。
だからこそ、こうして実際に使ってみたのだが――カイル君の反応から察するに、それは軽率な判断だったのかもしれない。
カイル君が恐る恐る鶴に手を伸ばせば、折り鶴は彼の掌にすとんと収まり、力尽きるように倒れてしまう。途端、癒やしの光が彼を包み込む。千代紙に仕込んだ奇跡『生命湧き』の発動は成功した。そこまでは良いのだが――。
「驚かせてごめんね。とても聞きにくいんだけど、闇術というものは、この世界では使ってはいけないものだったの?」
「……本当に、ご存じなかったのですね」
「うん。聖典には忌むべきもののように書かれていたけれど、それはあくまでもお話の中だけのことだと思っていたんだ」
本当に禁忌とすべき事柄であるなら、多くの民衆が触れる聖典には記載されないものである。逆説的に、聖典に記載されるような物事など然程重要でもないのだろう――という甘い認識があったのだ。今となっては言い訳にしかならないが。
「僕も副団長ほど魔術に精通しているわけではありませんから確かなこととは言い難いのですが。回復の奇跡が悪いのではありません。問題は、その前にかけた闇術の方です」
その闇術なるものが分からないのだ。魔術とは根本から異なるものなのだろうか。それとも、体系に組み込まれこそすれども正統と見做されない傍流――宗教学的な意味においての異端であるのか。聖典にも具体的なことは書かれていなかったように思う。
カイル君は言葉を選ぶように黙ってから。
「人の内側には闇が――尽くことを知らぬ、暗く重い欲望が眠っているものと信じられております。それを解き放ち、操ろうとする系統の魔術を闇術と呼びます」
と重々しい口調で解説する。
「闇に連なる聖書や呪術書もないとは言いませんが、それらは禁書に指定され、王都の大書庫に封印されるなどして表に出回ることはまずありません。闇術は禁忌とされ、それは入団資格のひとつに魔術を使えるかが問われる僕ら騎士団も例外ではありません。副団長ほどの魔術師ならば使えてもおかしくはありませんが――所詮は根も葉もない想像ですね。今のは聞かなかったことにしてください」
「人間の裡に、暗い欲求があることは。それが忌むべきものだっていうことは分かるけど。でも、どうしてそれが禁忌とされるの?」
聖典にもそのような記載はあった。
ある時は人間性と呼ばれ、またある時は深淵や澱みと呼ばれ――概ね、湿っていて質量のあるものとして描かれていた。
「どうしてって――そんなの当然ですよ。神の枷を破る行為だからです」
「神の枷?」
「そうです。僕らが、時と共に膨張する澱みを抱えているにも関わらず、こうして人の形を保ち、理性ある人間らしく振る舞うことができるのは神の枷があってこそなのです。少なくとも、神を信じる、月光の信徒たる僕ら騎士団にとっては――闇というものは。深淵というものは監視すべき対象であり、忌避するものであるのです」
己の正義を微塵も疑わぬ口調でカイル君は滔々と語る。
人間が生まれながらにして欲求を持ち、それ律するために宗教や道徳を重んじるという側面は重々承知している。決して間違ってなどいない。だが、それでも私は素直に頷くことができなかった。
自分よりも年下の少年が一生懸命に教えを説いているのに、どうしても小さな反発を捨てきれない。どうしてそう思ってしまうのかと自省して。
――きっと私は。
既に順応しているのだ。
闇が如何なるものかを理解しているのだ。
闇というものが、人間の築き得た理性倫理道徳秩序と共存できるものだと――否、共存してほしいと。欲望を排除するのではなく、人間が抱いて然るべき、ひとつの正常な機能だと思っているのだ。制御できるものだと。暗くて汚いところも含めて、それが人間であるのだと。
――嗚呼、だから私は。
理力と信仰がまるでないにも関わらず。
その結末が悲劇でしかないと知りながらも。
闇術が使うことができたのだ――と思った。




