36.「……あんた、この本読めるの?」
「……あんた、この本読めるの?」
もしかして、弟は。
あの世界の存在を既に知っていて、その上で知らないふりをしているのではないか。黙秘の理由こそ分からないが、私の知らないところで何か途轍もなく悪いことが起きているのではないか。重過ぎる使命を背負っているのではないか――。
そう思い、おそるおそる尋ねれば。
「何言ってんの。読めるワケないじゃん」
弟は、あっけらかんと答える。
視線はテレビに向けられた儘である。
その横顔は、血の繋がった姉弟である筈なのに私とはあまり似ていない。
日本人らしくない高い鼻先も、涼しげな目許も、少々角張った輪郭も、手入れを欠かさずにいるという、穏やかな陽光を受けて琥珀色に輝く金髪も。
そのどれもが、あちら側では十二分に溶け込んでしまうだろう。寧ろ、日本にいるよりも自然なのかもしれない。瞳の色こそ目立つかもしれないが、その程度はカラーコンタクトでいくらでも偽装できよう。
労働者風の、擦り切れて薄汚れたシャツとズボンに着替えさせ、人通りの多い商業区画でも歩かせれば、弟が異邦人と気付く者はいないだろう。
「それなら、どうしてこの本が聖典だと分かったの?」
「んー。強いて言うなら直感」
「具体的には?」
疑念を悟られないように、努めて自然に尋ねる。
私は嘘を吐くことができない性分であり――どんな種類の嘘でも罪悪感が先立ってしまうのだ――腹芸があまり得意ではないのだが、今ばかりは機能に乏しい表情筋が頼りであった。
画面を見れば、二人の騎士が巨躯の悪魔に挑みかかっている。
玉葱おじさんが、中央に鋭い突起がついた盾と大剣を駆使して前衛を務め、後衛となった騎士は、一段高い建物の屋根から長弓を引き絞っては、ちくちくと矢を射かける。よく言えば役割分担の整ったチームプレイ、悪く言えば、仲間を囮にして、自分は安全圏から攻撃を続けるせこい戦法である。騎士道精神の欠片もない戦い振りであった。
弟は一瞬だけ私を見た。
質問する私に違和感を覚えたのかもしれない。
「だってその本、編年体で書かれてるじゃん。確かに読めないし、それ以前に何語かも分からないけど、行頭には数字っぽい特徴的なパーツが並んでいるからね。暗号解読と同じ要領だよ。あとはまあ、装丁も革製でそれなりに凝っているし、中身だってパルプ紙じゃなくて羊皮紙だったから聖書――まあ宗教関連かなと思ったわけ。で、どうよ? 俺の推理、当たってる?」
「多分、当たっていると思う」
「思うって何よ。姉貴の本でしょそれ」
「私だってまだ開いていないんだもの。というか羊皮紙なんだ、これ」
皮革の本など手にするのは初めてだった。未だにミケが頭を乗せている聖典を見れば、確かに頁の一枚一枚は、洋紙よりも厚みがあるように見えないこともない。
「というか姉貴はその本読めるの? どこから持ってきたのさ」
弟の至極当然な質問に、私は答えることができなかった。聞くことばかりに意識を割かれ、聞き返されるなど全く念頭になかったのだ。
(どうする? いっそ、全てを打ち明けてしまおうか)
一瞬、揺らいでしまうが――いや、駄目だ。
異世界から持ち込んだなんて言えない。言えるわけがない。
私が揶揄われるくらいならまだいいが、心優しい弟のことだ。奇妙なことを云い出した私を本気で心配するだろう。心苦しいが、ここは嘘を貫くしかない。罪悪感が燻り、ちりちりと胸が痛むが、他に方法がない以上は仕方ない。
「読めるよ。大学の課題なの」
嘘を吐くときは。
真実を織り交ぜて、決して多くを語らぬように。
細心の注意を払って、どこか憂いを帯びた顔で。
「まじかよ。大学ってそんなことするんだ。第二外国語ってやつ?」
「ううん、一般教養だよ。神学というか哲学だね。"Philosophy is the handmaiden of theology"なんて言われるくらいだからね」
「あー何だっけソレ。『哲学は神学の婢』だよね。スコラ哲学の慣用句で良いんだっけ?」
「よく知ってるね。『神学大全』の著者でも有名なトマス・アクィナスが支持した言葉としても知られているね」
「いや全然有名じゃねえから。あとトマトさんって誰よ」
本当に知らないのか、知っている上で惚けているのか、弟は軽い口調で問うた。
「十一世紀イタリアの神学者で、ベネディクト会の修道士。枢機卿にもなって、カトリック教の聖人にもなった人だよ。高校の授業でやらないの? 覚えておいて損はないと思うよ」
「あー、なんか前に先生がそんなこと言っていたような気が――しないわ」
「しないんだ。そんなんでよく成績維持できるね」
「まあ、考査の結果さえ良ければ評定は悪くなりようがないからね」
良くなるとも断言できないのが苦しいところではありますが、と弟は補足する。
「普通の人は、その考査で苦労すると思うんだけど」
「俺から言わせりゃ、多分そいつらは努力の方向性を間違えてるんだよ。授業に出席して満足してるからダメなんだって。固い椅子に縛り付けられて、教員免許を持つだけの人間の、大して面白くもない、クソほど役に立たない話を延々と聞かされるくらいなら、ひとりでのびのびと自学自習に励んだ方が絶対効率的だと思うんだけどなあ。だいたい赤の他人が大勢いる教室に詰め込まれて、息苦しい中で集中なんてできるかって話だよ。そのくせ教師によっちゃ居眠りも許さないんだから馬鹿馬鹿しくもなるって。授業料払ってるのはこっちだっつうの。まあ、だから俺はあんまり学校には行かないのよ。行く必要を感じないからね。コスパ悪いもん」
そう真面目に語る弟の態度は、世に相容れない天才そのもので、なるべくして不良――正しく表現するなら、秀でた能力のあまり、世間一般の良識や尺度から逸脱せざるを得なかった者だろうか――になったという、説得力の余りあるものであった。
少なくとも。
毎日休まずに通学して、先生にも従順で、級友とは友好を結び、規範と秩序を保つこと。それが正しい姿と信じて疑わずに、一生懸命に勉強して、どうにか第一志望の大学に進学できた凡愚たる私にはできない姿勢であった。
「というか姉貴、発音の訛り過ぎじゃね。そんなんだから日本人の英語はジャングリッシュだなんて笑われるんだよ」
弟は、嘲るように喉を鳴らす。
その音に反応して、ミケの片耳がぴんと動いた。
ジャングリッシュとは〝Japanese〟と〝English〟を合成した造語である(もしかしたら、騒々しいという意味での〝Jangle〟も入っているのかもしれないが)。和製英語と訳したいところだが、実際には英語の発音が拙い日本人への揶揄に用いられることも往々にしてあるようで。
事実、私は〝th〟や〝V〟の発音が苦手である。舌先が上手く動いてくれないのだ。尤も、それで困ったことは人生で一度もないが。いざとなれば身振り手振りで伝わるだろうし、文明の利器に頼れば、どうとでもなるだろうという考えもあった。
「受験では困らないから良かったんだもの。そう言うあんたはどうなのよ」
「当然喋れますとも。ペラペラのバリバリだよ」
「えぇ、本当に?」
何だか悔しくなって聞き返せば。
「本当だって。この前なんか、駅の裏道で、路に迷ってるっぽい外国人のお姉さんがいたから道案内してあげたよ。お礼に、ハグされてスパシーバって言われたもんね」
弟は得意顔で語る。なおスパシーバはロシア語なのだが――指摘するのも野暮だろう。もしかしたら弟も、携帯を使うか身振り手振りで頑張ったのかもしれない。
「というかそんなことはいいいんだよ。結局『哲学は神学の婢』ってどんな意味なのよ。言葉通り、哲学よりも神学の方がエラいんだぞ、みたいな理解でいいの?」
「まあ、崩しすぎだけど、間違ってはないと思うよ」
少しだけ補足をするなれば。
聖なる教え即ち神学というものの、学問としての地位は、他の諸学問――具体的には、文法学、論理学、修辞学、算術、幾何学、音楽、天文学――よりも高いものであること。それら諸学問は、神学の解釈のために用いられることが儘あること。その在り様を仕える――即ち婢に例えられたこと。
アクィナスは、人間が神学を理解できない理由を、人間の知性の不十分さに求めたのである。謂わば、神学とは他の学問なしに成立しないのものではなくて、神学を理解するために、諸学問が存在するのだと。
もっと言えば。
神学とは神からの啓示によって齎されるという前提があること。信仰と学問、啓示と理性の関係ないしは融合を、アクィナスなりに捉えた言葉であること。
以上を、私なりに噛んで含めるように説明すれば。
何がそんなに気になったのか、弟は真剣な顔で話を聞いていた。
そして、少々の沈黙ののち。
「理性と啓示の融合ねぇ」
と言った。含みのある呟きであった。
「どうしたの。もしかして勉強しなきゃまずいって気付いたの? 夏休みは受験の天王山なんてよく言うし」
「どこの予備校だよ」
弟は、いつもの皮肉そうな笑みを浮かべるが、その声に力はなかった。
視線は徐に下がっていき、畳の表面についた黒い斑点で暫し止まったのち――弟曰く、祖父が煙管の燃え滓を吹き棄てた際につけた焦げ跡であるらしい。私は信じていないが――私の隣で、くぅくぅと寝息を立てるミケへと辷っていく。
「ミケ、起きろ。姉貴がその本読みたいんだってさ。お前がいると取れないだろ」
弟の呼び掛けで覚醒したミケは、億劫そうに身を起こす。
胸元を二三度舐めて毛繕いして、白い爪がひょっこり出ている後ろ脚で、耳の後ろをパタパタと掻いたのち、みゃおん、と鳴いた。母猫が仔猫に呼び掛けるような、やや強い呼び声であった。
「俺ならもう大丈夫だから。ほら、おいで」
弟は自身の太股を叩く。それを見て、ミケはほんの少しの躊躇を見せたのち、弟の脚の中にくるりと収まってしまう。そう時間も経たないうちに、また寝入ってしまった。
「あんた達、本当に仲良いんだね」
「まあね。付き合いも長いし、俺にはミケが何を言いたいのか分かるからね」
「私だってちゃんとお世話してるんだけどなあ」
「これじゃあゲームに集中できないけどね」
弟はテレビを見遣る。
どうやら戦闘は終了したらしい。玉葱おじさんは地面にどかりと座り、「太陽あれ!」と言って、酒を酌み交わすかのように勝利を喜んでいる。
「姉貴はさ。何か信じているものってある?」
ミケを撫でながら弟は言った。
意図が読めぬ漠然とした問いである。弟にとっては何か重要な意味を持つ問いであることは分かったが、それが何かまでは察することができなかった。
「それは、神様とか宗教的な意味で?」
「まあ、そうかな。そうかもしれない」
弟は曖昧に頷く。
私は少し思案する。
以前も似たことを考えた。その時は、大多数の日本人と同様に、文化としての精霊信仰しか持ち合わせておらず、他人様に誇れるような信仰心などないと思った。それゆえ、今こうして聖典らしい本を手に取り、少しでも変われたらと。己の裡に燻るように――或いは、心の奥底で、澱のように堆積を続ける暗い欲求のように――存在するものを自覚できたらと。信仰として昇華できたならと思っていた。
「あるよ。正確には、あってほしい、かな」
だから頷いた。
どこかで聞いたかは忘れたが『人は最後に祈ることができるのだから』という陳腐な言葉もある。少なくとも、鳥獣は死に怯えこそすれども、神を戴きはしないだろう(尤も、彼らに信仰があったところで私達には知りようもないのだが)。
けれども。
「へっ。アホくせえ」
弟は小声で毒吐いた。私に向けた発言ではない。
虚勢と自虐を多分に含んだ、己に対しての台詞だろう。
「どうしたの?」
「いや、あんまり水を差すことは言いたくないけど、信仰にハマり過ぎるのもよくないと思うぜ。姉貴が言った通り、信仰と理性の合体は歓迎すべきだし、あくまで学問だとか哲学としての――自己の究明ならいいと思うけど。むしろ推奨されることだと思うけど――その、何というかさ。身も心もドップリ浸かるような、二度と引き返せないところまで行っちまうのは違うと思うぜ。ほら、言うじゃん。信者と書いて儲かると読むだとか、信じる者は足許を掬われるだとか」
一言一言、探るような、慎重な言葉であった。
「それは――うん、そうだね。私、そんなふうに見える?」
「それはもう」
「え、嘘。どうして」
「いや冷静になって考えてみなよ。一週間どっかにフラリと消えたかと思えば、酷え面で帰ってきたし、おまけに何かエラい本まで持ってきたし、今夜も行くって言うし――心配するなっていう方が無理だぜ。何か善からぬことに首を突っ込んでいるんじゃないかって思うじゃん。男のところじゃないのは分かったからまだいいけど――まあ、その、無理だけはしないでよ」
「……うん、ありがと。心配してくれて」
「へへっ。いいってことよ」
照れくさそうに笑ったのち、弟はゲームに戻る。
騎士は、玉葱おじさんと別れて、刑場の探索を始める。
弟は、『青ざめた舌』ここにあるんだ初めて知った、とか。やっぱり通ならグレクラよりも『ラージクラブ』だよなあ――などと、意味の分からぬことを呟いている。
弟があの世界について何か知っているのではないかと疑っていたが、私の杞憂であったようだ。
真実を話すことができない自分の臆病さと不誠実さに罪悪感を抱きながら、私は豪奢な装丁が施された聖典にそっと触れる。生まれて初めて触る、羊皮紙のどこか粉っぽくも滑らかな感触と、その頁に踊る黒々とした洋墨の瑞々しさに感動を抱きながらも。
それよりも頭を占めていたのは。
私は、何か致命的な過ちを見逃しているのではないか――という得体の知れぬ不安であった。
書きためが尽きたので、また充電期間に入ります。くぅ疲。ブクマしてくれる方、評価してくる方、誠にありがとうございます。創作の励みになります。今後もひっそりと静かに話を進めて参りますので、何卒宜しくお願いいたします。きっと次章は、タイトル詐欺と言われないように、喫茶店云々の方面を進めていくことになるかと思います(なお、当初のタイトル原案はこんな砕けたものではなくて【満月よ頼むあの女を返してくれ】という中々硬派なものでした。流行を意識してボツになりましたが)。書いていてちょっと疲れてしまう文章だったから次はもうちょっとソフトでライトにサクサク進めたいと思います。




