35.「ところで姉貴さあ。今日も彼氏ん家行くの?」
「ところで姉貴さあ。今日も彼氏ん家行くの?」
「……え?」
弟の発言により、思考が停止してしまう。
テレビの中では、主人公の騎士が、白くて丸っこい甲冑に身を包んだ男性と会話をしていた。
聞けば、教会の頂上にいる巨人と話したいが、目前にある昇降機では下にしか行けないと難儀している様子であった。その豪放磊落な口調と、玉葱ともマシュマロともつかぬどこか可愛いらしい見た目から、とても深刻そうには見えなかったが。
「何言っているの。私、誰とも付き合ってないよ。付き合えないよ。前にも説明――はしてないか。とにかく彼氏なんていないから誤解しないでよ」
一瞬、月光の許に佇む眉目秀麗な青年が脳裏を過るが、きっと気の迷いだろう。いや、気の迷いでなくてはならない。私と彼は、文字通り住む世界が違うのだから。仮令、青褪めた月光が両者の世界を繋ごうとしても。
「いいよ、そんな嘘吐かなくても」
「嘘じゃないって。だって私だよ?」
先程の、弟の言い回しに似せた返答をすれば、こりゃ一本取られた、と言って弟は微かに笑った。今度は年相応の自然な笑顔であった。
「随分説得力のあるお言葉で。参りました」
「自分で言っておいてなんだけど悲しいね。というか否定してよ」
「いや無理でしょ。姉貴だって否定してくれなかったじゃん。それに俺、人生で嘘だけは一度も吐かないって決めているから。何なら禁煙だって何度も成功しているし。かれこれもう三十分は喫ってないし」
愉快そうに宣う弟は、確かに煙草を咥えていない。それどころかテーブルの上にあった吸い殻の山は片付けられ、天板は濡れた布巾で綺麗に拭かれている。
「そう。それなら一生そのままでいてね。あんた腹は真っ黒なんだから、せめて肺の中くらいは綺麗にしないと長生きできないよ」
「服が真っ黒だった姉貴に言われても。といか別にいいよ長生きできなくても。ぶっちゃけこの世に未練なんて――いや、あるわ」
「あるんだ」
「うん。動画サイトに上げたバンドの再生数は伸びてほしいし、新作ゲームのDLCだって早く出てほしいし、休載しちゃった漫画の続きだって気になるし、この前賭けで負けた分は早く取り返さなきゃ気が済まないし、漫画や小説の酷評動画も一気見する予定だし、このゲームのプレイ実況で有名な玄人様や素人様の投稿も楽しみにしてるし、先月オープンした猫カフェにも行きたいし、昨日買った青ラベルのウィスキーはまだ一口も飲んでないし――やっぱりまだ死ねないわ」
「何よ、めっちゃ人生満喫してるじゃないの」
「俺のことなんて別にいいんだよ。問題は姉貴の方だよ」
「執拗いよ。彼氏でも何でもないってば!」
つい私がむきになって反論すれば。
「分かったよ。いや知ってるよそんなこと」
降参だと言わんばかりに弟は両手を挙げてみせる。
「………あ、ごめん。急に大きな声を出して。私まだ」
「いや俺の方こそ嫌な話を振って悪かった。好き勝手にベラベラと喋って申し訳ない。俺が聞きたかったのは、今日も出掛けるのかってことだよ」
弟は日捲りカレンダーをちらりと見遣る。
「俺はちょいちょいこの家に来てたけど、姉貴はかれこれ一週間くらいはいなかったじゃん。正確には六日くらい? そりゃ心配もするって。別にどこに行くかは聞かないけど、今日も出掛けんの?」
「あ、うん。今日も行くつもり。多分朝――じゃなくて夕方頃には出ると思う。悪いけど、ご飯は作ってあげられないからね。冷蔵庫にあるものなら勝手に使ってていいからね」
「了解。まあ、俺も今日は実家に戻るつもりだから大丈夫だよ。俺もたまにゲームしに来ると思うから、掃除とかミケのことは任せてくれて大丈夫だよ」
「うん、分かった。お願いね」
私が頷けば、弟は安心したのかゲームに戻る。
弟の操る騎士は、昇降機の床にあるプレッシャースイッチを踏んで昇降機を作動させるが、それには乗らずに昇降機だけを下ろしてしまう。ひとりで悩んでいる玉葱おじさんを後目にその場で待っていれば、上から別の昇降機がやって来る。どうやら一つの竪穴に、上階行きと下階行きの昇降機が収められ、それらが連動しているというからくりなのだろう。
騎士が上層に行けば、街全体を見回せる展望台のような場所に出る。露台には、大弓を手にした巨人がおり、背後には大槍の如し矢が何本も壁に立て掛けられている。最初は「あんた誰?」とそっけない態度の巨人も、騎士が友誼を示せば「いつでもばんぜん」と応じてくれる。今後は、きっと大弓によるミサイルのような射撃で支援してくれるのだろう。
「あ、そうそう。ミケと言えばだけど」
思い付いたかのように弟は言う。
「姉貴って、大学で神学とか哲学でもやってんの?」
「ん? どういうこと」
猫と私の履修科目に何の関係があるのかと思い尋ねれば。
「だって、ほら」
弟は縁側を指差す。その先を見れば、ミケが横になって日向ぼっこを楽しんでいる。小さな――それこそ猫の額程度の――庭を向いているため、彼女の表情を窺うことはできないが、きっと心地良さそうに目を瞑っているのだろう。
問題はそこじゃなくて。
彼女が枕にしている、皮革の装丁が施された分厚い冊子である。
日本にいる間に、少しずつでもいいから読み進めようと思い、店舗の本棚から最も易しい内容であろうものを一冊持ってきたのだ。
あちら側の歴史や宗教観を学ぶために。
ひいては私の裡に信仰を宿すために。
正しき目的で奇跡を扱えるように。
今度こそ誰かを呼び戻せるように。
尤も、日本に帰還した直後は本を開く気力もなくて、テーブルに置いたままであったと記憶していたのだが。
「ミケ、来てたんだ」
「うん。ついさっきね。姉貴が風呂入ってるときかな。膝に乗りたがってウロウロしてたけど、脚痛いからダメだって追い払ったらあの通り拗ねちゃってさ。代わりにその聖書っぽい本をそばに置いたら枕にしちゃった」
何でも匂いと手触りが気に入ったってさ、と弟は悪びれもせずに、ミケの心を勝手に代弁する。
改めてミケを見れば、そっぽを向いているし、確かにいじけているように見えないこともない。片耳と尻尾の先端を時折ぱたぱたと動かすあたり、自分が話題に上がっているのを理解しているのかもしれない。
猫は自分の名前を認識しているという研究結果もあるらしいし――確か上智大学の研究だったか。ミケに限って言えば、反応してくれるかは機嫌によるところが大きいのかもしれないが――仮令人の言葉を話さずとも、仕草や鳴き声、視線や表情で意思疎通はできるのだ。猫だけに限らず、動物というものは人間が思うよりずっと賢いのだろう。
足音を立てぬように、そっとミケに近付いて縁側のへりに腰掛ける。
空を見上げれば、雲ひとつない快晴であった。どこまでも透き通るような、爽やかな群青色が広がっている。初夏と言うにはやや遅い、昼下がりの真っ白で暖かい太陽光が燦々と降り注ぐ。
何となしに指輪を嵌めた右手を空に翳せば、金色にぴかぴかと輝きを放つ。女神の寵愛と加護が込められているかのような、えもいわれぬ、しめやかな神性を帯びた光であった。
高い塀を越えた先、遠くの空から風に乗って聞こえてくるのは蝉達の合唱である。ここが関東の郊外であること、そして、じりじりという啼き声から察するに油蝉だろうか。
八月も半ばになったというのに暑さを感じないのは、今年が冷夏であり気温もそこまで高くないこともあるが、庭先に弟が打ち水をしてくれたからだろう。
庭の隅、椿と躑躅の茂みに隠れるように鎮座する苔生した石灯籠はしとどに濡れて、ぱやぱやとした苔の常磐色と、ざらざらとした御影石の藍墨色が際立っている。
この間、鴉揚羽の幼虫がとまっているのを確認した夏蜜柑の低木、肉厚の光沢ある葉は雫に濡れている。大学の夏期休暇が終わる頃には、きっと黒々とした美しい翅で羽搏いてくれるのだろう。蟻か雀に食われなければという前提がついてしまうが。
敷石の凹んだ箇所には水溜まりができて、きらきらと晴天を反射している。
ミケは、その水溜まりを踏んで、とことこと鞠を転がすようにやってきたのだろう。
縁側には濡れた肉球の跡が乾かずに残っている。
(温かい。人間には、やはり太陽が必要なのだ)
日光を浴びるのは随分久々のように感じられた。向こうにも太陽らしき恒星は存在するし、私も当然昼間にしか活動していなかったのだが。月と雪の印象が強いせいか。それとも、あの悪夢のせいか――。
私の気配を察知したミケが、のそりと身を起こす。かと思えば、大きな欠伸をひとつしたのち、また気持ちよさそうに眠ってしまう。元野良猫とはとても思えない、暢気な様子である。猫の語源が寝子だというのも、強ち間違いではないのかもしれない。
指先で彼女の頭頂部と首回りを控え目に撫でれば、ふぅ、とどこか不満そうに鼻から息を吐いたのち、ごろごろと喉を鳴らす。
「ねえ、ミケ。眠っているところ悪いんだけれど」
あなたが今枕にしている本は私のものなの。返してくれないかしら。
代わりに私の膝を貸してあげるから――と言おうとして。
一瞬、何かが。
絶対に看過できぬ黒い影が――違和感が過った。
私は、追い詰められた鼠の如く脳内のあちこちを駆ける閃きの尻尾を捕まえて――お前は何を知っているんだ、今すぐ洗いざらい吐き出しなさいと脅して――そして気付く。気付いてしまった。
一体どうして。
弟は、この本が神学ないしは聖典だと分かったのだ?
悟られぬように振り返れば。
弟は、かちゃかちゃとコントローラーを操作して、ゲームに集中している。
刑場らしき広場を舞台に、騎士と玉葱おじさんが、炎を纏った巨大な悪魔と戦っているところであった。
弟が愛飲している『Caster』の甘い芳香の影に。
腥い血の臭いと、穏やかな月の香りが漂っている――ような気がした。
英語については自信がないので、今からダクソ3を英語字幕にして一周やってきます(やってきました)。あ、ちなみに僕は某玄人様のファンです。素人様も好きです。考察兄貴姉貴も好きです。というかゲームというジャンルに限った話ではなく、動画投稿しているクリエイターの方々は心から尊敬しております。ラノベや漫画を辛辣に評価しているあの姉貴も好きです。いつか私もクソラノベとして紹介されたいなぁ。それはそうとエルデンリングのアプデorダウンロードコンテンツまだっすかね? え、他の新作発売で忙しい? それはそうでしょうけど早く手を付けないと古参からも新参からも見限られてしまうと思いますよ。高難易度と理不尽を履き違えている部分とか、カメラワークの悪さとか、周回重ねるごとにこちらの怯み値が弱体化されるのとか、露骨なボタン入力監視AIとか操作性の悪さとか諸々の改善お願いしますよぉ……。




